「W杯ベスト4」考

日本代表の監督が、ことあるごとに「ワールドカップのベスト4を目指す」と真顔で言っている。最初はその志の高さに共感していたが、あまりにくりかえすので懸念を抱きはじめた。
世の中には、サッカーを知っている人たちとサッカーを知らない人たちがいる。そして日本では後者が圧倒的に多数である。サッカーを知っている人たちは、もちろん南アフリカ大会で日本チームがベスト4に進出できるなどとは思っていない。その可能性は限りなくゼロに近い。1パーセントどころか、0.1パーセントでもあると考えるなら、それはもう誇大妄想だ。その意味では、夢見る人のことば(「寝言」ともいう)である。
つまり、「ベスト4」は意識の問題なのであって、現実的な目標ではない。高い意識をもって努力を重ねる、そのための目標である。「ベスト4になるために、おまえはそれでいいのか」という自分への問いかけになる。「勝者のメンタリティ」などということがよく言われるが、ろくに勝ったことのない日本にはもちろんそんなものはない。その代わりになるものとして、思いを高くもち、みずからを律すべき目標としてこれを掲げているのだ。
南アフリカでそれが無理なのをいちばんよく知っているのは、誰よりも当の監督自身である。目標が達成できなかったら、監督はボロカスに言われる。達成不可能な目標を掲げているのだから、大会後失敗をなじられるのは今から予定されているようなものだ。非難嘲笑を浴びる立場にみずからを追い込むようなことをしている当人が言うのだから、この目標は支持されなければならない。「1勝1敗1分け」「予選リーグ突破」が目標としては現実的だ。それが達成されれば大成功だ。だがその可能性すら五分五分なのである。そんな「志の低い」目標であってすら。ならば、事後のボロクソボロカスを覚悟した上で、炬火を思い切り高く掲げるのはいいことだ。


しかし、あんまり公にくりかえしすぎではないか。
マスコミが調子に乗ってそればかり書く。威勢のいいスローガンが大好きだから。スローガンを使えば自分の頭で考えなくていいから。自分の頭で考えない人たちが世の中の大多数である。彼らはマスコミに考えてもらっている。マスコミはマスコミで、スローガンに考えてもらっている。スローガンが背景を離れてひとり歩きを始める。それに乗ってしまったら、国民は標語好き、マスコミはあおるだけあおってあとはポイという性質のこの国で、「事後」はどうなる?
われわれは、もし大会でベスト8なら大絶賛、予選リーグ突破(ベスト16)でも称賛を惜しまない。予選リーグ敗退であっても、戦いぶりによっては称賛する用意はある。
だが、「ベスト4」が目標だとたきこまれた「サッカーを知らない人たち」は、ベスト8ならさすがにほめるだろうが、予選リーグ突破というすばらしい結果に対して称賛という正当な報酬を与えるかどうか、懸念がある。まして予選リーグ敗退となったら、「サッカーの死」となってしまわないか。日本におけるサッカー人気が絶望的に損なわれないか。恐れるのはそこだ。


日本には野球がある。これが日本人の目を惑わせてしまう。野球なら「ベスト4以上」というのは最低限のノルマであって、惨敗だった北京五輪でもベスト4である。銀ならいつでも取れるソフトボールで金を取って大騒ぎする「遠近法のない人たち」の多いことよ。ローカルな存在がグローバルな存在を圧迫するという現象はよくある。インドではきっとクリケットがサッカーを圧迫しているのだろう(野球ファンとはクリケットファンのことである。世界的に見れば、野球の存在はクリケットほどでしかない。逆に言えば、クリケットファンも野球ファンほどには世界にいる。日本にいないだけで)。
「勝つ日本」は、もちろん日本人なら誰でも好きだろう。だが、「勝つ日本」が好きならゲートボールをオリンピック種目にすればいいのである。最初の2、3大会は金が取れる。「無敵」なんておもしろくない。おもしろいのは「ひしめく強敵」であり、「勝ったり負けたり」だ。
われわれは、「勝つ日本」が見たいのではない。最終的にはそれも見たいが、それよりも「前に進む日本」が見たいのだ。到達不可能な目標に向かって、愚直に、真摯に、何疑うことなく努力する者たちが見たいのだ。それによって奇蹟が引き起こされるなら、それも見たい。起こらなかったら、それも見たいのだ。


日本チームのこの「目標」をどう思うか、達成可能かという質問を、サッカーをよく知る外国の人々にぶつけてみたらおもしろいだろう。反応はまず、「失笑」か「冷殺」である。
こういう質問がおもしろいのは、その答えにいろいろなものが映し出されるからだ。そこにはもちろん問われた人の性格も出る。「アホか!」と怒り出す人もいるだろうし、気の毒そうなそぶりを出さないようにしながら、ことばを選んで当たりさわりのない方向へもっていく人もいるだろう。無言でロンドンの賭け屋のオッズを示す人もいよう。
だが、変数はそれだけではない。誰が問うているかによっても答えはちがってくるはずだ。薄っぺらな人間やハッタリの多い人間(日本人にもけっこういる)が聞いた場合と、監督のように知的で謙虚な人(あの人はあの顔で損しているが、なかなか知的だと思う)が聞いた場合では、当然返ってくる反応もちがう。そういう人がそういう人に問いかけたときの答えは、ぜひ知りたい。
つまり、「問われるのはおまえだ」。まあ、問いとはすべてそういうものだけれども。


(まったくの余談だが、「W杯ベスト4」は、たった6文字の中に漢字・カタカナ・ローマ字・アラビア数字と4種類の文字が入っているのだからすごい。かなに直せば「ワールドカップベストフォー」と13字ですよ。漢字の場合そういうことはよくあって、たとえば「志」はかな5文字(「こころざし」)だが、日本語においてそういう性質をもつのは漢字に限らないことがここからもわかる。「志」の場合、ローマ字入力するとkokorozasiと10回(プラス変換キー1回)も叩かなければならない。たった1字、たった7画の文字なのに。「憂鬱」なんて、合わせて40画。手書きだとそれこそユーウツになってしまう字だけど、ワープロで打つ分にはyuuutuと6回ですむのだ。その手間から、「志」から遠ざかり「鬱」に近づく人々がふえるのではあるまいか、IT時代には。―形而下的考察。)


ともあれ、これはいろいろなことを考えさせてくれる発言ではある。その意味で、考えるためのよいレッスンだ。しかし、ゲームを見ず、スコアだけを見る絶対多数の人たちの大会後の反応はやはりこわいのである。