日経そのほか

活字なしで日は暮らせないけども、しかし新聞雑誌は買わない。キオスクには悪いが、あんなもの読み捨てで、ゴミの生産だから。私以外の人から儲けて下さい。新聞も雑誌も、図書館で読むか、網棚に置き去られているのを読むか、待合室の備えおきを読むかである。だからこれについての私の知見は狭いのだけど、狭いなりに私見はある。
図書館に行くと、日本経済新聞を必ず読む。読むのはしかしスポーツ欄だけ。サッカー記事が断然いいのだ。他紙とは雲泥の差である。相撲もいい。野球関係は読まないから知らないが(これはほかの新聞も悪くないんじゃないかと思う。野球については国民的な蓄積や厚みがあるから)。必読と言いつつ日経は、実は5分で読めてしまう。スポーツ面しか読むところのないふしぎな新聞である。
週刊ポストというのは書評欄が実にいい。これには驚く。週刊誌中断トツだと思う。丸谷才一が書いていたころの週刊朝日もよかったけども、それよりいい。日経とはベクトルちがうが、ポストも読み場がほとんどなくて、10分で読み終わっちゃうんだけど。書評欄がひどかったのは朝日ジャーナル。大学の先生なんかに書かすからつまらんのだ。
文藝春秋というのも妙な雑誌で、日本ではけっして読まないが、外国へ行くと必ず読む。読むといっても古い号だけ。外国では代々の先住人が置いていった日本語の文庫本や古雑誌がどこかに山積みになっており、そこから借り出してむさぼり読むのを常とする。そしてそこにある古雑誌は、たいていが文藝春秋なのだ。あの雑誌の読者層が、外国に駐在する地位境遇の人々にぴったり重なるということだ。
日本のジャーナリズムの対立軸は、読売と朝日ではない。文春と朝日である。ワイロをやったり取ったりする人々とそうでない人々のメディア、ということ。社会は贈与の体系で、それが中元・歳暮のレベルでおさまるか、上に大きくはみ出すか。ワイロに縁がなくてすむのは、女・子ども(=学生)・教師である。その代弁者が朝日、もう一方が文春。AERAというのは朝日ジャーナルの跡取りだったはずだが、いつのまにか働くインテリ独身女性(近頃の言い方でいうと「負け犬」)の雑誌になっていて驚いたけども、しかし驚くことはないので、朝日が誰に好まれるかを、つまり本質的部分を表しているのである。一方で、文春は月刊も週刊も「中高年の部課長のまなざし」を感じる。「前門のトラ、後門のオオカミ」?
ドイツなんかでは、どんな車に乗っているかでその人の性格がわかる。推理小説巻頭に現われる他殺死体。その男の車がフォルクスワーゲンか、メルセデスか、BMWかによって、どんな人物だったか目に浮かぶような気がする。固有名詞ひとつによる性格描写だ。ところが日本ではそうはいかない。国内で同業他社と熾烈な競争をくりひろげ、その結果他社とかわらぬ車しか作らない。「日本車」としてひとくくりにすると、そこにはひとつの確かな性格が歴然と備わっているのだけど。
しかし日本においても、理念が「製品」にくっきり出ている会社がある。出版社である(それは日本に限らないけども)。文庫本は判型が同じだが、どの出版社かによって性格がかなり異なる。
たとえば筆者の場合、本棚を見ると、新潮文庫がかなり少ない。小説を読まないので。角川はもっと少ない。この文庫、先代の頃は岩波と新潮の間を張ってるみたいだったのに、代替わりしてひどく変わった。岩波が断然多いが、中公文庫もかなりある。これがわが蔵書の性格を語っているだろう。中公文庫にはだから愛着も深い。講談社学術文庫も多いことは多いのだが、こちらにはほとんど愛着がない。装丁が気に入らないということもあるが、ラインナップですね。玉石混交なのだ。名著がはいっている一方で、そうでないものも多い。「手当たりしだい」感がある。あんまり目利きじゃないなと思えるのだ。同種のちくま学芸文庫と比べてみると一目瞭然で、ちくま学芸のほうはどれも一定レベル以上。筑摩書房講談社という母体の差が現われている。
その逆が、講談社現代新書ちくま新書だ。講談社新書はおもしろいものをけっこう出している。編集者がいいのだろう。最近はどの出版社も新書を出しまくっているけれど、私の場合、新刊書店にはいっても新書の棚はまず見ない(岩波新書を含めて。岩波で見るべきは青版だから、古書店でさがすさ)。中公新書講談社現代新書をチェックするのみ。ちくま新書の前はほとんど素通り。端倪すべからざるのは光文社。新書はそこそこだが、文庫がすごい。こんな出版社だったっけ? 逆角川である。
どんな文庫を多く手に取るかによって、その人の性格がわかる。浜辺に女性の変死体があるとしよう。そばに文庫本が落ちている。これは効果的な性格描写になりますよ。それが新潮文庫なら、まあふつうだ。期待される「読書好きな女性像」の平均的なところ。角川ならエンタメ好き、講談社ならちょっとゆるい。中公なら他人事でなく、河出なら、興味はもつが、身構えもする。岩波なら、人間としては同志的連帯感を感じるが、女性としては、どうなんでしょう、うまくイメージが結べないかも。