話されなかったスピーチ/迷信を信じますか

<迷信を信じますか/ヴァルダニャン・アレヴィック>

 今は人々がもっとげんじつてきになっていますから、迷信を信じる人はへってきましたが、昔から世界中の民族にいろいろなぞくしんや迷信がありました。キリスト教は迷信をみとめません。でもキリスト教徒の民族も、今でもこのおかしなことを信じています。迷信やそくしんは、まだキリスト教を受け入れていない大昔からあって、げんざいものこっています。人々はいろいろな不思議なげんしょうをりかいするために、この方法で説明しました。ほかのたしかな答えがみつけられませんでしたから。
 つぎにアルメニアのぞくしんをいくつかしょうかいします。
 昔からパンは不思議なものだといわれています。それについてたくさんぞくしんがあります。たとえばパンがテーブルからおちたら、おきゃくがくるだろうとされています。パンをやいているとき音がしたら、ニュースをもらいます。パンのこげたところをたべるひとは、おかねもちになります。パンはせいなるものとおもわれていますから、パンをゆかにおとしたら、ひろってキスをします。
 火のしんこうは昔からあって、キリスト教の中にも入りました。ここから来たのがテレンデスのまつりです。その日男女のカップルは火の上をとびこえます。そうするとしあわせになると言われています。アルメニアでもほかの国と同じく、火は家族や家のけいぞくのしるしです。以前は、火がきえたらわるいことがおきると言われました。ですからいつも火がたえないようにしていました。今でもまつりの日に電気がきえるのはよくないしるしです。そのころ、火はあくまやあくじをとおざけるものと思われていました。だからあくまが入ってこないように、うちの火はいつももえていました。あくまは火からはなれて、いしや木の中にかくれました。そこでかみなりは、あくまをうちまかすために、木や石におちます。この火をけしてはいけませんでした。
 蛇はふしぎなどうぶつです。あるところでは、家にすんでいる蛇をころさないし、蛇は家にすんでいる人をかみませんでした。この蛇はこうふくのしるしでした。また蛇はちえのしょうちょうなので、人びとはちえのある人になるようにと、蛇のぬけがらを子どものまくらの下にいれたり、としをとった人はこのかわをこまかくしてたばこといっしょにすったりしました。のはらで働く人は、蛇にかまれないように、このかわをくつに入れました。日本でも蛇はいいしるしだと思われています。たとえば、蛇のだっぴを見ればこうふくがおとずれるということです。それから、蛇のぬけがらをさいふに入れるとお金がたまるそうです。
 子どものころ、私はふしぎなことやめいしんをしんじていました。お金持ちになれるように、うちでも白いくもをかっていました。でも今はいけんがかわりました。なにもしないでただ白いくもをかってまっていたら、お金持ちになるきかいが少なくなります。私の考えでは、迷信などは人生の問題をもっとかんたんにせつめいするためにかんがえだされたものです。たとえば、がくせいがしけんに行くとき黒いねこを見たら、しけんにしっぱいしてしまったあとで、自分にもんだいがあったと考えずに、しっぱいをさっきのえんぎの悪いできごとのせいにします。人はこまったとき、めいしんやまほうがもんだいをといてくれることをきたいします。人生はまほうのようなものですから、まほうをしんじないわけにはいかないとおもいます。かみさまが人間をつくったのも、ひとつのまほうですから。人生の中でいつもまほうにであいます。ですから人は、しょうめいできるかどうかにかかわらず、それをしんじています。でも、私はいちばんすばらしい力は人々のしんこうだと思います。どんなことでも心から信じれば、きっとかないます。迷信は必要ですが、信じすぎないほうがいいと思います。■


この作文には唐突な部分があり、全体にデコボコしている。仮に出場できたとしても、よい成績はおさめられなかったかもしれない。しかし、個人的な好みかもしれないが、非常に魅力的なスピーチになっただろうと確信している。
迷信の擁護というテーマ自体もおもしろいが、「神様が人間をつくったのもひとつの魔法」「人生は魔法のようなものだから、魔法を信じないわけにはいかない」なんていう文章、どうですか。これはたぶん辞書による「紙一重訳」の一例だと思う。辞書はまったく両刃の剣で、適切な訳語を与えもするが、それに倍する「誤訳」を世に送る。「人生」と言うべきところを「いのち」としてしまったら、それは誤訳の範疇だが、この場合はどうだろう。彼女はこれを書いたとき、「魔法」ということばを知っていたはずはない。辞書をひいて見つけたのだろうけども、これらの文章は彼女の言いたいことを正確に写した日本語なのかどうか。ずれていそうな気がする。少なくとも正統派ドグマに沿わぬ言い方である。「奇跡」としたほうがいいんじゃないか? だが、「奇跡」も悪い表現ではないけれど、「魔法」と言ったときほどの魅力はない。正と誤の、適切と不適切の中間のノーマンズランド。これですっかり「魔法にかけられて」しまったんですねえ。たまにこんな文に出会えるのが、この商売のうれしい「報酬」である。