大虐殺から考える

旧聞だが、この秋に日本からある研究者がアルメニアを訪れたとき、頼まれてその調査の手配をした。それは1915年のトルコによるアルメニア人大虐殺に関して、虐殺記念碑・記念館が平和施設となっているのだろうかというテーマのものだった。
ナチスユダヤ人虐殺(ホロコースト)は有名だから、ほとんどの人が知っているし、よもやイスラエルに住む外国人でこれについて何も知らないという人はいまい(もしいたら驚嘆に価するし、尊敬にも価するかもしれない)。アルメニア人虐殺はそれほど知られていないので、それについて聞いたことのない日本人は多いに違いない。だがこの国に暮らそうというほどの奇特な人は、もちろん聞きかじり程度には知っている。深くこの国の歴史を知ろうというのでなく、単にアルメニア人と交際するだけであっても、わきまえておかなければならない事柄のひとつであることはたしかだが、しかし事が事であるだけに、正面からは話題にしにくく、彼らの思いについては言葉の端々からうかがうしかないだろうと思っていた。そこへこんなテーマを掲げて質問したいという人が来たのは、こちらにとっても好都合であった。


もう百年近くたつが、まだ癒えない傷口なのであろう。あと百年必要なのかもしれない。この傷口にはさわりかたがある。違ったふうにさわられると過敏反応を示す人が少なからずいるということがわかった。その来客の場合、彼として大いに気をつかっていたが、アプローチのしかたが一風変わっていたので、いつもアルメニア人がさわられたいようにさわっていたわけではなかった。これまで来たのはそのようにさわる日本人ばかりだったのだろう。そんな人のみ受け入れていてもしかたあるまい。いつかはトルコ人も来なければならないのだから。


広島や長崎の人は、特にアメリカを憎んでいるわけではない。世界遺産でもある原爆ドームをはじめとする両市の原爆記念碑・記念館は、世界平和を祈念するまぎれもない平和施設である。沖縄の「平和の礎」もたしかにそうだ。戦った両方の側の戦没者の名前を刻んでいるのだから。旧ソ連の各地にある「永遠の火」も、自国の戦死者のみ記念するとはいえ、立派な平和施設だと思う。あそこに献花するドイツ人や日本人の姿を想像できる。
それらとかわり、虐殺記念館が平和施設になりうるかというのは、なかなかおもしろい問いかけだが、はたしてどうなのか。
アルメニア人大虐殺は、ホロコースト南京虐殺などと比較して理解すべきである。では、イスラエルにあるホロコースト記念館南京の虐殺記念館は「平和施設」なのだろうか? どちらも訪れたことはないが、南京のは、日本の「一部マスコミ」によれば「反日教育の拠点」だそうだ。そう言明する人々はおそらくある種の予断をもって見ているのではないかと思われるが、それにしても日本人(の一部)にそう思わせるようなものではあるのだろう(見たことがないので、こういう言い方しかできないが)。
南京とアルメニアには共通点があって、被害者側と加害者側の言い分が大きくくいちがっているのである。虐殺の事実そのものさえ認めまいとするトルコを見ると、日本人は暗然とした気持ちにならなければならない。他者は自分を映す鏡である。南京虐殺清算していない日本人は、アルメニア人虐殺についてトルコを非難する資格はない。
加害者が加害の事実を全面的に認め、謝罪しているホロコーストは、明らかにこのふたつとは違うのだが、ではホロコースト記念館は「平和施設」であろうか? 最近ベルリンにホロコーストを記念するモニュメントができたと聞く。加害者側の国にあるこのような施設は「平和施設」であるに違いない。だが被害者の国にある記念館は、「平和に貢献する施設」であるのかどうか。ホロコーストのあとのユダヤ人は、テロと戦争しかしていない。自分たちの「生存権」の主張を大きく掲げて、アラブ諸国パレスチナ人組織と戦いつづけている。その「生存権」主張の最大の根拠が、ホロコーストである。まさか自分たちには600万人殺す権利があるとは思っていないだろうが。そうすると、ホロコースト記念館には「戦争の正当化」施設の一面があるのではないかと思えてくる。
南京は、戦場での出来事であるという点でほかのふたつとは異なる。古来戦場では蛮行がくりかえされてきた。戦争はひとつのキータームで、あとのふたつも戦時に起きた。しかし、トルコのアルメニア人大虐殺はどのようにしても正当化されない。むろん、トルコ側にも言い分はある。第一次大戦という未曾有の大戦争のさなかに行なわれたことである。アルメニア人居住地域は戦場になりうるほど前線に近く、敵のロシア側ではアルメニア義勇軍が戦っていた。トルコ領内のアルメニア人は、ほとんどがロシアの勝利を望んでいた。こういう地域からこういう人々を強請退去させるのは、「国家理性」にかなう行ないである。第二次大戦の際、ソ連朝鮮人やドイツ人を中央アジア強制移住させたし、アメリカは日系人強制収容所に入れた。だが、わずかな数の集団でしかなかったソ連のドイツ人やアメリカの日系人と違い、トルコのアルメニア人は200万からいるのである。移送が荒っぽくなってもしかたがない。そこまではOKだ。しかし移送される前に虐殺された人々が大勢いるし、移送のやり方ときたら、死のうが殺されようがかまわぬ虐待であって、単に射殺されたほうがずっと幸せであるような死に方で100万(正確な数字はわからない)もの人が死んだ。アルメニア人にとって許しがたい蛮行であり、悲劇である。第一次大戦後、亡命していた虐殺の首謀者タラート・パシャをベルリンで暗殺した虐殺の生き残りのアルメニア人に対して、裁判所は無罪の判決を出したという。そのときのその判定はまことに正しいと思う。
だが、アルメニア人はそれ以後「テロと戦争」をしばしばやっている。70年代に過激派が反トルコ・テロをくりかえし行なっているし、90年代にはナゴルノ・カラバフ自治州をめぐってアゼルバイジャンと戦争をし、休戦中であるだけで、今もこの戦争は終わっていない。カラバフは独立を宣言しているが、アルメニア以外はどこも承認していない「満州国」状態である。第2次大戦後のヨーロッパ・旧ソ連地域で、武力によって国境線を変更した唯一の例といっていい。ソ連・ユーゴ・チェコスロバキアの連邦崩壊によって新たな独立国ができ、したがって国境線もふえたが、それらはすべて分離であり、旧連邦内共和国の「国境」を踏襲したものである。ボスニアでは戦争が起きたが、それでも国境線は変更されなかった。グルジアからのアブハジアの自称「独立」も、自治共和国の分離であって、「併合」色の強いカラバフとは違う。
キプロスはヨーロッパではないが、隣接する境界地域であり、もしここを含めて考えれば、ここでも国境線が武力によって引かれている。そしてそれを行なったのはトルコだ。奇しくも虐殺の被害者と加害者が戦後ヨーロッパの共通理解に反する行動をとったわけだが、たぶん「奇しくも」ではないのだろう。アルメニア人は断固として自分たちはヨーロッパに属すると信じているし、トルコ人は、イスラムの信仰やこれまでの歴史にもかかわらず、ヨーロッパ共同体に加盟することを切望してやまないが、両者ともヨーロッパではない、争乱やまぬ西アジアの国なのだ。
アルメニア人は、あれでけっこうミリタントな人々なのである。やられてだまってなんかいない。


ナゴルノ・カラバフについて言えば、あのようにひとつの民族がかたまって住む土地は、アゼルバイジャンアルメニアのどちらかに属さなければならないなら、アルメニアに属すべきなのは明らかだ。戦争に先立って起こったバクー近郊スムガイトでのアルメニア人住民虐殺は、われわれのこの時代に、文明国をもって認ずる国で起きてはならないことである(「起きてはならないこと」の最大の特徴は、それが「起きる」ということなのだけども)。あれでアルメニア人は第一次大戦時の大虐殺を思い出したに違いない。
しかしながら、次のような諸点も考えなければならない。
ザンゲズル地方(アルメニア南部)とナヒチェヴァン(アゼルバイジャン自治共和国で、飛び地をなす)は、20世紀初めにはアルメニア人が人口の半分以下しか占めていない地域だった。カラバフとともにこれらの地域の帰属もアルメニアアゼルバイジャンの間で争われ、結局前者はアルメニア、後者はアゼルバイジャンに属すこととなった。アルメニア人はナヒチェヴァンの民族構成が「アゼルバイジャン化」したことを難ずるが、ではザンゲズルはどうなったのだろう。これらに限らず、このあたりはたいていが多民族混住の地で、国境線をどう引こうが少数民族を生んでしまうのだ。だから「民族」国家という考え方はこのような地域では麻薬にして毒薬で、ある地域の帰属や国境の引かれ方は第二義的な重要性しかない。多数民族の共存共生の保証こそが絶対的に重要なのである。
カラバフ戦争での「勝利」は、バクーやその他の地域に住んでいたアゼルバイジャンアルメニア人に移住を余儀なくさせる結果となった。数はそれよりずっと少ないが、カラバフやアルメニアに住んでいたアゼルバイジャン人も出て行った。結果として「民族浄化」になっているのである。それぞれの国境および停戦ラインの内側での「純度」は増した。民族主義の立場からは、それは「よいこと」なのかもしれない。だが、私はそうは思わない。多様性は青ざめた。民族混在の豊かさを殺す、恐るべき貧困である。むろん、アルメニア人だけが悪いのではない。アゼルバイジャンのほうがもっと悪いのだし、ロシアもグルジアも、セルビアクロアチアも、世界中がこぞって「悪い」のだけれど、それを「悪い」どころか「よい」としか考えない人たちが多数となっている。それを知りながらもわれわれは、そうではない、それは豊かな地の恵みだという無力な歌をうたいつづけなければならない。
また、こんなことも思う。アルメニア人は一人残らずトルコをきらい、一人残らずカラバフはアルメニアのものだと思っている。それはいい。だが、それを代弁する日本人というのがいる。アルメニア人がそう思うのには意味があっても、日本人が彼らの(しかも彼らのうちの最右翼の民族主義者の)口真似をすることにはまったく意味がない。アルメニアの利益代表というわけだが、そういう存在は、短期的には利益になっても、長期的大局的にはアルメニアの利益に反するものになるだろう。


外国(私が暮らすのはほとんど東欧か旧ソ連だが)にいると、よく「日本人は原爆を落としたアメリカ人を憎んでいないのか」と聞かれる。聞かれるたびに、ああそうだった、うっかり忘れていたが、アメリカを憎むべき理由はあったな、と気づかされる。さて、そう気づいたけれど、じゃあアメリカ人を憎むかといえば、否である(アメリカという国はきらいだが、それは原爆とは別の理由による)。
日本人は忘れっぽいと言われる。たしかにそうなのだろう。それに対し、権力者は忘れさせようとする、民衆は記憶しつづけなければならないという言説がある。
だが、私はこういう物言いに対して根本的な疑問をもっている。
人間は忘れる動物である。忘れるのが自然であって、どうしても記憶しようとすれば、物語の形に加工されて記憶されることになる。だが、それはフォークロアの領域であって、歴史ではない。たとえば、妊婦の腹を裂くというモチーフがある。暴君の話、虐殺の話にはかならずこれが語られる。男どもはよほどあの中を見たがっているらしい。アルメニア人虐殺でもこれが言われているそうだ。だが、そういうことが語られていても、実際に自分の目で見たという証言があるか動かぬ証拠でもあるかしないかぎり、単にそういうことがあったと聞いたということだけなら信用しないほうがいい。それはたぶん「伝説分類目録」に入れるべき項目だ。井戸に毒を入れるというのも、虐殺の発端となる事件としてよく語られる。中世にヨーロッパでユダヤ人虐殺が勃発するときには(ヨーロッパ人はいろいろに定義できるが、定期的にユダヤ人を虐殺していた人々だ、という定義も可能である)、たいていこういう噂がきっかけになっている。関東大震災朝鮮人が虐殺されたときも、朝鮮人が井戸に毒をまいているという風聞が流れていた。それはもちろん事実ではなく、フォークロアのモチーフである。
だから、「忘れるな」という要請に対して、私は非常に懐疑的だ。忘れないために、物語が作られる。その物語は容易に操作されうる。そうしてできた「物語」(「神話」といってもいい)を「歴史」と信じる。「忘れない」というのは、非常に危険なことではないか?
  忘れ去り忘れ捨てゆきなお残る 忘れえぬもの そをば忘れじ


近現代史というやつは、どうにも憂鬱である。近現代史を知らないと、その国が理解できない。だから、長期滞在する場合も旅行する場合もせっせと勉強するのだけれど。
「歴史」に虐げられた国々へ行くと、国境を一歩越えれば誰も知らない英雄の銅像があちこちにあり、彼らについて話も聞かされるのが習いである。そして、興味をもつか否かとは全然無関係に、彼らの名を覚えさせられる。だって目抜き通りはだいたい彼らの名がついているのだから。その「英雄」たちが、国境の向こうで無名ならいいほうで、そこでは極悪人とされていたりするのだ。これは疲れる。
近現代史ナショナリズムまみれであり、その国の存立の理由を教えることを任務とする学校はナショナリズムの宣伝機関、教師は司祭である。そこでは屈辱の刷り込みが行なわれ、わずかな誇らしい出来事の光輝が説かれる。ナショナリズムは「戦い」であって、その本質として「敵」を必要とする。「敵」がなければ成り立たないものは実は世の中に多いのだけども、やはり好きにはなれない。
独立は、あるいはその国家体制を成立させた革命は、ナショナリズムにとって最高の瞬間だ。解放という言い方も好まれる。だから独立記念日は国家の至高の祭日である。アメリカは独立をイギリスから戦いとった。だがそれは昔の出来事で、今のイギリスは友人であり、その当時の歴史は単なるエピソードとして談笑されるにすぎない。だが20世紀に独立した多くの国々にとって、当時の敵は今も敵であることがしばしばある。「歴史」は現役なのである。
この世から近現代史が消えてなくなったら、世界はどんなにすがすがしくなるだろう。
この点でも日本は「ラディカル」だ。学校で現代史を教えていないというんだから。若い連中には、アメリカと戦争したことも知らないのが大勢いるらしい。ある作家が女子大でこんな質問をしたそうだ。日本が先の大戦で戦わなかった国は次のうちどれか。イギリス、中国、オーストラリア、ドイツ、アメリカなどが選択肢として並び、もちろん正解はドイツなのだけれど、4分の1ぐらい(だったか?)はアメリカと答えるのだという。おいおい、主敵だよ、死闘の相手だよ。まことに、世界の常識は日本の常識ではない。
近現代史に関しては、このすっとばしてしまう日本と晴れ晴れと誇らしい歴史しか教えない(たぶん)アメリカが双璧をなしているのではないだろうか。むろん、こんな「ラディカルさ」は大きな問題である。だが、「憂鬱」をたゆまず鍛えている国々を見ると、それは五十歩と百歩の争いではないかという気もしてくるのだ。
もうひとつ、こんなこともある。海外にいると、日本大使館が開く天皇誕生日のパーティに招かれることがある。初めはどうしてこの日にパーティをするのかいぶかっていたが、ある時はたと気がついた。日本には独立記念日がないのである。もちろん「建国記念日」というのはあるのだが、この日にパーティなどやったらボイコットする邦人が多数出てきそうな主義主張の勝った祭日だから、日取りとしてはちょっと採れない。すると日本の国家としての祭日は、天皇誕生日しかないのだ。天皇誕生日は「移動祝祭日」である。天皇がかわれば日もかわる。天皇がかわれば元号もかわり、つまり暦がかわって、新しい世になる。元々は中国が発祥のシステムだが、中国が放棄した現在、日本だけが保持している循環する時間の表現はまぎれもない「無形文化財」であり、「世界遺産」といってもよかろう。独立を祝わず、こんなもの(失礼)を祝っているだけでいいのは、日本人に与えられた特権的な幸福だと思う。


征服者に対して抵抗するのは、人間の「基本的人権」のひとつである。フランスのレジスタンスの闘士が英雄ならば、イラクの「テロリスト」たちがどうして英雄たりえないことがあろうか。
ここでも、日本である。日本では占領下で武力抵抗が起きなかった。それどころか、マッカーサーは「新しい天皇」あつかいだった。アメリカは、いわば日本での成功体験に目眩まされて、イラクで泥沼にはまっているのである。「日本でできたのだから、ほかでもできる」。だが、どうやらできないことのほうが多いらしい。アメリカ兵の血でそれが実証されつつある。
ユーラシア大陸の東のはずれに、「グローバル・スタンダード」と異なる「日本スタンダード」というものがあるらしい。それは一方で世界の常識とかけはなれた日本の常識という独善的な現われ方もするが、また他方で、アメリカへの憎悪を含まないヒロシマナガサキの人々の平和希求や占領下の日本人の態度などのような一種崇高な姿もとる。戦争放棄憲法もそのひとつだろう。それは日本にしか当てはまらない特殊なものかもしれない。だが、そういうものがあるようだとなれば、それをよく検討してみるのは日本人の重要な努めである。「日本特殊論」を毛嫌いする人々がいるが、それから離れて、「日本スタンダード」をよく研究し、「日本モデル」というのを提示できるようにする作業が必要なのではないだろうか、と思うのだ。それが他地域にも適用できるものなのかは別として。
異国ではいろいろなことを考える。