漢字と内閣

もとから高くなかった麻生内閣の支持率だが、さらにがくんと落ちたらしい。失言もあったし、指導力に疑問を感じさせられる場面も多かった。漢字の読みまちがいだけが支持率急降下の原因ではないが、これもかなり響いただろうことは想像にかたくない。
さまざまな疑問がわく。
注意してくれる人がいなかったのか?
まるで裸の王様だが、実は日本のタテ社会では上の者は裸の王様になりやすい。上司のまちがいは指摘されにくいから。だからいい先輩・友人・家族をもつことが重要で、これに欠けていたのではないかと疑われる。
さらに、注意してくれていて、なおかつ直らなかったのだとしたら、学習能力に問題があるのではないか?
また、首相は長年国会議員をやっている。国会での論議、特に答弁や官僚のレクチャーでは「詳細」や「踏襲」ということばは頻繁に(ハンザツに、ではなく)使われていたはず。その「ショウサイ」や「トウシュウ」という語を何の意味だと思っていたのか?
「フシュウ」はまだいいが(いいのか?)、「ハンザツ」はキビしい。「ヒンパン」と「ハンザツ」は、かすっているところはあるが、意味の異なる別語として存在するものだからなあ。「首脳が「繁雑」に往来する」って、訪問をいやがってるってことでしょ。


もちろん、漢字を読みまちがえるのは首相だけではない。漢字はむずかしいのだ、みんなまちがえる。ただ、漢字力は年齢や地位と相関関係があって、ふつう位や年が上がるにつれてまちがいの頻度は大きく下がる。それだけに、この二つにおいて高い者のまちがいはイタい。そして、顔から火が出たり、冷や汗がにじんだり、働く日本国民は皮膚感覚としてそのマズさがわかるのだ。
小学校で毎週漢字テストがあって、できなかったら居残りさせられて、なんてところから始まるわれわれの漢字との長いつきあい。日本人は、難しい漢字がすらすら読める人に対して「えらい!」と反応するよう刷り込まれている。勉強するとは漢籍を読むこと、漢字を知ってる人がえらい人であった前代からの伝統が脈々と続いているのだろう。
前回支持で今回不支持に回った人の理由に漢字読み違いがどれだけ影響していたのか、数値でわかるとおもしろいのだが。どこかの新聞社がやってくれないか。


民放の娯楽番組は、ケラケラ笑えるものを作りたい、視聴率を取りたいというだけでやっているので、それが結果的に鋭い批評となり、ぬるい教養番組の達しえない高みへ突き抜けてしまうことがままある。
明石家さんまの番組に、街角で通行人をつかまえ自分の経験を英語で言わせるというコーナーがあった。テレビだから特に笑えるひどい例を好んで放映したのだろうが、それにしてもひどい。私も英語ができるわけじゃないけども、「五十歩百歩」じゃきかない疾走だ。千歩はいってる。彼らもすべて高卒、ことによると大卒で、6年も8年も英語を勉強したはずだが。「学校へ行く」は、ほぼ例外なく「スクール・ゴー」。「私は」は「アイ・アム」で、「私は食べる」は「アイ・アムぅー、イートぉー」になっちゃう。過去形無視も大きな特徴で、だから「私は食べた」も「アイ・アムぅー、イートぉー」。日本人の英語誤用総まくり。録画しておけばよかったと思う。毎週4時間も5時間も授業して、本屋が英語の参考書や会話教習本であふれかえっているこの国のあられのない現実。全国の英語教師必見であった。おもしろうてやがて悲しき、だろうけど。
(だけど、彼らがひねり出したあの「英語もどき」は、その文法構造において共通するところが多かった。発音体系もそう。だからもし彼らが互いにあの「アイ・アム・スクール・ゴー」語を話したとすると、みごとに意思疎通ができたと思われる。ピジンの発生現場に立ち会ったような気がする。)
島田紳助司会のクイズ番組には、出演者中予備テストで出来の悪かった者が出題者となり、ふりがなのない難読漢字や英単語の並ぶ問題文を読み上げさせ、他の者が解答するという形式のクイズがある。わからない字はむりやり読みをつけ、容赦ない誤読の連打。こちらも全国の国語教師必見である。
視聴者は漢字がろくに読めない若い芸能人を笑うけど、見下した笑いはその半分で、あとの半分は共感の笑いではないかと睨んでいる。視聴者だってけっこう読めない字があるはずなのだ。音読せよと言われるとウッとつまるが、意味はだいたいこんなものかと想像がつく字(魚へんの字なら魚の名前だろうというふうに)、黙読ならこなしていける字は多い。人名地名の読みなんて、まったく無法地帯じゃないか。黙読も音読もできるが、書くとなると、ことさらに太字、無用につづけ字でごまかす字もあるし。漢字のまちがいを言うなら、漢字を使うこと自体が大きなまちがいなのかもしれない。
このクイズの真にすばらしいところは、「まちがえても伝わる」ということである。出題者がひどい読みまちがいをしているのに、解答者はその字を正しく当てる。正答率はけっこう高い。誤っていて、なお通じる。これが感動的でなくて何であろう。


われわれは日々大いに誤用誤読にはげんでいる。極論すれば、正しい文、正しい語は理念のうちにしか存在しない。正しい語文を示す辞書や教科書はもちろん必要だ。だがそれと同じくらい必要なのが、誤用例の収集研究であるはずだ。実際のコミュニケーションにおいて伝達を担っているのは言語以外のノンバーバルな部分が9割とも言われるように、われわれが日常発する文は母語においてもかなりの頻度で誤りを含んでいる。そんな中で、脳の精妙な補正の働きによって伝達がつつがなく行なわれているのである。だから、誤りを分類整理して体系化し、原因を特定して処方を立てる研究の重要性は高い。病理学ならぬ「誤理学」であろうか(もちろん、そんな研究が進んだところで誤用がなくならないのは病気に同じ。医師も教師も失業はない)。
首相の誤りも、伝達だけを問題とするなら、発言内容はちゃんと伝わっている。威信が傷ついただけで。まちがいはまちがいでも、幼児の言いまちがいほど愉快で愛らしいものはない。まちがいは愛とは往々結びつくが、尊敬とは非常に結びつきにくい性質をもっている。首相にとっては残念なことに。


先のに限らず、クイズ番組では必ずと言っていいほど漢字の読み書き問題が出る。漢字は形・音・義から成り、この3つをすべて結んで把握していて初めてその字を知っていると言えるのだが、2つはわかるがあとの1つが出てこない(意味[義]も書き方[形]もわかるが、読み[音]がどうも、というように)ということはよくある。1つだけわかってあとの2つが、ということも多い。3つとも、では話にならないが。それでも、形声字が9割であるから、見知らぬ字でも字音はおおよそ想像できるものだ。だが字訓はそうはいかない。当て字もしかり。でも教えられると、字面を見直して、ああ、なるほどと思う。訓読みは非常にクイズ向きだ。見方を変えれば、われわれは毎日クイズをしながら生きているようなものである。日本人が向学心に富んでいるとしたら、その大きな部分は日頃絶えることなき漢字の訓練によって涵養(ハコヨウではありません、総理、念のため)されているにちがいない。
暮れには今年一年を表す一字の漢字が選ばれる。ワープロ変換ミス大賞なんてのもある。書店にはふつうのクロスワード雑誌と並んで漢字クロスワード雑誌がいくつも。日本人という連中は、漢字で困りながらも、その漢字で存分に遊んでいる。漢字をしゃぶりつくしている。こういう国のトップに求められるものは、それはあるでしょう。


われわれは英語ができるのを「かっこいい」と思うような刷り込みもなされているが、これは漢字とはちょっと違う。
英語やローマ字の表記は街に多いし、映画の題名はいつごろからか英語の原題をカタカナにするだけのものが氾濫しているし、歌の歌詞でも実に他愛のないことを英語で言ってよろこんでいる。英語がかっこいいと感じる人の多さを裏付けるが、もちろんそれは英語ができないことの正確な反映である。
漢字が読めない首相は、英語は得意らしい。だが、英語ができることは信頼感につながらず、漢字ができることはつながる。英語は「かっこよさ」以上にはあまり進まないみたいなのだ。身を修め天下国家を治める人には漢字の教養が求められ、英語は通弁の世過ぎという評価をなかなか出ない。封建の気風はかくも根強い。外国人が日本を知りたいと思ったら、江戸時代をまず知るべきである。
漢字に対する評価が正当なものであるかはともかく、英語に対する評価はきわめて正当である、と言っては英語に酷すぎるかもしれないけれど、英単語を言いまちがえて支持率が急降下する国より、漢字を読みちがえて下がる国のほうがましだと思う私は、やはり漢字に呪縛された一人だろうか(ノロシバではありません、念のため)。