備忘録/行かなかった人々

ちょっとした発見や思いつきで、まとまった文章を書くには足りないものを、忘れてしまわないようにここにぽつぽつ書きつけておこうと思う。「悲しき玩具」は誰にもある。


<行かなかった人々>
今の時代、小金があって暇がとれれば、猫だろうが杓子だろうが海外へ出かける。「行くこと」がこんなに当たり前になると、自然「行かないこと」の価値に目が向く。林達夫植草甚一は、それぞれヨーロッパ文化・アメリカ文化についての第一人者というか「達人」であったが、彼らがまさに通じていたヨーロッパないしアメリカへ行ったことがなかった。晩年にはついに旅して実地に見たけれど、彼らの時の盛りに求められるまま仕事をこなしていた時期には足を踏み入れていなかったのである。実際に行かなくても、ただちょっと行っただけの連中など足元にも及ばぬ該博な知識を積んでいる。こういう人こそ尊敬に価する。
ヨーロッパの林達夫アメリカの植草甚一、もう一人、ついに中国に行かなかった第一級の漢学者がいればかっこうの三幅対になるのだがと思っていたら、白川静がいた。年譜を見ると、この人も中国大陸に歩をしるしたのは最晩年らしい。これでそろった。彼らの前の時代なら、洋行しないのは珍しいことではなかった。後の時代なら、誰も彼も外国へ行く。これらの人々は、青年期・壮年期を戦争と戦後の1ドル=360円時代にふさがれていた昭和という時代の子である。
そこへまた、益川敏英氏という人が出てきた。外国文化研究とちがい、物理学には「当該国」などなく、世界中どこでもやれるはずだから、外国へ行かずとも構わぬようなものだが、ノーベル賞をもらうほどの学者が今の時代にパスポートすらもっていなかったというのはおもしろい。英語が苦手というのがその理由らしいが、旅行や学会には行きたくなければ行かなくていいけれど、物理学においても世界の第一線の研究を知る必要はあっただろうに、それはどうしていたのか。数式は世界共通のイデオグラムだから、テクニカルタームがわかっていれば英語で書かれた論文もけっこう読めてしまうのか、それともそんな作業も日本語で足りるのか。ちょっと知りたい。何にもせよ、初めての海外旅行がノーベル賞授与式だったというのは、人ごとながら何だかうれしい。