困った古書注文主

本が好きで、古本屋も好きだ。しかし上京しても神田へは行かない。時間も金もないのがその理由で、神保町に足を踏み入れると一日つぶれてしまうから。ほしい本が目について、買おうか買うまいか、心は千々に乱れる。えいやッと買ってしまって、金が足りなくなって困るか、えい、いらんと思い切り、あとであのとき買っておけばと何度も後悔するか、そんな結果が目に見えるから、行くこと自体をみずからに禁じてきた。
だが、最近はネット古書店がある。便利な世の中になったものだ。田舎にいながら古書を注文することができる。しかも、値段を比較して安いものが買える。送料を払わねばならず、積もり積もればそれもばかにならないが、重いものをえっさえっさ抱えて歩かなくていいのもありがたい。ただし、特定の本だけピンポイントで購入することになる。古本屋の楽しみは散歩の楽しみで、さまざまな発見(こんな本があったのか、あ、これが置いてある、当面必要ないがこういうのもほしいな、等々)をするのが楽しいのだが、それは全然かなわない。
そんなわけでネット古書店にはお世話になっているのだが、注文した古本屋の2軒に1軒は、あんたの住所には番地が書いてない、即刻知らせなさいというメールをよこす。そのたびに、いや、番地がなくても届くから大丈夫である旨返答する。
なに、ありていに言えば番地を知らないのである。上のケタの数字は覚えていて、末尾も4か8、4か3のはずとまではわかっているが、定かでない。数字が苦手なんです。電話番号なんかまったく覚えられない。あれがいくつもすらすら出てくる人を見ると、いつも感心する。自分のぐらいはさすがに覚えていても、ほかはだめ。家族の誕生日もろくに知らない。
つまり、個人的な頭脳の欠陥である(ほかに、「右も左もわからない」という欠陥もある。左右がとっさに出てこず、「箸をもつ手」「茶碗をもつ手」を頭の中に描いて、ようやく判別できる、というふうに)。根本的な理由はそういうことで、私が悪い(のかもしれない)。しかしあまり何度も聞かれると、居直ってくる。しかるべき書類を見ればわかることだけど、見ない。見るもんか。だんだん依怙地になってくる。


番号は基本的に管理ツールであり、管理者に奉仕するものである。しかしユーザーの側にもメリットはあって、それは「検索」と「同定」だ。
すべての通りに名前があり、それにそって片側には奇数の、反対側には偶数の番号を順にふるという番地の付け方をしているヨーロッパでは、番地は検索体系である。通行人に聞かずとも、通りの名と番号の表示をたどれば、目指す家を探し当てられる。町が大きくなると通りの名も膨大になるし、体制が変わると通りの名が一斉に変わってしまうというばかげた欠点があるので全面的に賛同はできないが、すぐれたシステムであることは間違いない。
日本では、自分の家の番地は知っていても、となりの家のはまず知らない。続き番号とは限らないのだ。どうかすると隣とはケタがちがっている。それじゃ電話番号だろ。地域で共有されていなければ、「番地」とは言えないじゃないか。アドレスにある町内に来ても、目指す家になかなかたどりつけるものではない。そのあたりの住人に「×番地はどこですか」と聞いて、即答できる人に行き当たったらよほどの幸運だ。だいたいは「誰の家をさがしてますか」と聞き返してくる。番地ではどうにもならず、「××さんの家はどこか」と聞くほかない。検索機能に非常に乏しい。住宅地図がないとどうにもならない国なのだ。
同定機能におけるメリットはある。集落ひとつがまるごと同じ苗字なんてところでは、苗字でなく屋号で家を呼び分けるのだが、番地はそのかわりになる。それは極端だけど、しかし同じ苗字が多くあるところなら、住所は番地で区別されねばならない。同一姓が多く、また地域に誰が住んでいるかわからない上に、しょっちゅう転出入がくりかえされる大都市では、番地なくして配送なしである。
ところが、そうでないところでは必ずしも番地は必要なく、ここのような小さい町で、かつ同じ町内に2軒しか同姓がないような場合は、番地抜きでも実害はほとんどない。町内の「住人」である郵便局はむろんすべての「隣人」を把握している。宅配便はかなり広域をカバーしているらしいから、あるいはけっこう迷惑をかけているのかもしれないが、しかし宅配でもちゃんと届く。届き届けることのみが問題なら、番地を書かなくても大事ないのだ。
検索に使わず、同定においてもその恩恵をこうむること少なければ、慣習的行動から離れてあれこれ考えることができる。それは、合意した覚えのない上からの割り当てである。提出書類なんかで書かなければならなければ、もちろん書きますよ。「お上のことば」には「お上のことば」で応じなければならないから。だけどね、われわれは明治政府なんかよりずっと昔からここに住んでいるんだ、靖国などよりうちの神棚や庭の祠のほうがはるかに古いんだ。勝手に区分けして、勝手に番号ふるなよ、という反感は自然である。
明治政府よりはるか昔からここに住んできた住人たちが、自治の組織として立てた区分はある。戎町上・下とか中町のようなものだ。これは祭りの組の単位となり、常会や町内会によって自治機能を今も担っている。これに基づいて番地をふればいいのである。自治の礎たる根生いの地名によるならば、欧米での通りの名前のように、住所表示の最小単位として機能するはずだ。そういう番号なら、住民で共有もするだろう。偶数・奇数で当番を分けましょう、などと常会で話し合っている場面を想像できる。番地がそういうものだったら、検索機能も備えるし、数字に弱い私も忘れることはない。むやみに数が並ばないだろうから。


それは日本でも、おそらく前近代においては「常識」だったのだ。たとえば京都などは、「上ル」だの「下ル」だのと地名表示自体が位置特定の機能をもっているのは碁盤目という特殊な性質によるものだとしても、東京23区が郵便番号簿わずか4ページ分しか町名がないのに対し、18ページにわたるほどの町名を載せている。さすが町衆、と思う。日本の「近代」というやつがそういうものを殺していったのだということが、ここからも見て取れる。
日本には「京都原則」と「東京原則」があって、前者は世界につながるが、後者は切り離す、と言えるかもしれない。そして前者に従うものはほとんどなく、世界と無縁な「日本スタンダード」を国内に強制する後者のみ栄える。見方を変えれば、無理無体に独善的平準化を押しつける東京に対して自生の「正しさ」を守り通すためには、京都ほどのステータスがなければかなわないのだ。世界の大多数の都市と同じくエスカレーターの右側に立つ大阪方式が、左側に立つ世界逆行の東京方式によって包囲孤立させられているのも参照。上方は「普遍」に近く、東京はそうではない。「市民」の都市でなかったからだよ、きっと。町衆の京都や大阪船場、堺や博多のようなバックボーンを欠いているからな。
日常の地域生活レベルでは自分たちの本来の地名で話し、公の場では根拠薄弱な当てがいの地名を言う。植民地並みの「二重言語生活」ではないかと疑っていいと思う。


住所表示には、もうひとつ郵便番号というものがある。番地に対してこれほど文句を並べる男だから、郵便番号にもさぞ難癖つけるであろうと思われるかもしれないが(7桁にふやされもしたし)、さにあらず。これの使用には進んで(というわけでもないけど)従っている。現実に末端ユーザーのレベルで検索に使うことはほとんどないけれど、これには検索機能もある。また、これを使えば県名や郡名は書かなくていい。地方自治の基本的な単位である市町村名を書くだけでいいというのはメリットである(自然地理的・人文地理的な意味のある単位である旧分国とちがい、県は近代のでっちあげであり、たとえば、宗教も言語も歴史もちがう、つまり「民族」が異なるこの石見と出雲がひとくくりにされていたりするのだ)。市名も略したければ略せる。あの納得なんか1ミリもしていない平成の大合併とやらで無理やり押しつけられた市名も。使うかどうかはともかく、うれしいオプションである。


現代の生活はさまざまな番号によって成り立っている。何かの番号を書いたり言ったり入力したりすることのない幸せな日々が年にどのくらいあるだろうかと考えてみるといい。番地のほかに、郵便番号・電話番号・口座番号、自動車のナンバーやパスポート番号、IT時代が要求するさまざまなコードなど、好むと好まざるにかかわらず、われわれは数字と日常的に交際させられている。自分が自分であるためにこれほど数字が必要なのかと嘆息する。カフカが現代人の古典であるわけだ。
それらの番号は、さまざまな基準で分類することができる。自分でそれを知っているか、知らないか(必要なときメモや書類を見ることですませ、いつもは覚えていなくても大丈夫か)。他人の番号を知っているか、知らないか。つまり、番号がユーザーの間で共有されているか否か。そして、これがいちばん肝心だが、末端ユーザーにとってメリットがあるか否か。検索機能にはむろんメリットがある。同定機能は基本的に管理のために使われ、その中でもユーザーにとってメリットのあるものと、直接的にはほとんどないものがある。
電話番号はユーザー同士の連絡に用いられるから、もちろんメリットがある。口座番号は、それによってユーザー自身も口座の管理に使うのだから、いわば銀行とユーザーが共同で管理しているわけだ。パスポート番号や自動車ナンバーは、いつも覚えておく必要はないし、他人のものを知る必要もない純粋に管理のための番号である。それを書かないと出入国できないから書いている、というか書かされているだけだ。ナンバーは、それが役立つ局面を考えてみると、典型的なのがひき逃げした車を特定するような場合で、あからさまに管理と結びついており、かつ犯罪や事件を想定している。「凶器」をすべて登録し番号をふっておくのは市民の利益となることではなるが、直接的ではない。
もうひとつ、番号を付与されるものがいつ現われたかという基準も考えることができる。電話や自動車、銀行や郵便局などはできた年代がわかるほど新しいものであるが、町や道は大昔から存在しており、それにつけられた番号は完全な後追い後付けである。検索機能に乏しく、同定機能においても末端ユーザーにとって積極的なメリットがあるわけではない(日本の)番地は、管理ツールであるという地が見え見えだ。「番地」ではなく、不動産取引のための「地番」なのだ。使わずにすむならすませたいと思う人間がいてもわかってもらえると思うが、どうでしょう。


自家の番地をろくに覚えぬ一方で、ドイツに住んでいた頃の下宿の番地は今もはっきり覚えている。シュテッティン通り24番地の屋根裏部屋。若い頃、初めて異国に一人で暮らしたときの住所である。心細くもあったのだろう、やたらに手紙を書いていた。そのころはメールなんてもちろんなかった。差出人住所として何度も書いたからな。初めてヨーロッパの住居表示システムにふれたものめずらしさも記憶を助けているのだろう。その後に暮らしたさまざまな町の数々の番地は、日本のと同様すみやかに忘れてしまったが。若く、新鮮な驚きに心がもっと開いていた頃をなつかしむ理由はあるかも。番地ひとつ分。
しかし、封筒にきっかり同じだけ書いていたはずのそのころの郵便番号のほうは、さっぱり覚えていない。やはり数字はだめなんです。自分の電話番号にいたっては、それを現に使っていたときでさえ、聞かれても手帳を見なければ言えなかった。それにはちゃんとわけがある。一人暮らしだもの、自分の番号にかけることないでしょう。家族持ちとはちがうのだ。いばってどうする。つまり、一人暮らしはさびしいって、そういう結論?