「ボス」考

いろいろなところで教えたり、日本語教育機関調査に携わったりして、旧ソ連の地方都市の日本語教育をめぐる環境については心得がある。地方都市のかかえる問題にはだいたいいくつかのパターンがあることがわかった。
そのうちのひとつは、「地方のボス」の存在だ。彼らはソ連崩壊後、地方で日本語教育が始まった時期に、その土地で個人的なイニシアチブにより真っ先に日本語コースを開始した人たちだ(自身日本語ができることもあるが、できないことのほうが多い)。それを通じて日本大使館と強固なつながりをもっている。
だから「功労者」であることは間違いない。公平であろうとすれば、彼らの日本語教育への貢献は大きいことを言っておかねばならない。弊害は多々あるが、それを差し引いてもバランスシートはかなりの黒字である。
「善良」でもあるかもしれない。だが、それは私利の追求と両立できるタイプの「善良さ」である。日本びいきであること(その点は間違いないが、そうなったのは偶然によるところが大きい)は評価できるとしても、「日本」は彼らのもとで利権となっているのだ。
大使館にとっては何かと重宝な存在だろうとも思う。私的な組織の長であるから、国立機関と違って意思決定が早い。身も軽く、何か頼めば自分で飛びまわってあれこれ手配してくれる。お互いにとってお互いが利益になる関係だけれど、地方の現場ではまま有害なことがある。その土地の日本語教育は彼らが牛耳っている。不在と距離が力の源である。遠方の朝廷から独占的に御用達とされているため、地元で利益と地位を得ている遠隔地貿易商人、といったところか。
しかし、状況が彼らを追い抜くときがかならず来る。彼らの困った点の第一は、独占欲の強さだ。「利権」はゆずらず、競争相手の出現を許さない。公正な競争は彼らが何よりきらうもの。しかし競争なくして発展はないのである。そして競争相手は必ず現われる。
(彼らはよき「ソ連人」である。党の指導による社会主義計画経済のもとで人となったため、「独裁」の効能をよくわきまえる一方、「競争」というものが理解できないのだ。パイは大きくならない、だから「競争」は奪い合いにしかならないという事情も一方であるのだけれども。)
そういう人の常として、強烈なキャラクターの持ち主であることが多い。彼らは例外なく「独裁者」であるが、独裁は一面では非常に効率がいいものだ。彼らがトップである組織はほとんど彼らの「私物」である。学生に命令し、行動を束縛することを自分の当然の権利と見なしている。学生や下の者が何かをしたいと思っても、自分の利益に抵触しそうなら許可しない。
たとえば誰かが催しを計画し、彼らの許諾を得ていても、途中で平気で前言をひるがえす。彼らからOKが出てプロジェクトが進行しているのであって、ほかの人々や機関にもさまざまな依頼要請を行なっているのに、それをつぶすわけだ。「約束を守る」という基本的なことができないところに日本企業が進出するかどうか考えてみればいい。日本の会社が来なければ、彼らのもとで日本語を習っている学生の就職先もふえないのだ。だが、そういう考え方と無縁であるのも彼らの大きな特徴だ。非常に素朴な人たちなのである。
(独裁者について言えば、それは必ずしも企業進出のさまたげにはならない。独裁者とうまくやっていければ(あるいはアメリカがやっているようにそれを操作すれば)何かと便宜がある。気分が変わったときや失脚したときのリスクはあるものの。)
それでいて、圧力にはけっこう弱かったりする。大使館からのキツい一言はかなり効く。しかし、一旦始めた支援は打ち切るわけにいかないというのも困った点だ。彼らの背後には将来のある学習者がいる。学生には何の罪もないし、そこからは日本との架け橋になる人材も出てくるだろうから、日本にとって有効な投資でもある。だからなかなか切れない。実情を知る人が彼らの弊害について口をつぐみがちになるのも、子どもたち学生たちがかわいいからだ。いわば「人質」に取られているのである。
放っておくと癌化する恐れの強い異形の細胞。彼らを必要とする時代があったことはたしかだが、それは乗り越えられねばならない。だが乗り越えてしまったあとで、彼らをなつかしむ声は出るだろうし、そう努めた人々もそれに和すだろう。一面「可愛げ」のある人たちでもあるのだから。ともあれ、早くなつかしみたいものである。