CWC雑感

何と評したらいいか、ことばに困る。ガンバ大阪マンチェスター・ユナイテッドの試合のことである。「惜敗」ではもちろんない。5点も取られれば完敗、惨敗だ。
しかし一方で、3点を取っている。サッカーのようなロースコアのスポーツで、3点取ればふつう勝っている。
5点も6点も取られるような場合、チームはバラバラになって、足は止まり、戦意も失われているのがふつうだ。しかしガンバは後半ロスタイムまでも走りまわり、戦意満々であった。相手が相手だ。あのチームに対して真っ向から挑んで、得点を重ねたのである。これだけ見れば「快勝」ではないか。「惨敗」と「快勝」のすわりの悪い同居。「善戦」とでも言うよりほかにない。
力の差は歴然としていた。3点のうち2点は、1−5とすでに勝負がついてしまってからの得点である。得失点差も総得点も結果になんら影響を及ぼさない局面なのだから、合理的な理由のない無駄ながんばりだ。
だが、敗戦は初めから明らかなのである。攻めても負ける、守っても負ける、何をどうやっても負ける。前半は0−0で持ちこたえて、後半にキーパーとディフェンスの間にボールを上げて、云々と考えるさえ空しい。決勝戦のキトなら知らず、ガンバのさして強くないディフェンスがマンチェスター相手に守り通せるわけがない。何点失おうが攻めを貫けというのは正しい決断である。最初からわかっていた「惨敗」のほうはいい。刮目すべきは「快勝」のほうだ。そして知る、われわれが長年待っていたのは「決断」と「貫徹」だったのだと。


サッカーには「天上のスコア」というものがある。すべてが理想的に整ったイデアの場でのスコアである。ガンバとマンチェスターの場合、それは0−4ぐらいであったろう。それが、さまざまな現実的物質的な条件に縛られ、世俗の垢や泥にまみれた実際の試合の場に移されて、「地上のスコア」になって現われるのだ。天上で0−3であった去年の浦和とACミランが、現実には0−1で終わったように。地上においては勝敗が逆転することだってある。今年のガンバは、0の上に3点を積み上げた。失点のほうも1つよけいにくらったが。
試合の前に、ガンバがやられる場面は十も二十も即座に思い浮かべることができた。しかしガンバの得点シーンはまったく想像することができなかった。播戸が倒されて遠藤がPK、というのがやっとだ。あるいは遠藤のフリーキックをキーパーがはじき、それを押し込む、とか。
後半終了間際、ゴールに突き刺した橋本のシュート。サッカー評論家諸氏、整列。あんなシュートをガンバが決めると事前に予想した人、一歩前へ。そんな人いやしないだろう。あんなのJリーグの下位チーム相手にもそうはないし、攻撃だけでなく強固なディフェンスも誇るマンチェスターのほうだって、めったにやられはしていまい。世界最高のキーパーの一人ファン・デル・サールが悔しげにポストを蹴っていたぞ。
一方で、ロナウドのヘディング、ルーニーの2点も想定外だった。ルーニーロナウドによる失点はもとより織り込み済みだが、ああも簡単に。代表チームとやる高校生のように見えたよ。こんなにも違うのか。それも前半ロスタイム、得点直後という気の利いたチームなら決して失点しない場面で、いとも簡単にやられた。ガンバが1点を返すと、すぐさま3点を立て続けに取る。懸絶、というのがこの場合の正しい日本語である。
けれどガンバの選手たちは、自分の身の丈で世界を測量した。あの試合を見て奮い立たないサッカー選手はおるまい。自分もあの場に立ちたいと願わない選手はいまい。
日常の場であるJリーグや天皇杯から頂上への階梯がたしかなものとして通じた。見通しが開けた。それは去年の浦和によってだが、今年のガンバの活躍でいっそう心躍るものとなった。「夢見る権利」が保障されたのである。
そのためにはアジアでの試練の場を経なければならず、その場に進むために国内で勝ち抜かなければならない。アジアへの「夢見る切符」は4枚だけ。それをめぐって熾烈な争いが起きるのは大歓迎だ。


ガンバの得点は、ブッシュに靴を投げつけたイラク人記者の行為と対比できる。相手に敬意(悲しいほど非対称的な)を抱いていた日本のサッカーチームと、憎悪と軽蔑しかなかったイラク人靴投げ男とでは、ベクトルはまったく逆だが。外面的には、それによって何も変わらない。銃弾ではない、ただの靴だ。当たりもしなかった。マンチェスター・Uにとってアジアの聞いたこともないチームとやる「準決勝」なんて、本来の世界一決定戦の前にFIFAが課したわずらわしい興行義務で、負傷者なく消化すればいいだけのこと。それを予定通り終えただけ。しかし、投げつけた側、得点した側の内面においては大きな出来事であった。
靴投げ事件をニュースで見て、労働争議のとき工場の高い煙突にのぼり、そこに数日居座ってがんばったという「煙突男」を連想した。戦前の出来事で、ただ寺田寅彦がその「オリジナリティ」を称えた文を読んで知っているだけだが。靴投げ男のオリジナリティもあれに匹敵するだろう。ブッシュに靴を投げつけるコンピューターゲームがすぐに作られ人気を博したり、あの靴と同じ型のを求める注文が靴会社(トルコ製らしい)に殺到したりしていることからもわかる。
それにしても、と思う。今のブッシュと同じ程度に憎まれていたはずのかつてのサダム・フセインに靴を投げつけていたらどうなっていただろうか。想像すらしたくない。逮捕し法廷に引き出して、政治的に何も足さず何も引かず、きっかり相応の量刑を科し、服役したのちは自由の身にする。当たり前のことを当たり前にする。それが馬鹿馬鹿しく無慚に流されたイラク人の血を無駄でなくする唯一の方法である。


CWCにもどれば、今季リーグ戦のさなかに高額の移籍金と年俸で中東産油国に引き抜かれたバレーはどう思っているのか、ぜひ知りたく思っている。移籍を早まったと悔やんでいるのか、ちょっと残念には思うが、別段後悔はないのか。というのは、高額の年俸と世界一決定戦での世界最高のチームとの勝負と、どちらかを選べと言われたら、日本の選手は10人が10人とも後者を選ぶのではないかと思われるからだ。
「世界基準」から見ればかなり異様な風景なのかもしれない。サッカーは元来貧しい人々のスポーツである。選手もファンも多くが中流以下の出だ。人気があるので巨額の金が動く。貧しい大衆から吸いあげた金が。サッカーのいやなところ、うとましい部分はすべて貧困と富に由来する。
だが日本では、サッカーは貧困とほとんど縁がない。富ともない。それは日本サッカーの最大の弱点とも見なしうるが、最高の長所でもある。今も大学生や大卒者の多い「高学歴スポーツ」であるラグビーほどではないが、サッカーもJリーグが始まる前まではかなりの程度そうだった。その頃の代表チームの学歴を数値化して出せば、日本代表は世界有数のポイントだったに違いない(ひょっとしたら世界一だったかも)。日本代表が優勝した唯一の世界大会はユニバーシアードだし。それはある意味では「不健全」なのかもしれない。そうなのかもしれないが、ほんとうに大切なものが大切に見える日本のサッカーには愛されるべき理由がたしかにある、と思うのだ。


ファン・デル・サールゴールポストを蹴ったとき、「天上のスコア」がことりとガンバの1−4に動いた音を聞いたように思った。私なんぞの感じたことだ、空耳かもしれない。動いたにしたって、ボロ負けに変わりない。しかし、0と1の間の距離は無限大なのである。よくやった、ガンバ。ワールドカップ・オーストラリア戦のばかげた敗戦以来たまっていたもやもやが、いっぺんに吹き飛んだよ。