サハリン消息/ウズベクを忘れろ

サハリンへの赴任が決まったとき、「ふーむ」と思いました。「大丈夫か?」 前に勤めていたフェルガナと、およそ対蹠的でしたから。日本との距離がまず全然違う。単なる物理的距離でいえば、モスクワより近いのだし、決してそんなに遠くはないのだが、関係の深さでいえば、ウズベキスタンはモスクワよりもヨーロッパ諸国よりもずっと遠い国です。東京駅頭で、ウズベキスタンと言ってどこだかわかるか聞いてみるといいと思います。恐ろしく低い正答率だろう。その国の中でも、首都タシケントから峠越えで300キロも離れているのだから、フェルガナは。サハリンのほうは、この名前で認識している人は実は意外に少なかったりするのだが、樺太と言えばわかる。南端クリリオン岬と宗谷岬の間は40キロほどだそうです。BSのアンテナがあれば、NHKも見られる。近い。
近いどころではない、終戦まで南半分は日本領だった。ソ連時代は外国人の入れない、鎖された地域だったが、開放されて以後は、旧島民を始めここを訪れる人は多い。フェリーも運航しているし。石油・ガス開発もあって、在住する日本人も大勢いる。総領事館もある。日本からの援助も多い。日本へ行く機会も、比較を絶して多い。同じ旧ソ連ながら、いやもう、比べようがない。
日本語教育の歴史も違う。朝鮮人アイヌ・ギリヤーク・オロッコなどに施していた戦前の日本語教育のことは別にして(しかし日本語を話すロシア国籍の老人が町を歩いていたりするのだから、これはやはり違います)、勤務先の大学を比べても、ソ連崩壊前から始まって、もう15年以上を経ています。ようやく3年目にはいったフェルガナとは厚みが全然違う。旧豊原高女の跡地にあると言えば、日本人の心に訴えるものがあるしね。かたや日本語が主専攻科目、こなた自由選択の課外活動なみ。卒業生が日本語を使う職場にどんどん進出しているサハリンと、間違ってもそんな勤め口はないフェルガナ。まあこちらでは、授業時間数からいって大した日本語力は望めないのでもありますがね。でも口自体もないのです。いや就職より先に、日本へ行く機会そのものがフェルガナではまず考えられないのに対し(いろいろ計って下さる方はいるのですが)、ここでは、高学年ではたいていの学生が日本に行っている。日本人と接する機会も、ガイドなどする機会も多い。教師の数も、1人、せいぜい2人、今はその1人も怪しいフェルガナと、教員室に教師が収まりきらず、学生も200人近くいるサハリン。教材など教師の私物しかなかった、コピーは町のコピー屋で取るしかなかったフェルガナ―― 等々。
サハリンの事情についても言わなければならないでしょう。何せここは首都から恐ろしく遠いのだ。時差7時間。一衣帯水の日本へぐらい行けなきゃかわいそうだ。日本には行ったことあるが、モスクワにはないなんて学生もいるし(フェルガナにはタシケントにも行ったことのないのがいるんだが、まあいいか)。それに彼らの「日本」って、実は北海道だったりするんです。津軽海峡渡れてない「日本へ行ったことのある」学生、多いよなあ。
サハリン全体では韓国系住民の人口は10%以下らしいが、日本語を学ぶ学生では、3分の1ぐらいになるんじゃないかと思います。われわれが責任を持つべきこれらの人々の子女が、日本語を勉強してくれているのはありがたいことだし、こういうサハリンの「特殊事情」は考えなければなりません。
でもねえ、と思うのです。支援が厚いのはけっこうなことなんだが、誰彼かまわず日本へ留学させてないかい? 長期の留学はさすがに成績優秀な者が派遣されているようですが、短期の「留学」となると、えっ?というのが行ってます。落第点取りそうな学生が、実はある団体の招待で日本の語学学校に通っていたと聞いて、あれで行けるのか。そしてまた、行ってあれか。二重に驚かされてしまいました。ウズベキスタンでは能力試験の1級に合格しながら、行けずにいるのがいるんだよ。4級程度で招かれているのを見ると、どうも釈然としないのです。いいのか? いや、いいんですけどね。1級で行けないウズベクのほうが間違ってるのは確かだから。
ウズベクを引きずっているな、と感じます。何かイベントを企画します。するとみんな「やりたい、やりたい」です、フェルガナでは。弁論大会やります。スピーチしたい人、と言えば、ハイ、ハイ、ハイ。お前、まだできないだろっていうのまでが手を上げる。日本語能力試験を受けるために、乗り合いタクシーに乗って野越え山越えタシケントまで行ってきたらしい。しかし、あのアンディジャンの事件以後、先生のいない自習の状態が半年も続いたから、3級受けて大丈夫なのか、非常に案じています。無理じゃないかなあ、できたかなあ。でも彼らは受けたいのだ。そんな連中をいとおしく思います。サハリンでも、能力試験の模擬試験をやりました。受けるよう教師が「指導」した学年ではまずまず受けていましたが、希望者のみとした5年生は1人も受けなかった。別に証明書がもらえるわけじゃなし、金払って日曜つぶすことはない。まあ、それでどこが悪いというわけじゃないんだが。こういう態度になじめないのは、ウズベクの風土病に冒されている証拠なのでしょう。証明書もらえない去年も、フェルガナの学生は総出で受けていたんだがね。
ともかく、ウズベキスタンで有効だったノウハウの多くが使えないのは確かです。それに大いに戸惑っています。ウズベク人とロシア人のメンタリティの違いというのがまずあるだろうし、それに加え、サハリンの特殊性も考慮すべきなんでしょう。
ここは「日本との特殊な関係」を持つ地域(国後・択捉もサハリン州の管轄で、そこからの学生が毎年うちの大学に来ています)であり、また「植民地」です。ギリヤークやオロッコなど(アイヌはもういません)を除いて、日本時代も含め、サハリンは植民地(流刑地だったこともある)として開拓され、生活向上の可能性を求めて移り住んだ人々の島です。移住は今も続いています。そこへ石油やガスが出る。資源によりかかる姿勢は生活習慣になっているかもしれません。外貨で潤う人がいる一方、貧富の差は開き、物価は高い。そこで生きる者には、そこで生きる者の苦辛があり、流儀があるさ。よそ者はそれに合わせなきゃあいけない。勝手に尺度を押しつけるなよ。
ウズベクの学生が先生、先生となついてくるのは、彼らのメンタリティでしょう。しかし、イベントをやりたがる理由のひとつは、カネがなく、ヒマがあることに求められるでしょうね。フェルガナの学生には、遊ぶところもないし、遊ぶ金もありません。アルバイトをすればいいのだが、それもない。カネを使わずにできるヒマつぶしは、勉強ぐらいか。教師が何かをやろうと言えば、やろうやろうと飛びつくのは、ヒマだからです。貧しさが積極性の裏打ちになっているのなら、それは実は悲しいことなのかもしれない。物価の高いサハリンでは、給料も高く、つまり時間が高い。アルバイトの口も多くて、機会があればもちろんします。だって物価が高いんだものね。だからヒマもあまりない。授業に来る「ヒマ」もなかったりする。日本だってそうじゃない? 日本の「近さ」はここにも見られる。生きている「時代」が違うのだ、ということかな。
だが、物価が安いフェルガナの学生に、能力試験どうだったか聞いたメールの返事が遅く、返ってきた文には「お金の問題でたくさん書けません、すみません」とありました。向こうのインターネットカフェの料金はいくらだったか、何ほどでもなかったと思ったが、それでもたいへんなのか。ではしばらく来ないかと思った返事が割合早く来て、またぞろ「先生、フェルガナへ来てください」。これは、困ります。金がなきゃ当分書かなくていいんだし、書くなら別なことを書け。歳をとって心も硬くなってきたけれど、まだ柔らかい部分はあるんだから。
ウズベクを引きずってちゃいけない。わかっているとも。だけど、ガイドをしたくない、などと宣言する学生を見るとね。お年寄りのガイドは面白くないし、だいたいガイドは同じことを言うだけだからつまらない。お年寄りは来て「ほしくない」。じゃあ若い人はと聞くと、若い人も「ほしくない」。それは穏やかじゃないと思ってよく聞くと、若い人が来ても、ガイドは「したくない」ということでした。その程度では、どんなガイドができたか知れように。手厚い支援をして、これか。異常な値段の札幌−ユジノの航空運賃やホテルの料金も思われます。こういうときは、どうしてもフェルガナを「参照」します。彼らを置いて、ここへ来てよかったのか。来たいという人まで断っているここへ。向こうじゃ先生がいなくて困っているのに。
馬鹿げた問いです。すべて承知の上なんだから。ウズベクを忘れろ、ここが任地だ。