備忘録/挑戦者たち

外国で外国人に日本語を教えるというのは、おもしろい経験である。
日本にいれば、学習者はつねに日本語のさまざまなテキストを目にしているのだから、それをなぞる形で訂正していける。だが外国、それも日本から遠い外国では、それがかなわないから、日本語の純粋培養というか、論理的に押してくる。自分の頭の中から文をつむぎだすのである。自分の知っている文法や語彙から、これで正しいはずだというものを書いてくる。もちろんそれはまちがっているのだが、どうしてそれはまちがいか、どうしてそうまちがったかを考えさせられ、一面やっかいではあるが、他方ではなかなか楽しい。
むかしツァイト紙で箸の特集があり、日本風の味を出すためにであろう、箸使いの写真に添えて「箸は頭脳と器用を訓練する」と墨書されていた。ドイツ人が作り、筆もとったとおぼしい。うーむ、と思った。構文として分析すればそうまちがってもいないのだが、全体として非常に奇妙だ。いわば、朝日新聞にアラブの生活文化の特集があって、そこに日本人がアラビア文字で書いたこんな文が載っているのをアラブ人が見たときの感じ、である。
「器用」はもともとは名詞なのだろうが、現代語では形容動詞の語幹として用いられる。「静かな」の語幹を名詞として、「静かがあたりに満ちていた」「静かを破る」と言ったらおかしいように(静御前か、というツッコミがはいるところ)、「器用」を名詞にあつかうとヘンだ。この部分はたしかに誤りであるといえるが、ほかの点でも、「訓練する」も運動や技芸などの具体的な動作について言われることが多いので、「頭脳を訓練する」には違和感がある。物が主語になる構文は現代日本語では珍しくないけれど、いきなり「箸」に主語に立たれて命題をつきつけられると、やっぱりちょっとひるむ。
日本人なら、「箸は頭と手先をきたえる」「箸を使えば頭と手先がきたえられる」、あるいはせいぜい「箸の使用は頭脳と技能を鍛錬する」と書くところだ。
だが、この文には何ともいえず捨てがたいものがある。こういう「挑戦」に身をさらしつづけるのは、けっこう楽しいことなのである。
(あの文の読後感はほかにもある。おれの書くドイツ語もこんなものなんだろうな。自分はこんな文を見て喜ぶけど、そんなヘンタイは少ないだろうな。――たしかに。)