世界最強の通貨?

アルメニア人はモスクワで宿に困らない。親戚の誰か、ことによると家族の誰かがモスクワで働いているからだ。親戚や友人のネットワークが強力な民族にあっては、もちろんそこにこころよく泊めてもらえる。
アルメニア人はディアスポラの民で、世界各国に散らばって住んでいることではユダヤ人と双璧だが、ソ連崩壊後にその新たな「離散」の動きが始まった。「出稼ぎディアスポラ」である。
平均的なアルメニア人の月収はいくらぐらいかと知人に聞いたら、「それはむずかしい質問です」という。「家族の誰かが外国で働いていて、送金をしているというのが『平均的アルメニア人』だから、月収を計るのはむずかしい」。むろんこれは誇張で、すべてのアルメニアの家族が出稼ぎをしているわけではないが、親戚には必ず外国で働いている者がいるらしい。今受け持っているクラスにも、ロシア帰りの学生が2人いる。アルメニアで生まれたが、小さい頃家族でロシアに移り住み、最近もどってきたそうだ(ソ連時代は「国内」であったわけだし、ロシアへ移住するのに「外国」へ行くという感覚はないようで、たぶん戦前の日本人が満洲へ行くような感覚なのだろう)。
目下アルメニア在住の外国人が当面させられている大きな問題、ドルの異常な下落の原因がまさにそれに関係しているらしい。エレヴァンに着いた9月26日には1ドル=336ドラムだったのが、2か月後にはついに300を割ってしまった。5月にここへ赴任した人の話では、そのときは350ドラムだったそうで、それ以降ひたすら下がりつづけている。ガイドブックには2006年4月現在で1ドル=460ドラムとある。円相場が、1ドル=110円だったものが1年半後に70円になっててごらんなさい。輸出依存の中小企業はばたばた倒れ、大企業も利益を吐き出し、大騒ぎになっているだろう。だがここはそんな事態にもあまり騒いでいるように見えない。これも不思議だ。
ドルが下落しているので、さすがに輸入品の値段は少しは下がっている。だが物価は上昇傾向なのだそうだ。もちろん輸入してばかりで国が成り立つはずはなく、アルメニアからも近隣諸国にいろいろ輸出しているに違いない。その産業はこのドラム高で大打撃を受けているはずなのだが。
1年半でこんなにドルに対して強くなる通貨って、ほかにもあるのだろうか? なぜこんなことが起きているのか。旧ソ連には天然資源に恵まれ、観光資源も豊富な(しかしインフラ未整備な)国が多いが、アルメニアグルジアは天然資源に恵まれないことで旧ソ連諸国の中で際立っており(ソ連時代にはあった家庭へのガスの供給が止まり、中央暖房もなくなって震えているのだ!)、観光資源はないわけではないが、海外旅行を数多く重ねた人がようやく旅先に選ぶ、という程度のアピール力しかない。産業が発達しているとも言いがたい。どこといってとりえのない小国なのに、いったいどうしたことなんだ?
外国からの借款の返済期限が来ているので、それで意図的に下げているのではないかという憶測も聞いたが、政策的に市場操作をしているなら、必ず闇市場が発生するはずだ。それがないところを見ると、そうではあるまい。アルメニアを研究している知人に聞くと、外国で働くアルメニア人が家族に送る外貨の送金のためだろうという。日本人にはにわかには信じられないが、その送金額は国家の年間予算と同じかそれ以上だそうだから、おそらくこれが当っているのだろう。ほかにこれといった外貨獲得の道もなさそうだし。しかしそのために、せっかくの外国からの仕送りが両替すると月々目減りしていくので、送金を受ける側は困っているという皮肉な結果となっている。
われわれのような外貨生活者にもこのドル下落はこたえる。給料はドラムでもらうが、それは月々のかかりの半分にも満たない。あとは持参のドルを両替してまかなう。いくらなんでもこれは下げすぎだ、もういいかげん底を打つだろう、もうそろそろ反発するだろうとずっと思っているのだが、いっこうにその気配がない。底なしの沼に呑みこまれているような不安がある。だって、常識でこれ考えられないでしょ? なぜアルメニアごとき(失礼、だが石油なく港なくさしたる企業なく、国土は九州程度、人口は静岡一県並みだよ)の通貨が、天下のドルをこんなに安物にしているの? それだけで十分常識を超えているのだから、いつ下げ止まるのかについても常識では予測できないに違いない。「テキサス・チェーンソー」という、わけのわからない殺人鬼が電気ノコギリを振り回すコワい映画があったが、あんな感じがしなくもない。常識ではかれないものは不気味だ。初めの頃は300前後で止まるだろうと期待を込めて考えていたが、今は250になっても驚かないし、それを切ってもあきらめの溜め息を薄くもらすだけだ。けれども、心のほうは用意できても、財布のほうは別である。そんなことになったら白旗上げて退散しなければならない。
その逆の局面は何度も経験した。すさまじいインフレで自国通貨の価値が日に日に落ちていくというのは。東欧の体制転換、ソ連崩壊の時期にはどこでもふつうに見られた。ドルは上昇を続けているのだから、外貨を持っていればインフレの影響はなく、ただ財布がどんどん分厚くなっていくのをかこてばいいだけだった。外貨を所持するのが生活防衛手段だったから、友人知人に金を渡す場合はなるべくドルにしてあげたものだ。そのまさに正反対を今経験しているわけである。因果はめぐる糸車、か?
外貨生活者というのは、何となく気障りな存在だ。その国の人々が日々の辛苦に耐えつつ暮らしているのとまったく切れたところで、いいとこ取りして日を送っている人たちなんだから。そういう連中が困っているのを見るのと、どこかでいい気味だと思ってしまう。しかしその目にあっているのが自分となると、やはり困るのである。
この貨幣レートなど、地域的、いや局地的な事情で世界の趨勢とまったく関係ないあり方をしているわけだが、しかしよくよく考えると、そういう局地的な現象の集積のほうが「世界」の実相であって、「世界標準」を頭から信じこむことのほうが虚妄ではないかとさえ思えてくる。「西洋史」を「世界史」と信じて疑わないのと同じ類の。アルメニアに来てよかったなと思うのは、こんなことについて考えさせてくれるからだ。困ってるけど。
(先頃は、前日1ドル=313ドラムぐらいだったものがいきなり300になり、翌日の夕方には280になっていた。さすがにそれは行き過ぎだと反省したらしく、その後少々もどして、12月3日現在で306ドラム。あの日で底を打ち、このあたりで安定するのならいいのだが、さて?)