ノアのいろいろ大洪水

鼠に悩まされていた町が退治してくれた者にほうびをやると触れ出した。しかし、ふらりとやってきた笛吹き男が笛の音で鼠を誘い出し、川でおぼれさせて駆除してやったのに、約束のほうびを出し惜しみ、怒った男が笛を吹くと今度は町の子どもたちが誘い出され、どこか知れぬところへ連れ去られて帰ってこなかったというハーメルンの伝説。ライプニッツは「この伝説の中には何か真実なものがある」と書いた(阿部謹也ハーメルンの笛吹き男」、平凡社、1974、p.203)。たしかに、この話には何か隠された謎がある、それを解きたいと人を誘う。美しい伝説は人の心を不思議に騒がせる。「ノアの箱舟」もそういう話のひとつだ。


箱舟が漂着したという伝説をもつアララト山のことを調べていたので、ノアの洪水についてもいろいろ文献あさりをすることになった。すると驚いたことに、これを表題とする本が日本でもたくさん出ているのである。
まず、金子史朗「ノアの大洪水 伝説の謎を解く」(講談社現代新書、1975)。著者は構造地形学者だそうだ。同じ新書で「アトランティス大陸の謎」「ムー大陸の謎」などというのも書いているので身構えてしまうが、基本的に真面目な本で、いわゆる「伝説を科学する」という類のものである。ノアの箱舟の話のもとになった古代メソポタミアの洪水伝説には、それを裏づけるような洪水の事実があり、それは遺跡の地下にある洪水の痕跡で証明される。シュメールの都市ウル遺跡の洪水層は紀元前3500年頃とされるが、これを7000−5500年前の高温期の海水面上昇によるものとし、シュルッパク・ウルク・キシュ遺跡の紀元前2800年頃の洪水層は暴風雨による地方的洪水と解釈する。北アメリカの洪水伝説も地質学的な背景から説明する。
A・コンドラトフ「ノアの大洪水 神話か事実か」(金光不二夫訳、現代教養文庫、1985)という本は、世界中の洪水伝説をひととおり見渡し、大陸を沈めるほどの洪水は可能かと検討して、氾濫、津波、暴風雨のメカニズムや、もっと長いスパンでの沈降・隆起、氷河の拡大と縮小にともなう海進と海退などを紹介する。ソ連という国は良質のサイエンスライターを数多く出した。この人もその一人である。「失われた都市・島・民族」「イースター島の謎」「レムリア大陸の謎」「失われた大陸」(講談社現代新書)、「ベーリング大陸の謎」(現代教養文庫)などの一連の水没もののほかに、「文字学の現在」(勁草書房)、「サイバネティックス入門」(白楊社)のような本も書いている。
ウィリアム・ライアン/ウォルター・ピットマン「ノアの洪水」(戸田裕之訳、集英社、2003)は、おもしろいことはかなりおもしろい。著者の二人はともに海洋地質学者で、コロンビア大学教授だという。海底地質調査の結果によれば、むかし黒海は淡水湖であり、今の海面下120メートルまで陸地だったと考えられる。7500年前にボスポラス地峡に水路が開き、海水が流入してエーゲ海・地中海とつながった今の黒海ができた。その流入はたいへんな勢いで、1日に15センチも水位を押し上げた。1年で54メートル、次の1年でさらに30メートルと水位を上げていったと計算される。つまりゆるやかだが決して引くことのない津波であり、当時そこに住んでいた人々は家財を持って1日に1マイルも逃げなければならなかった。
非常に興味深い説だが、われわれのような素人には当否を判断できない。科学者たちがこの説を受け入れるなら、われわれももちろん受け入れる。ただし、黒海への海水流入の話までは、と条件がつく。後半部はひどいのだ。
黒海湖」のまわりに住んでいた人々は、故地を追われて新しい土地に移住した。そうであろう。だが、彼らがメソポタミアに移住して文明を築き、かつて眼前で起きた出来事を洪水神話の形で語り継いだのだとは恐れ入る。農耕が黒海沿岸に発するなどという根拠もまったくない。彼らはエジプトへも移住し、そこでもエジプト文明を築いたのだそうだ。すごいね。死人に口がないのをいいことに、言えそうなことみんな言ってないか? 南に逃げた人々は、南岸に住んでいたわけだろう。だが、地図を見ればわかるとおり、黒海の南と東は山が岸にまで迫ってろくに平地がなく、それは海の中でも続いていて、岸からただちに深度を増す。100メートル水が引いたとしても地形は変わらない。こんなところで農耕が発生したとはとうてい思えない。北や西は海面下100メートルまでの傾斜は緩い。人がいたとすればこっちであり、ここから西や北に逃げた人々が文化変動をもたらしたというなら、それはありそうではあるのだが。ただしその場合は、洪水伝説は世界各地で語られているにもかかわらず、まさにその移住先のヨーロッパがなぜそういう話に乏しい地域となっているのかも説明してもらわないといけない。
科学者という人種は、専門外のことではおそろしく非科学的で、とんでもなくナイーブだ。私は自然科学についていえば「非科学者」だが、科学について自分がよく知らないことをよく知っているので、小心翼翼と確実なことしか言わないように努めるんだけど。トータルとしてはわれわれのほうがずっと「科学的」だと思うんだが、どうでしょう。
要するに、7500年前の淡水湖だった黒海への海水流入という科学的には根拠のあるらしい仮説をノアの洪水と無理やり結びつけようとしたものであり、そうしたくなるというか、どうしてもそうしてしまうのがノアの話のもつ力なのである。これ自体はノアの洪水というよりむしろアトランティス伝説がかっていて、「アトランティス大陸黒海だった」と題したほうが適当なように思うが、箱舟探しに熱をあげるアメリカ人は、やはりノアとしたいのであろう。
はからずも日米ソの「洪水本」が並んだわけだが、お国ぶりはきっと現われているだろう。基礎的なデータ収集では着実であっても、その上に大胆な仮説を広げるのをよしとするアメリカ、手堅く啓蒙的かつ博識なソ連、かなりがんばっているが、しかしどうしてもデコボコがあって、「がんばってる感」が透けて見えてしまう日本、というような。
英国代表ノーマン・コーン「ノアの大洪水 西洋思想の中の創世記の物語」(浜林正夫訳、大月書店、1997)は、別の意味でおもしろい。これは副題でわかるとおり、がらりと変わって精神史の著作だ。17−19世紀の古生物学・地質学における「洪水主義」を扱う。全世界を水没させるほどの水が存在するのか、どこからきたのかと考えて、洪水以前の地表は平らだった、大災厄の結果として大地に裂け目や歪みができたのだとしたり、彗星が地球に接近し、その水蒸気を大量に含む尾にまきこまれたことで大洪水が起きたのだとしたり。それは「ノアの洪水」が事実であるという立脚点から組み立てられた諸理論であって、今から見れば畸形の学説であるが、考え方の順序が逆のように見えても、当時はそれが正しい順序だった。科学者が支持しているようだから何となく受け入れているけれど、ビッグバンやブラックホールなんてのも虚心に見ればかなり畸形な感じの、唐人の寝言みたいな説である。真に理解している人々のことはいい。ビッグバン理論がちんぷんかんぷんである人が地表平板説や彗星説を嗤うのは、筋が違うと思うよ。これは「洪水に憑かれた人々」の歴史とも言え、ノアの話の魅力を別の方向から逆に証明している。


飛鳥昭雄/三神たける「月の謎とノアの大洪水」(学研、1994)、飛鳥昭雄「失われたムー大陸の謎とノアの箱舟」(学研、2006)などというのも出ていると知ったが、県内の図書館においてないので読んでいない。こういうのまで注文して取り寄せなければならないほどノアに義理はないので。でも、「学習」や「科学」の発行元がこんなの出してていいの?と思ってしまうが、読まないであれこれ言うのはやめておこう。
おもしろいのは、「ノアの大洪水」というタイトルの本は「ノアの洪水」というタイトルの本よりずっと小さいこと。なりの小ささを「大」で補ったか。しかも、これらを出しているのは名の通った出版社ばかり。欧米人がノアの洪水に深い関心をもつのはわかるが、日本人もけっこうなものだ。
だが、日本人でよかったとつくづく思う。日本語の本は多いといってもこれくらい。英語だとどれだけ読まされるだろうか。何ページも続くであろう文献リストを思うと、めまいがする。ヤソでなくてよかった。まあ、われわれのほうでは「卑弥呼本」が山ほどあるけどね。


こうして見ると、「ノアもの」の本はほとんどが「伝説に歴史を見る人」の著作である。昔は世の中こういう人たちばかりで、四捨五入すれば100パーセントとなるほどだったろう。学問が開け、学校教育が普及するにつれて、「伝説を伝説と見る人」がふえたが、それでもまだ「歴史を見る人」のほうが過半数だと思う。それは、これらの本が大手出版社から出ていることからも、ノアの箱舟を探しに行く人が今なお大勢いることからもわかる。かつ、「伝説を伝説と見る人」の9割は、「だから伝説など取るに足りないと思う人、歯牙にもかけない人」である。「伝説を伝説だからありがたい、めでたいと思う人」を「われわれ」とすると、われらの仲間は断然少数なのだということに気づかされる。これが「ノアの洪水」ならぬ「ノアの洪水本」の教訓である、と言えるかもしれない。