文語は日本語の半分

アルメニアにも「古文」(グラバールという)がある。古典がそれで書かれているだけでなく、教会の典礼語として今も使われているのだが、ふつうの人はわからない。学校で習わないから。しかるべき教育を受けた人しか読めないのは中高ドイツ語もそうだが、しかしこれは今は使われていない死語である。
日本にも古典語があり、今なおそれが使われている点ではアルメニアと同じだが、決定的な違いがある。それは、単に学校で教えられていて読める人が多いというだけではない。日本のいわゆる「古文」は現代日本語の一部なのである。


典礼語について言えば、神道祝詞)は古文、仏教は漢文素読であるが、これらはわかる必要はない。わからなくても誰も困らない。
だが、ことわざや故事成句は、日本語に限らずどんなことばを話す場合も心得ておかねばならぬ言語的必須教養である。ことわざはむしろ口語脈だが、古めかしく、文語的表現もある。故事成句は漢文由来だから、ほとんど古文だ(「虎穴に入らずんば虎子を得ず」「おのれの欲せざるところ人に施すことなかれ」など)。
さらに、能や歌舞伎を見るがいい。能も歌舞伎も今日なお演じられている生きた演劇である。歌舞伎には若い女性のファンも多い。能のことばはもちろん古文、歌舞伎のセリフは当時の口語で、現代口語からさほど遠いわけではないが、語りや歌(義太夫長唄)は古典語だ。
どんな新聞にも俳句や短歌の投稿欄があり、和歌も俳句も堂々たる現役国民文芸だが、そこで使われているのも一部を除いて文語である。俳句など、作ったことがあるというだけなら全国民の9割を超え、折にふれ作る人も2、3割はいるのではないかと思うが、この人たちは「古典語で詩作」しているわけですよ。ちょっと聞きにはすごいことだ。その短さを問わないことにすれば。「紀元前2千年紀の象形文字」も使いこなしているしね。古典語を受動的に享受しているだけではない、それで「詩」まで作っているのだ。それならば、これが今を生きる「現代語」でなくて何であろう。
(「文語で詩作」ったって、多くの場合そこで使われているのは「なんちゃって文語」です。形容詞を「し」で止める、て形で音便をしない(「よって」「行って」でなく「よりて」「行きて」)、「ない」を「ず」「ぬ」にする、「や」や「なり」「たり」「けり」を使う等々くらいの細工で古文をでっちあげているというのが真相だが、まあそれでも文語は文語だ。)


暗唱は語学の学習にきわめて有効だから、何かよい詩を暗唱させたいと考える日本語教師は多い。だが彼らはテキスト選定にあたり、はたと困るはず。適当な口語詩が少ないのである。和歌や俳句は前述のとおり文語だし、詩についても、名詩名文として日本の学校でよく暗唱されているものはたいてい文語詩であり、「枕草子」や「太平記」などの古典である。たとえば手近のベストセラー「声に出して読みたい日本語」を見ても、まぎれもない古文39(明治以前のテキスト30、漢文9)のほかに、明治期以後のテキスト30のうち、現代文(口語文)は16に過ぎず、文語文が14もある。暗唱イコール古文なのである。
(理が勝り、校長先生の訓話のようで私はあまり好きではないのだが、金子みすず相田みつをの詩はなかなか人気がある。その理由のひとつは、いい口語詩が少ないからだろう。詩人は数多いのに、人口に膾炙する口語詩は数えるほどだ。詩なくしては生きていけない人類に、日本列島の近現代詩人が十分な質的供給をしていないことの裏返しである。)
歌にしてもそうだ。国民みんなが知っている歌となるとまず唱歌に指を折るが、その歌詞は大半が文語だ。口語に限るとすれば、選択肢がぐんと狭まってしまう。文語を知らないと、日本語財の半分を捨てることになるのである。


このように、現代語を習得する場合もある程度の古文の知識は必要だし、まして文学や歴史を研究するとなれば必須である。海外で日本語学科のある大学がずいぶん増えていると聞く。しかし、ここに「古文を教えているかどうか」というものさしをあててみるといいと思う。教えているのが大学で、教えていないのは単なる語学速習科。中高ドイツ語を教えないゲルマニスティクが考えられないのと同じだ。日本には義務教育終えただけの「古典詩人」がたくさんいるんだからさ、大学出たら古文の心得なきゃいけないんじゃないかしら。