インドなネパール、日本なネパール

ネパールの車のナンバーはインド数字で書かれている。読めない。日本のナンバープレートが漢数字で書かれていて、それを(中国人以外の)外国人が見て困っている、というのを想像すればいいのだが、インドですら洋数字を使っているのに、なぜネパールがそうするかね? 小包を送った受取証に代金が書いてないので聞いたところ、ここにあると言われた。インド数字で書いてあるのである。こちらのほうは日本でも漢数字で書くことはあるからわかるが、ナンバープレートは困るよ。そしてこの件のもっともおもしろいところは、なぜインドでないネパールがインド以上にインドなのか、という点だ。
王制時代にはヒンドゥー教を国教としていたそうだ。インドはそうしていないから、当時唯一のヒンドゥー教国家だったわけである。統計によると、ヒンドゥー教徒は81.3%、仏教9.0%、イスラム教4.4%だという。インド(78%)より比率がわずかに高いだけの8割でヒンドゥー教国家だなどと言ってはいけないが、要はイスラムなのだろう。ネパールにも無視できないほどいるけれど、インドの場合は13.4%で、比率のみならず数として一大勢力で、ヒンドゥー主義の主張は宗教紛争となるだけだから(なっているし)避けられる。その点ネパールは大胆になれるのだ。
仏教も大きな勢力ではあるけれど、仏教(チベット仏教)プロパーとしては山地のチベット系民族の宗教であるか、あるいはヒンドゥー教との二重信仰であるか、という形をとる。もともとインドの宗教であり、釈迦はラーマの化身であるとされてもいて、多数派ヒンドゥー教徒から見ればヒンドゥー教の異端の一派ぐらいに考えられているのかもしれない。
そもそもがインドである。山地にあり、軍隊が強く、イギリスと戦って善戦したので、植民地化されず独立を守っていて、そのためインドの一部とならなかった、ということだ(現在のインドは英領インドの後継国家である)。インドの一部として見れば、チベットへの移行空間として独特であるが、山地の少数民族は別として、ヒンドゥー教を信仰する大多数の人たちの生活文化はまったくインドだ。サリーを着るし、額に赤い印(ティカ)をつけ、女性は手にメンディーという模様を描く。食べ物も、主食が米であるところが西北インドと異なるが(東インド南インドとは同じ)、あとは豆カレー、野菜カレー、辛い漬物アチャール、ヨーグルトなど、インドと同じものが金属盆に盛って出される。牛が町中をゆうゆうと歩いている風景や牛肉を食べないこと(しかし水牛は盛んに食べる)、カーストがあること等々、インドでしかありえない。ネパール語ヒンディー語の同系語だし、文字もヒンディー語と同じデーヴァナーガリー文字である。幅150−200キロの間に標高8850メートルから70メートルまで下る国土のうち、インド国境沿いのタライと呼ばれる低地は掛け値なしのインドで、ラーマ王が婚礼を挙げたのも、ゴータマ・シッダールタが生まれたのもここである。インド文明の重要な周辺部であったわけだ。
ネパールの観光ビザは簡単に取れ、かつ窓口の係員が微笑むというインドでは考えられない対応をして、観光ビザさえ取りにくいインドとは雲泥の差を見せるが(国の基幹産業が観光業で、外国人料金を高く設定して金を搾ろうという意図も当然あろう)、就労ビザはネパールも非常に取得がむずかしく、ここではインドと対等である。


だが、ネパールは日本とも似ているなと感じる。山国で、土地が狭く、道が狭く、だからスズキの軽が重宝される。アルトでないタクシーなんてあったっけ? 寺も非常に小さく、寺院というよりお堂という感じである。完全に木造でなくとも、木造部分が多い。屋根が多重で、三重塔とか五重塔を思わせる。
いわゆる照葉樹林文化の東端と西端でもある。タケノコを食べているのには驚いた。
地震が多いという共通点もある。地震国に対して並々ならぬ共感を覚えるのは、日本人の特性のひとつである。ネパール人のほうでもきっと共感はあるだろう。
精強勇猛なグルカ兵が有名な一方、よく微笑む人たちでもある。こちらが微笑めば、必ず微笑み返す。この点はインドと違い、むしろ東南アジアに似ている。「菊と刀」か?
国旗もおもしろい。ヨーロッパの発明した国民国家に覆われている今の世界では、ヨーロッパの決めたルールにのっとって国歌国旗をもたなければならないことになっていて、植民地から独立した国々ではヨーロッパ式に横長長方形を何色か(多くは三色)に塗り分ける旗を作って国旗でございとしているが、日本の日章旗はヨーロッパ方式とは外れて独特であり、扇や鉢巻などにも使えるなど独自のありかたをしていて誇らしく思う。しかし独特ということではネパールはさらに上手で、長方形ルールを完全に無視し、中に太陽と月を描いた三角形を重ねるという奇っ怪な形態をしている。あっぱれである。独立国であったればこそ。エンブレムを中に置いただけのヨーロッパ流三色旗である旧植民地インドとは筋合いが違う。
ネパールではヒンドゥー教と仏教が二重信仰のようなありかたをしている。ヒンドゥー寺院に仏塔や仏陀の像がある。各人はヒンドゥー教徒である、仏教徒であると一応認識しているのかもしれないが、どちらの寺院にお参りしてもかまわない融通無碍な寛容さを示す。この点も、平然と神道と仏教の二重信仰である日本人には違和感がない。ヒンドゥー教原理主義者や仏教原理主義者(そういう人もいるに違いない)から見れば、いやキリスト教徒やイスラム教徒から見ても不純で不快であろうが、なに、これでいいのだよ。
僧侶階層が妻帯しひとつのカーストをなしているのもネパール仏教の大きな特徴であり、それは司祭カーストのブラーミンが妻帯しているのに倣ったのかもしれないが、同じく僧侶妻帯の日本にも似る。日本でもお寺さんはお寺さん同士で結婚することが多く(独特の生活習慣があるので)、つまり準カーストと言っていいようなありかたに見える。これも似ている(日本でもっともカースト的なのは梨園だろう。主役を演じる家筋、脇役の家筋などが決まっているところも)。
ネパールにはクマリという生ける女神がいる。あるカーストの女の子が選ばれて、初潮を迎えるまでの間女神の化身である少女神として崇拝されるというものだ。1984年から91年までクマリだったラスミラ・サキャは、「回想 神から人間へ」(スコット・ベリーとの共著、江崎秀隆訳、カトマンドゥ、2011)の中で、「外国からの訪問者の中で特に私が好きな人達がいました。それは日本という国から来たと教えてもらった人達で、私が窓辺に現れると必ず拍手をしてくれました。彼らが私を見る様子から私は日本の人達に理解されているように思います」(p.28)とか、「私は日本人と私達ネパール人との間にはある種の「絆」がある様にも感じました。それというのもこの日本の人達が私個人と云うことでは無く、いつも私達の文化そのものを理解し敬意を払っていてくれている様に思えたからです。その文化の密接さという観点から云うと、ネパールは西洋に比べて日本により近いのではないかと思います」(p.162)などと言っている。
すべてのクマリがそんな印象を持つのかどうかは知らないし、彼女の個人的な意見かもしれない。しかし、なるほどとも思った。
クマリは斎宮を思わせるところがある。斎宮の場合は未婚で処女を通すのではあるが、女性であって、初潮前の少女とは異なる。平安時代春日大社などに奉仕した斎女は少女だったようだが、斎宮にせよ斎女にせよ神に仕えるという点では神そのものであるクマリとは違うのだけれども、似ていることはたしかだし、クマリが山車に乗って巡幸するインドラ祭では、クマリの山車のほかにガネシュ、バイラブとしてそれぞれ山車に乗る2人の少年がいるのだが、彼らはこの祭りのためだけに選ばれるのであって、まったく日本の祭りに出る稚児と同じだ。
何より、日本には最近まで現人神がいたし、「人間宣言」をしたあとも常人とは思われてない。女神でなくなったあと普通の女の子にもどるために苦労したラスミラ・サキャの回想録は非常におもしろかったが、読んでいる間感じたのは、要するに平民(もはや華族はいないから、結婚相手はどうしても平民となる)と結婚し臣籍降下した皇女だな、黒田清子さんが書けば似たものになるかな、ということだ。しかり、われわれにはクマリがよく理解できますよ、ラスミラさん。