蒐書家悲史

アルメニアではそんなに本を買ったわけではないが、それでも買うことは買う。しかもできるだけ安く買う(本に限らず、けっこうこの国物価が高いんです)。
本は好きだが、その業界についてくわしいわけではなく、本の再販制というのが日本の特殊な制度なのかどうかはよく知らない。いずれにせよ、新刊書の値段が本屋によってちがう国というのは多くある。野菜や電気製品なんかと同じなんだ。私のように本を買うことだけが趣味(いや、読むのだって趣味なんですよ)の野暮でぐうたらな人間は、時間はある。ほかのことで時間をとられないから。だから、いろいろ店を見て歩いて、いちばん安いところで買う。金はそのような店に落とすべきである。そういう店が繁盛しなければならない。それが正義であり、人は正義の味方であらねばならない。
安い店をさがすだけでなく、値切ることもする。新刊書店ではやらないけども(できる国もあるんだろうな)、露店や古本屋ではやる。
正札販売には正札販売のよさがあり、だから先進世界の大勢になっているのだが、しかし一面これは人間を怠惰で無能なものにしてしまう。本のことを知らずに本屋の店員がつとまるというのは、本来あってはならないことだ。レジ打ちのアルバイトのような感覚で本屋に立たれてちゃ困る。本屋は本のことをよく知る人間、プロであってほしいし、露店古書店に関して言えば実際にそうである(いま日本ではやっているあのいわゆる「新古書店」、あれは古本屋ではありません。正しく「リサイクルショップ」と呼ぶべきです。あそこってだけど、物知らずたちが機械的に値段をつけてるから、ときに破格の安値で思わぬ本が手に入ったりするんで、行かないわけにはいかないところなんだけど)。
本には適正な価格というものがある。その国に来た当初はわからない。相場を知らないから。書店古書店に足しげく通ううち、こういう本ならこれくらいの値段であるべきだというのが見えてくる。適正価格帯より上ならば価格帯の中へ、価格帯の中で上のほうにあればできるだけ下限に近づけるのは、愛する者の正当な権利である。
それはコミュニケーションでもある。その国のことばができれば正真正銘のコミュニケーションができるが、数字のほかにカタコトがどうにかしゃべれる程度だと、この値引き交渉こそがコミュニケーションなんですね(そんなにことばができなくて、何でそのことばで書かれた本を買うのだと聞かないで下さい。それを言われるのがいちばんつらい。本を読むことは理性で、本を買うことは愛なのです)。
ひとつのゲームでもある。本を知る者の間の駆け引きだ。映画や芝居などもそうだが、本のように実益と離れ、生活必需品でも装飾品でもないものは、それを売る側と買う側に「同志」的な関係ができやすい。それでなくても商売なのだから、いいものなら買うお得意さんになりそうなら、多少の値引きはするものだ。
値切るといったって、せいぜい1000ドラム(300円強)程度の上下の話である。誤解してもらっちゃ困るが、倹約でやっているのではない。もちろんそれもあるけれど、うまく値切れたら、その「もうかった」分の金でビールを飲んだり、いつもなら買わないようなものを買ったりして、結局本屋の言い値分の金は使ってしまうのだから。首尾よく一局のゲームが終わり、コミュニケーションが成立したのがうれしいのだ。逆に、観光客値段をふっかけられると、人格に対する侮辱を受けたようで不愉快になる。
いわゆる掘り出し物、値打ちものに異常に安い値段がつけられている場合、じゃあ適正な高い値段で買うかといえば、それはもちろん否である。そしらぬ顔で金を払い、ほくほくと足取り軽く家に帰る。それは主のほうの鑑定眼の誤りで、プロとしての不注意だ。何も知らない客に値打ちのないものを高く売りつけたこともあったのだろうし、それであいこだ。こっちだって、あとでじっくり見てみて、「これ、いらなかったなあ」と後悔するようなものを買うこともしばしばなんだから、帳尻は結局合っているのである。
(本屋の話のついでに、余談をひとつ。アルメニアで感心することがいくつかあったけれど、そのうちのひとつは地下道の露店である。露店はふつう店じまいすると本をボール箱に詰め、陳列台もかたづけてしまうのだが、ここのは、本来公共空間であるはずの地下道に本棚を作りつけて、閉店するとビニールシートをかぶせるだけで帰ってしまう。シートがかけてあるとはいえ、売り物をそのままにして帰宅するのだ。見ているこちらは夜の間に盗まれやしないかと心配になるが、盗まれないからこそそうしているわけで、なかなかに安全な国であるらしい。)


本を買うのはまあそんなわけで楽しいのだけども、それには楽しくないふたつの仕事が付いてくる。郵送(郵便でなくったっていいけど)と収納である。収納スペースにはみな悩んでいるはずだから、多言を要さない。それ以前に、本というのはとにかく重くてかさもあるので、ある程度の量になったらとても自分で持って帰るわけにはいかず、送るということになる。国内ならちょっと手間がかかり多少の出費をしいられるというだけだが、海外となるとけっこう面倒だ。だがその面倒にも慣れてしまい、折り込み済みの案件として処理するのをくりかえしてきた。しかるに。
手間のほうはだからいいのである。それは承知だ。ゴミ捨て場からヴォトカの空き箱を拾ってきて、それをテープで補強した。つきそって通訳してくれるよう女の子にも頼んだ。料金なのだ。今回は2箱ですんだのだが、ひとつが17キロで121080ドラム、もうひとつは18キロで125640ドラム取られたのだ。合わせて800ドル以上だよ。
それはEMSで送ったので、EMSならそのくらい取って当然ではある。問題はそこではなく、普通の郵便で送る場合のほうがEMSよりずっと高いということなのだ。20キロで19万ドラム、つまり630ドル見当、7万円。局の窓口では、あっちのほうが安いからといってEMSの窓口(これも郵便局の中にある)を指さすんだよ。おいおい。
2年前に帰国した人が送ったときは1万ドラムぐらいでした、と案内してくれた子は言う。そのころは船便があったのだろう。今は航空便しかないらしい。それならそれでもいい。だがその航空便料金の額たるや。日本からアルメニアへ航空便で送る場合、17キロで24300円(船便は9200円)、20キロで28100円(船便10600円)だそうだ。日本からの料金の2倍半。何だい、これ。あのね、アルメニアの一人当たりGDPは2577ドル、日本は35650ドルで、日本の14分の1なんですよ。アルメニアってグアテマラやモロッコ並みなんですよ。バランスってものあるでしょ。
まさにカタストロフだ。中身より送料のほうがずっと高い。1万ドラム以上の(「不当な価格の」という修飾語をつけてもいいが)本はほとんど買っていないのだから。それは営々と努力した結果である。そこへ、これだ。日々の喜び悲しみをくりかえしながら、ときにちょっとした贅沢をしつつも、だいたいはやりくり上手に、それなりに真面目に、おおかたは暢気に生きてきた市民のつつましい生活の頭上で、ある朝突然原爆が炸裂するようなものだ。天変地異ならいざしらず、これはひどいアルメニアの存在意義の90%が失われたといっていい。本を買うというささやかな楽しみが奪われては。


ついでにこのことも書いておこう。弁論大会の会場さがしで、児童図書館のホールを見に行った。オペラ劇場の隣、160人収容のなかなかいい感じのホールだったが、借り賃ときたら、日曜は1時間につき2万ドラム(約7000円)、土曜は1時間15000ドラム(約5000円)。あとで調べてみたところ、島根県民会館の大会議室(180人収容)の使用料は、非営利目的だと13時から17時まで使って11700円、多目的ホール(136平米)なら同じく4000円。日本のほうが断然安いのだ。
贅沢品はいくら高くてもかまわない。生活必需品は安くなければならない。その中間がわれわれのような人間を直撃する。なければなくてもよさそうだが、文化のためには必須のもの。それがこんなに高くちゃいけないよ、文化を誇る国ならば。せめて日本並みにと、物価の高い日本の国民が言うようじゃあねえ。


しかしコピーは安い。1枚9ドラム(3円)、表裏にコピーすれば1面あたり7ドラム。でもコピーするのは別に楽しみじゃないからなあ。必要あってそうするのだから、コピーしたものはたいてい読む、少なくともざっと目を通すことは必ずする。本については、買ったからといって必ず読むわけではないが、買い集めるのは楽しい。何なんだろう、この差別意識。そんなふうにちょっと反省しなくはないけれど、いや、やはり本に限ります。それはそうなんです。書店に通うのと同じくらい、安コピー屋のちょっとケンがありトウがたった女の子のところにも通ったんだけど。差別というのは人間の生活そのもので、業のひとつなんでしょう。


「何の話してたの、あの人?」
「えーと、愛と正義と原爆の話じゃなかったっけ」
「ああ、そうなんだ」