冬の散歩

冬は外を歩きまわるのにいい季節ではないけれど、学期が終わるのがこの時期だからしかたがない。今まで出歩けなかった分をとりかえそうと、晴れた日を選んで郊外をせっせと歩いた。行った先は廃墟ばかり。廃墟なら冬もいいかもしれない。
まず、エレブニ遺跡の丘へ。メソポタミアアッシリア王国が栄えていた時代、その北方の高地に建国し、ヴァン湖畔に都を構えてアッシリアとたびたび干戈を交えたウラルトゥという王国があった。そのアルギシュティ王が紀元前782年に築いた要塞がエレブニである。要塞都市建設の宣言文が楔形文字に刻まれて出土した。このエレブニがイェレヴァンの名の起こりである。その住民はアルメニア人ではなく、滅亡から現在の町の直接の先祖ができるまでに長い空白があったにせよ、「出生」の証明書つき、それも2800年近くも前であることを誇れる町はざらにはあるまい。復元された石組みや壁画のあるテラスなどの間に、楔形文字が刻まれた柱石を見る。博物館のガラスケースや写真の中でなく、3000年近く前のものがそこに無造作に転がっているのを目にすると、不思議な感じがする。現実感があるような、ないような。カルミル・ブルルもそうだが、こうやって廃墟となったものを見渡せば、都市といっても狭いものだ。それでも往時には千人を超える人が暮らしていたのだろうと考えると、茫漠として夢のようだ。老人が死んで後をとる者のない家が取り壊され更地になったのを見て、これっぽっちのところに家族何人も暮らす家があり、涙も笑いもあふれこぼれる生活があったのだと思うときに感じる、胸にぽっくり穴があいたような感覚と通じるものがある。
カルミル・ブルル(赤い丘)はウラルトゥのテイシェバニ市であった。エレブニと対になる遺跡だから、一応コンクリート板で周遊歩道がつけてあるのだが、土砂の崩落や継ぎ目から生えた草木のため、用をはたしていないところがいくつもある。このほかには新しく人の手が加わった風が見えず、滅びて以来打ち捨てられたままという感じが強くて、今人が手を入れた部分の多いエレブニより、かえって、人間の営為とまったく離れたところを淡々と流れ続けるあっけらかんとした「時」というものの存在を感じさせる。遺跡の近くには墓地があり、そのあたりはフェリーニの初期の映画にあるような場末だ。現在の人の住む領分の端がここで、それとちょうど境を接して、遠い昔に人が生き、今は人住まぬ領分が風の吹きわたるにまかされている。
遺跡の丘の見晴らしのいいことよ。人の世界を脱しているので、目路をさえぎる小うるさいものどもがないのだ。そこに立って眺めれば、イェレヴァンのまわりには丘がいくつも点在しているのがわかる。遺跡がある死者の丘と家が立ち並ぶ生者の丘、そして遺跡もなければ人家もない、羊が草をはむばかりであろう青い丘。
モグラでもなければ犬でもないけれど、ホモ・サピエンスもまた掘る動物だ。農耕は要するに大地を引っかき掘り返す作業だし、建築は掘ることで始まった。そして、埋める。銀行や金庫の発達する以前の財宝の最善の保管方法は埋めることであった。ハフパット修道院には、敵に襲われたとき本を埋め隠すための穴が地面にいくつも開いている。20世紀にも東欧ユダヤ人は強制収容所に連行される前夜貴重品を家の庭に埋めたそうだ。埋蔵物の発掘をこととする考古学は、だから盗掘者たち、埋蔵金を探す一攫千金の山師たちの後継者で、昇華された宝探しといってよかろう。考古学にアマチュアファンが多いのも、人間性の根底部分と通うものがあるからだ。
ズヴァルトノツには7世紀に建てられた円形聖堂の廃墟がある。45メートルの高さだったというが、10世紀に地震で倒壊した。残った地階部分の柱や土台石よりも、その横の草地に、崩壊し破片となった石を並べ、ジグソーパズルのように組み合わせているのをおもしろく思った。このように自然災害で滅びたものもあるけれど、遺跡や廃墟の多くは人による破壊の結果だ。人が作ったものを人が壊し、それをまた人が復元する。人間の歴史は要するにそのくりかえしである。石器時代の太古からあまり進化してなさそうだ。人類の三種類、作る人、壊す人、直す人。自分はおそらく三番目のタイプだから、その作業に心ひかれる。
マテナダランにもやっと行けた。日曜閉館だから、土曜も授業があるスケジュールではなかなか行けなかった。ここはアルメニアの古い写本を集めて保管し、研究する施設。4世紀初めにキリスト教に改宗し、5世紀初頭に独自のアルメニア文字が作られて以来、中世を通じて営々となされてきた写本作業の今に伝わる精華が、一室につつましげに、しかし誇らしく展示してある。神殿とまがう堂々とした造りだが、実際に神殿なのだ。アルメニアアルメニアでありうる理由の最善の部分、アルメニア文化の精髄が、誇りがここにある。「人類に対するアルメニアの貢献」が、ここで祀られているのである。
ズヴァルトノツはエチミアジンから近いから、まずバスでエチミアジンまで行く。アルメニアグルジアの教会は、塀に囲まれた中にあることが多い。東方のわれわれの寺院と同じだ。その中に入ると、そこには外の世界と異なる時が流れ、静謐と静穏があたりに漂う。気持ちが静まり、一瞬俗世から出た感じがする。ヨーロッパの町中の教会、たとえばウィーンの聖シュテファン教会などは、俗塵のただ中の中央広場にむきだしで、聳え立つ尖塔が人の行き交う広場からじかに天上を指している。その塔にそっと手を当ててみると、永遠に手を触れるような感覚をおぼえる。あれはあれでまたいいものだけども。
エチミアジンを出てリプシメ教会を見、ズヴァルトノツへ歩いて行く間に、フルシチョフかブレジネフの時代の集合住宅の立ち並ぶ一角があり、そこにもう動かない観覧車の姿が見えた。これもまた「遺跡」だ。ある時代の終わりを感じる。西側の消費生活には後れをとり、自由も制限されていたかもしれないが、明日の生活の憂いなく、まずまずの水準の暮らしが保証されていた「ソ連」という文明の盛時、このような田園地域に造成された団地でも観覧車が回り、子どもたちの歓声が響いていたのだろうと思うと、失われたものへの愛惜の思いがこみあげてくる。ある程度の大きさの都市ならどこにでも町の一等地にジェーツキー・ミール(子供の世界)という名のおもちゃのデパートがあったものだ。首都のものは今もすばらしい子どもの夢の国でありつづけているが、地方都市では多くがごちゃごちゃ小さい店がひしめく安手のデパートに変じてしまった。これが進歩であり発展ならば、そんな進歩はなくてもよかったんじゃないかと思えてくる。
エレブニに出かけた際、実はイェレヴァン駅にも初めて行った。これは廃墟ではないけれど、ちょっと驚く。モスクワのどこかで見たような駅が地方都市相応に縮小された建築で、荘重ではあるがどこか大仰なスターリン時代のソ連式のスタイルであり、駅前広場の雄渾なサスーンのダヴィッド騎馬像とともに見栄えのよい立派な姿を誇っている。しかし一歩中に入ると、まったく人影がないのだ。床は大理石を敷きつめ、天井のドームはあくまで高く、広々としたホールに人っ子ひとりいない。両翼に柱廊に囲まれた中庭があり、そこは草が生え放題だ。まるで主を失った城館である。反射的に立ち入り禁止のところへ入ってしまったのかと思ったが、しかし奥へ行くと切符売り場があったから、「廃墟」ではなくてやはり現役の駅なのである。汽車は日に4本のみ。うちひとつは隔日運行のトビリシ行き夜行列車だから、つまり3.5本だ。これならあのサイズの10分の1で用は足りるだろう。鉄道の時代は過ぎ去ったのだと思い知らされる駅である。断交状態のアゼルバイジャンやトルコへ行く路線(したがってイランへ行く路線も)が閉ざされて鉄道が完全に盲腸化しているこの国の特殊事情なのかもしれず、貨物列車はけっこう走っているのかもしれないが。九州より小さい国土の国だから、国内移動ならバスのほうが便利なのはたしかだ。窓口でトビリシまでの運賃など聞いたりして少しうろうろしていると、ある列車の出発時刻が近づいてきたようで、ぽつりぽつり人の姿が出てきた。その列車を見ると、耐用年数をこえているようでずいぶん痛んでいるが、しかし乗客がけっこう(3割ほどか)いたのも、それはそれで驚きだった。おそらくイェレヴァン行きが朝1本、帰りが夕方1本というダイヤだろうに、それでも乗るか。一瞬これに乗って終点まで行きたい強い衝動に駆られた。
ズヴァルトノツの入口前にぽつんと立って、エチミアジンからイェレヴァンへ行くバスを待つ。やっと来たガスボンベを屋根に積んだおんぼろバスで帰途につく。市内に入りかかるときがちょうど日の落ちぎわで、赤に薄く染まったアララト山がバスの薄汚れた窓から眺められた。赤富士とはいかない、ほんの少し赤みがかっただけだけれども、すばらしい眺望を橋を渡りきる間だけ楽しんだ。
橋のたもとに大きなワイン工場があるが、そこはもとペルシアの城砦のあったところである。深くえぐられた河岸の崖の上に聳える黒い石造りの壁は新しいのかもしれないが、あたりを圧するそのさまは工場とは思えず、いかにも城砦を思わせる。バスの終点のすぐ近くにある市内にただ一つ残ったモスクに寄ってみた。小ぶりではあるが、青いタイルを張った様式はまぎれもなくペルシアである。アルメニアがペルシアであった過去を今に伝えるふたつの場所だ。
過去ととっぷり対話をした気分になった(なるなよ、これっぽっちで)。過去は古朴、過去は至近にして無窮。廃墟ツアーはおすすめだ。3度の長い散歩のご予算は、エレブニ博物館とズヴァルトノツの入場料も入れて、3000ドラム(10ドル弱)もかからない。4世紀アルシャクニ朝の首都であった町ドヴィンの廃墟にも行きたいが、この寒さでは無理かもしれないのがちょっと残念だ。