「勝達漢詩集」

(昨年暮れに出した漢詩集の後記)

 

 著者が自選できればよかったのだが、それができかねるため、代わって漢俳を含む125首を選んだ。短歌や俳句なら多少はよしあしもわかるけれど、漢詩の巧拙はてんでわからないので、題材で選んだ。京都や箱根のような誰もが詠む観光地での作や、テレビで見たことの感想などは除いて、自己実体験の詩を優先した。それらを並べると、はからずも漢詩による履歴書、自伝のようになり、また近在の名所案内風のものにもなっていて、それとしてなかなかおもしろいものであろうと思う。鑑賞の対象として見れば月並詩なのかもしれず、たしかに県出身の元首相を蛟龍云々などいかにも紋切型である。だが、それで全くかまわないのだ。詩をもって立つなら月並は謗られてよかろうが、忙中の清雅を楽しみ詩作するアマチュア趣味詩人の評価基準はよく生きたかどうかであり、その点では疑いなく合格なのだから。自恃はあろうけれど、傲りとは無縁だ。山本健吉は俳句はあいさつだと言ったが、漢詩にもそういうところがあり、特に波風のない生活の折々に詠んだり詠むよう乞われたりした詩のどこが悪かろう。

 土地(居住地近辺)と家業(酒造り)が二本の柱となっている。愛郷心と愛業心のある田舎の篤実な人の人生記録である。土地の生活に根ざした人だというのは、温泉津の詩が少なく小浜が多い(厳島神社、小学校、才市つぁんなど)ことからもわかる。対外的には温泉津のほうがはるかに知られているのに、誰も知らぬ小浜が多く題材となっているところに真面目が見える。

 

 著者も属しているところの学士会の漢詩部会である裁錦会の会員の51パーセントが理工系卒業生であるという。俳句部会の草樹会では理工系は28パーセントであるから(「裁錦会詩集Ⅱ」跋、昭和五九年)、理工系と漢詩には親和性がある。

 漢詩には面倒な平仄や押韻、対句などの決まり事がある。それが難しいのだが、逆にそこに引かれる人も出る。「一つの知的遊戯としての側面」があるので、ルールを守って創作するのは楽しみでもあるのだ。「初学の者にとっても、ただ平仄を組み合わせるだけでもパズルのような面白さがあり」(齋藤希史「漢文脈と近代日本」)、その点が理工系の訓練を受けた人たちには魅力となるのだろう。

 

 日本酒離れの進む中、地方の小さな造り酒屋が次々と廃業する中で、家業を守り、息子(二人のうち責任感の強いほうの一人)が継ぎ、孫二人ももどってきて、よい杜氏とともに酒造りを続けてきた。過去から未来へ続く流れの中で、自分のパートの務めを誠実に果たしていく際に、生涯の好伴侶を得たことはこの上ない幸運であったに違いない。その人の句作もいくつか収めた。