備忘録/夜寒の晩に

村上春樹唐十郎ドラマトゥルギーは似ているのではないか。肌合いはかなり異なるが、「どこにもない国への旅」という部分はよく似ている。小説を読まぬ私が村上春樹ばかりは読むのも、きっと唐好きという部分に響くのだろう。
高橋源一郎の「日本文学盛衰史」は「青年の物語」であった。明治文学の「オールスター総出演」をうたう。「スター」というのは、岩波文庫新潮文庫に今も作品のある作家という意味だろう。それはつまり読まれているということで、今も生きている証拠である。しかし、たとえば正岡子規などはたしかに「スター」のひとりであるはずなのに出てこない。子規の場合は短歌・俳句で小説・近代詩でないためでもあろう。だが露伴や鏡花も見えないし、逍遥の姿もない。一葉も、紅葉も。なるほど樋口夏子は登場するが、あの場面で女性が必要だったから出てきただけで(明治文学に女流スターは少ない)、あれは一葉ではない(彼女の性格のある部分は写されているが)。「スター」ではないかもしれないが、ぜひ登場願いたい緑雨も見えぬ。紅葉はちらりと現われはするが、「紅露逍鴎」と並び称された大家のうち、登場人物と言えるのは鴎外だけで、それがこの小説の「スター」たちの性格を物語る。つまり主役は、西洋の小説を読んでいた人たち、西洋思潮の影響を受けた人たちなのである。そういうものと切れていた人に対しては評価の基準がないのだ(英文学者の逍遥が漏れるのは、歌舞伎的シェイクスピアという古めかしさのためであろう)。紅葉の出る場面が、死を前にして丸善にブリタニカ百科事典を買いに来るエピソードであるのがまさに示唆的である。
明治というのは、漢詩を作るのがふつうであった時期となくなってゆく時期の交差点であり、「天保の老人」を「明治の青年」が葬っていく過程であった。現代は「明治の青年」のみを継承したのである。おもしろい小説ではあったが、これに登場しない人たちの明治文学史が読んでみたいものだ。