自由で独立した弁論へのアルメニアの遠い道のり

先日モスクワで行なわれたCCIS日本語弁論大会で、エレヴァン人文大学の学生が6位に入賞した。アルメニアから初の入賞である。自分が指導した学生がいい成績を得て、喜ばない教師はいない。だが、その喜びとは別のところで。


日本語教育において、旧ソ連はおもしろいモデルケースを提示している。あの国では万事が強力な統制の下におかれていたため、さまざまな分野で不自然な現象が多々見られた。ソ連崩壊後の現在では、日本語はいたるところでと言っていいくらい教えられていて、需要を大幅に上回っているような現状だが、ソ連時代は大学で日本語を教えるところはモスクワ・レニングラードサンクトペテルブルク)・ウラジオストクのみ。それもKGBへの人材供給が養成の大きな目的のひとつであった。あとは個人的なレベルで不定期に教えられていただけである。隣国であり経済大国なのだから、計画経済的統制がなければ、日本語を学びたい人は数多くいたはずだが、そのような需要も供給も制度的に認められていなかったのである。
連邦崩壊と前後して、そんな「凍結」が一気に解除され(このあたりは民族問題と軌を一にしている)、日本語教育課程・機関が各地に簇生した。だから、ロシアという国としては長い日本語教育の伝統を持っているものの、ペテルブルク・モスクワ・ウラジオを除く土地ではわずか15年かそこらの歴史しか有していない。われわれの目前で日本語教育が今育ちつつあるのである。
今年20回目を迎えたCIS日本語弁論大会は、ソ連時代から始まっていたわけだが、大きな意義をもつようになったのはむろんソ連崩壊後の日本語「再生」ののちである。だからこの弁論大会をじっくり見ていると、いろいろおもしろいことが観察できる。


柳田国男は、歴史は時間軸にそって流れるだけでなく、空間の中にも存在していることを、戦前の灯りを例に示した。町場では電灯をつけるが、石油ランプもまだ使われており、菜種油やロウソクで灯をとる村もあれば、山間僻地では松の木切れを燃やすという古代以来の方法もなお見られた(「火の昔」)。この考察は、弁論大会ウォッチャーたるわれわれにとって、たいへん示唆的である。
弁論大会に参加することが決まった新参機関がまず行ないがちな行動は、教師が作文し、学生に与え、それを暗記するという方法である。これが「旧石器時代」であるとすれば、学生が母語で作文し、それを教師が日本語に訳してやるやり方もあり、これは「新石器時代」というところか。そして旧ソ連弁論大会の実情を見れば、「旧石器時代」もいまだ克服されておらず、「新石器時代」もまた一部で脈々と続いている。
これは教師の側にのみ問題があるわけではない。そういうことが行なわれているところでは学生もそれを当然と考えているので、「美しい調和」がそこにはあるのだ。
むろん、教師は指導をする。学生は暗記をするのだから、そのテキストに文法や語彙の誤りがあってはならず、教師の手は当然はいってくるし、発音の指導にもネイティブの教師が果たす役割は大きい(だから、ネイティブ教師がいるかいないかで有利不利の差が大いに出てくる。構造的不平等をかかえている催しではあるのだ)。といっても、それ以上のことをやったら、明らかにルール違反、それも「憲法違反」くらいの大罪なのだけれど、刑法違反は厳しく罰せられても、憲法違反ってけっこう平気で見逃されたりするのですね。
その時代を抜け出しても、新たな罠が待ち構えている。自分の経験でないことを話すという誘惑だ。それでCIS弁論大会で優勝してしまった例もある。これはモラルを問わぬプリミティブな原初期資本主義時代であろうか(そんな時代がごく最近くりかえされたなあ、ロシアで)。
IT時代となればなったで、実は新たな陥穽が用意されている。インターネットは非常に便利だ。スピーチのためにこれで調べたりデータを集めたりするのは大いに奨励されるべきだし、さまざまなサイトに考えを触発されるのも好ましいことだが、一方で、ネット上から他人の意見や論述の一部または全部を文章ごと取ってきて、それを自分の作文として出す例は、もうすでに行なわれているかもしれず、将来的にはきっと問題になってくる。それでは「旧石器時代」への先祖返りだ(おお、円環の時間、永劫回帰!)。しかし、先進国の仲間入りをしつつあるロシアなどではともかく、パソコンを持っている学生がごくわずかで、持っていたとしても日本語が読めないようなものばかりである地域では、まだ目前の問題ではない。
旧石器時代から現代まで、なかなかスペクトルが広いのである。
自分の意見や経験を、自分の言葉で(自分で書いた日本語で)、公衆の前で発表するという弁論大会のごくごくあたりまえのことができるようになるまでにも、われわれは長い長い道のりを越えてこなければならないのだということを、旧ソ連の弁論大会は教えてくれる。何ごとにも教訓があるものだ。日本語弁論大会なんてささいなつまらない催しかもしれないけれど、どんなつまらないこととでも真剣に渡りあっていれば、そこから「世界史」だって見えてくるのだ(だけど、「世界史」かい、これ?)。
まあともかく、少なくとも蒸気機関の時代ぐらいまでは進みたいものである。