麻生例解漢字教室

えーと、また首相の漢字の話題ですけど。
外国人に漢字を教えるという視点から首相の読みまちがいを見ると、典型的な誤読パターンを示しているので、これらを例として漢字学習を考えることができる。
マスコミは「ミゾユウの総理だ」などとはやしたてるが、「未曾有」を「ミゾウユウ」と読むのは、何か問題ありましたっけ、という程度の問題である。日本人で、かつ地位の高い人だから恥ずかしいだけだ。「有」は「ユウ」でしょ、と気の強い学生なら言い返す。漢字には音読みと訓読みがある上に、音にも漢音と呉音、さらに唐音や慣用音なんてのまである。ちなみに「ウ」は呉音で「ユウ」は漢音だ。唐音はごく少なくて漢音が大多数だが、呉音読みもけっこうある。呉音は古い時代に入ってきた語や仏教語に多いんだよ云々の説明をしながら、例外は教師の権力の源泉だなと気づくのだ。
「詳細」を「ヨウサイ」というのも、学習途上の者がする分には筋のいいまちがいだ。音符である「羊」は「ヨウ」と読むべきもので、「洋」「養」などは現にそうだが、「ショウ」と読む一群もある(「祥」など。ちなみに「群」の「羊」は部首[意符]で、音符は「郡」と同様「君」のほう)。音符「夬」は「カイ」だが(「快」など)、「ケツ」とも読む(「決」「抉」など)。こういう読みまちがいをした学生は、意符・音符から成る形声字の原理がわかっているわけだから、まずそれをほめた上で、直す。
「踏襲」を「フシュウ」と読むというのは、語彙としては適切な例でない。外国人が「襲」が「シュウ」と読め、「踏」が「ふむ」と読めれば大絶賛だから。だが原理上からは好適な例である。重箱読み(音−訓)・湯桶読み(訓−音の組み合わせ)というのはあくまで例外であり、音は音、訓は訓と続けて読む。「子犬」は「こいぬ」、「野犬」は「ヤケン」、「左右」は「サユウ」、「右左」は「みぎひだり」。自然に習得する日本人は音と訓がごっちゃになっていることがよくあるが、意識的に学習する外国人は音訓を割合に筋立てて覚えているので、音で「フ」と読む漢字、「シュウ」と読む漢字を言わせて、黒板に書いていく。「フシュウ」というのは、だから「腐臭」になるんだよ。におうの、ここ?
「頻繁」を「ハンザツ」。こういうまちがいもよくあるが、「繁雑」は別のことばだよ、よく見なさい。意味が反対になっちゃうよ。とりちがえて通訳したら、お客さんが怒るよ。同じコンテクストで使われることばで、ポジティブ/ネガティブなどのニュアンスが逆であるものをまちがえるのは、思わぬ誤解につながってしまうので注意しなければならない。
まちがえては恥ずかしいというポジションの人がまちがえるから問題になるわけで、まちがえても誰も驚かない外国人の日本語は、それでも通じるかどうかという点で判断される。ストラテジーも必要になってくる。要するに、まちがいだと即座にわかるものならOKだ。元の字が何かすぐわかる場合などほとんど問題なく、字がすぐには浮かばなくても、とにかくまちがいだとわかっていれば、前後の文脈から了解される。傷が浅い。読みちがえて別語になるのがいちばんまずくて、特に同じ文脈で使われる異なる方向の語ととりちがえるのはいけない。


子どもが学ぶのと同じで、「幼児特権」があるように「外国人特権」もある。だから誤りなど恐れなくていいのだが、その幼児が60過ぎても漢字をまちがえているようでは、あまり心楽しくはなりませんね。総理大臣だってまちがえると聞けば、漢字で苦労している彼らに慰めとなり、まちがいを恐れず物怖じしなくなるのだったら歓迎だが、日本のトップさえまちがえるんなら、そんなにがんばって勉強しなくてもいいやと思われては困る(もっと過激なのは、そんな漢字は廃止してしまえと主張するかもしれない。ディベートのテーマとしては格好だが)。どっちの反応になるか。「両刃宰相」と呼ぼうかな。ほめてるみたいでいいかもしれない。
また思うのは、読むなよ、話せ、ということだ。官僚の書いた答弁ペーパーを読み上げるからまちがう。もちろんそれもきっちりできるべきだけども、政治家は演説が仕事で、その演説はあの人得意なはず。まあその演説ではまま失言をするわけだが(まさに「両刃宰相」)。日本社会のあり方に応じて外国人も勉強するのだけど(日本語の需要は日本との関係でしか存在しないので)、日本社会の日本語の奇怪な部分が変われば、日本語自体がもっとのびやかになるのに、と思うことはしばしばだ。あんな誤読はたしかに情けないが、それを笑う人は掛け軸の讃が読めるのか。読める人は笑ってよかろう。そうでなければ、問題の別の側面に目を向けたほうがいい。漢字学習の第一義が役人になるための訓練だというのは科挙の時代からそうなのだが、いつまでそこにいるのか、ということである。