交通に寄生者多し

カトマンドゥのパシュパティナートというシヴァ寺院へ行ったとき、道を歩いていたら男に呼び止められ、1000ルピー払えと言われた。外国人は料金を払うことになっているのだと言う。ネパール人は無料。そのことはガイドブックで承知してはいたが、柵などで仕切られたエリアに入るときに払うものだと思っていた。仕切りなど何もない、人々が大勢行き交っている道である。これには驚いたし、腹が立った。肝心の寺院や周囲のいくつかの寺院はヒンドゥー教徒以外は入れない。つまり、道を歩くだけで1000円払えというわけだ。むろん払わず、背を向けて立ち去った。
施設に入るとき、あるいは柵などで囲われた区域に入るときに入場料を払うのはわかる。それが高くてもしかたがないし、自国民無料・外国人高額でも、腹立たしくはあるけれど、決まりごとならやむをえない。だが、これはただの道なのだ。寺院のかたわらを通るとはいえ。自由な通行を妨げられて金をむしりとろうとされた過去の不愉快な思い出が浮かび、条件反射的に拒絶した。
ガイドブックを見ると、ネパールにはそのような場所が多いようだ。王宮広場とか、観光価値が高いところはみなそうなっているらしい。よろしい、それならそんなところには行かない。観光はだいたいが嫌いである。観光業は餌付けに似ていて、観光業者はいわば餌付けされた猿のようなものだ。白人の餌に群れるのは見よい眺めではない。それよりも、人の顧みない小さくささやかなもの、しかし当該文化の本質がうかがい知れるようなものを好む偏った習性をもっているので、むしろ好都合かもしれない。
しかし、自分一人ならそれでいいが、お客さんが来て案内することになればそうも言っていられない。そのときは払うことになるだろう。是非もない。
思い出される不愉快の数々。ルーマニアなどでは車掌がありもしない故障を言い立てて金をむしろうとする。こっちは列車に乗っている身だから、いわば身柄を押さえられている状態なので、たちが悪い。コンパートメントに一人でいるとねらわれる。
不良警官が通行人や車を呼び止めて難癖をつけ、金をまきあげることもよくある。実によくある。実際に何か違反をしていて、目こぼしのため金を渡す運転手も多いので、彼らによって助長されている側面もあるのだが。
逆に、税関や国境検問は通行をさえぎり検査をする当然の権利も義務ももっていて、それで時間をとられることも多いが、不当な要求をされた経験はほとんどない。
タクシーは、メーターで走るなら非常に便利な乗り物だが、私が行くような国にはメーターで走るタクシーなどないのが普通だ。乗る前に値段交渉をしなければならない。むろん外国人にはふっかける。交渉がまとまっても、途中で値上げしてくることも珍しくない。雲助、胡麻の蝿の類である。世界のいたるところに江戸時代がある。
天下の大道の画竜点睛、乞食は心騒がせる存在だ。私もけっこう歳は取っているが、日本で乞食は見たことがない。浮浪者はあるが。日本の乞食は東京オリンピックとともに消えたらしい。だから異国で初めて乞食に相対したときは、途方に暮れてしまった。ムスリムにとっては施しは義務である。ムスリムでなくとも、ゆとりのある者が困っている者に施すのはあるべき行ないだろう。といって、袖を引いたりまとわりついたりする職業的とおぼしき乞食にやるのは業腹だ。いろいろ迷った末、ポケットに裸銭があるときはやる。なければやらない、という原則を定めた。つまり、財布を取り出してまではやらない、ということだ。そして、くれくれとねだる者には決してやらない。そのように自分のルールを決めてからは、心穏やかに乞食に対せるようになった。
もちろんこんな態度は最善ではない。あれこれ考えず施すのが最善だ。だが、私程度の者には最善は望むべくもなく、次善くらいが相応である。乞食諸氏は諒とせられよ。