その死

もはや旧聞だが、アフガニスタンで農業支援を行なっていた日本のNGOの青年が殺された。この事件をめぐって、いろいろ考えさせられることがある。
人は人を映す鏡である。彼が連れ去られると、700人もの村人が犯人を追いかけたとか、犯人を自分たちで石を投げて処刑したいと言ったなどということが伝えられている。信頼され愛されていたにちがいない。
「親の顔が見たい」。こんな親からこんな子が、ということも少なくはないが、しかし親を見ればどんな子かわかった気になるし、それでおおかたは外れていない。馬や牛のように生れ落ちてすぐ歩き出す子どもとちがい、自立するまで10年も15年も世話がかかるのが人間である。その間に生きるための教育を受ける。教育が人間を作る。そして、その第一の教育者が親なのだから、親を見てわかることは多いのだ。テレビのニュースで見ただけだが、ああいう人なら息子さんも好青年だったろう。


下手人が本当にタリバンに近い組織の者かどうかは、なおはっきりしているわけではないようだ。
タリバンであったほうが都合がいい人々がいる。タリバンは理念をもった組織であるから、強面だから、そう名乗ったほうが幅が利くこともあろうし、戦っている主敵だから、そうであったほうが手柄にも話題にもなるだろう。「タリバンを必要とする人々」は現地にもいるし、外にもいる。日本にもいる。
敵の存在が自分のアイデンティティになるという現象。人は戦う相手に似てくる。暴力団と対峙する警察官が暴力団員と見分けがつかなくなるように。殺し合い憎み合いながら互いに互いを求めているという恐ろしい関係ができてくる。
タリバンがいることは厳然たる事実で、それには対処しなければならないが、「タリバン」を必要としない生活を貫く、それこそが肝心なことであろう。


援助は、それを受ける側から見れば利益の供与である。富(利益)の偏在は犯罪を誘発しやすい。利益の分配は公平でなければならない。しかし実際にはそうはいかない。公的援助においてもしかり。まして資金人材の限られた民間の援助など、特定の村や地域に偏るのは当然だし、その村や地域の中でもまったく平等というわけにはどうしてもいかない。人間のすることだ、偏りがないことなどありえない。援助というものの構造的な問題である。
犯人がタリバンなら、むしろ問題は簡単だ。そうでなかったときのほうがよりむずかしく、悩みはずっと深まろう。


「危険情報」というものがある。これにはしかるべき敬意が払われねばならない。ねばならないが、目安のひとつであることを越えはしない。「危険情報」すべてに従えば、外国へなど行けはしない。海外へ出かけず通り魔に刺されるのを待て、ということにもなりかねない。
地下鉄でスリにあった人に対して、何で地下鉄になんか乗ったのかと問う人。シベリアでは日本の冬のコートなんか秋物でしかないのだが、零下30度の冬の間も「秋物」を着ている、要するに玄関から車のドアまでしか屋外を歩かずに生活している人。そんな大使館員の出す危険情報など、同じような生活をする人たちにしか役に立たないし、それ以前にそんなものは「生活」とは言えない。
彼が属するNGOは、情報収集が外務省より速くて確実だった。その確度の高い情報収集能力に一驚した。直接の情報源があり、それぞれのインフォーマントの特性を把握しているということだ。「生活者」の情報収集である。
あの会は、現地の暮らしにとけこもうと努め、安全を周囲の人々の信頼によって確保しようとしている。それは正しいが、どんな方法も万全ではない。その方策が不可能なほど治安が根底的に悪化したのか、それとも、安全な日本で交通規則を守って歩いていても酔っ払い運転の車が突っ込んできたらどうしようもないが、そのような類の事件だったのか。どちらも然りなのだろう。


大使館は在留届提出時に指紋や歯型の提供を求めればいい。そのとき、「あなたが死んだとき身元確認ができるように」とはっきり言っておく。そう言われて恐れる人や怒る人は、そんな土地には無用である。万が一がありうると覚悟し、そのとき人に迷惑がかからないように備えていたいと考える人が、その土地に暮らすべき人だ。
きょうもまた生きてありけり。日の終わりをそのように画しつつ一日一日を過ごす人を、うらやみこそすれ、気の毒になど思うものか。


このような活動は、何か事件が起きて初めて世間に知られるものだ。私自身、この会について聞いたのはアメリカのアフガン介入のあとだった。そして今回の事件でまた大きく知られることとなる。
プロジェクトが「幸福」であったとき、そこには事件はなく、耳目を引くことはなかった。無事件の、ジャーナリズムの無関心の幸福を思わずにいられない。不幸には「歴史」があり、幸福には「歴史」がないのだ。
アフガン介入以降、事業はずいぶん拡大したようだ。「不幸」によって拡大する。これも悲しい宿命である。


現地スタッフの活動を支える財政的基盤は何か。スポンサーがいるのか、市民の寄付によるのか、それはよく知らないが、たぶん浄財を集めて活動資金にしているのだろうと想像する。つまり、組合員と専従の関係、もしくは檀家と出家の関係があるのだろう。
出家のアナロジーのほうがより適切なような気がする(すると古参指導者はグルで、新参の若者は新発意か)。「出家者」は、つねに野ざらしを心に見ていなければならない。そう考えれば、かの地はこれ以上ない「修行の場」である。彼らが「日本」を必要とするのと同じくらいか、あるいはそれよりもっと、われわれは「アフガニスタン」を必要としている。
むろん、本当に「野ざらし」になってはいけない。だが、「捨て去ること」は人の心に働きかける。力によって世の中が変わるのではない。力はいつもあとからついてくる。力には先行者が必ずある。


彼はみずからの死によって、播かれた一粒の麦となった。
「誰でもよかった」とつぶやく日本流の目的のない「自爆」ならぬ「自棄テロリスト」の手にかかって死んでも一生、松陰のように竜馬のように短くても一生。無念ではあったかもしれないが、無駄ではまったくない一生だったと思う。
テロとの戦いに屈しない」人々は、まず足元の「自棄テロとの戦い」に正面から取り組むべきである。アフガンへの論評はそのあとに聞こう。