水槽のあるわが住まい

アルメニアに着いて、空港から連れて行かれたのは前任者の住んでいたアパートだった。地下鉄の終点から歩いて10分ほどというのは、エレヴァン基準で便利なのか不便なのかよくわからない。もっと不便なところもあるだろうし。だが、部屋が北向きで、陽がまったく射さないのである。天井には裸電球がぶらさがっているだけ。寒々としており、実際寒かった。夏の薄い布団では明け方冷えて目がさめてしまうから、厚い布団がほしいと言ったら、すぐ持ってきてはくれたのだが、それで風邪をひいてしまった。本来まだそんな布団で寝るほど寒くはないので、寝ている間に手や足を出してしまう。すると、夏布団で目が覚めるくらいには寒いのだから、てきめん風邪をひくという寸法である。上の階のトイレの匂い(大のほう)もただよってきた。匂いですらそうなのだから、音なんかは隣や上から日本の木造アパート並みに聞こえる。これでひと月230ドル。地方都市なら日本でも見つかりそうな額だ。これはいやだ。かわりたいと学長に言ったら、意外にすばやく別のアパートを見つけてくれた。
その物件は市内の中心部にあり、大学までも、共和国広場(昔のレーニン広場、つまりまごうかたなき市の最中心)までも5分くらいだ。立地としては抜群である。町の中心はうるさいものだが、思ったほどではない。
窓は東向き。陽が射すということだ。陽が射すと夏は暑いだろうけど、冬ですよ、冬。電気ストーブだけなんだもの。アルメニアはガスがなく(供給されている地域もあるようだが)、台所にプロパンだかブタンだかのボンベがあるのみ。ソ連時代には動いていた中央暖房の設備も停止している。なのに、標高千メートル、最低気温はマイナス10度を越えるそうで、20度以下になる年もあるらしい。冬を越すことを第一に考えなければ。暖房さえしっかりしていればシベリアだって快適だし、暖房が不十分なら日本だって凍えてしまう(というか、寒いよ、日本は。夏本位で建てられた隙間風入り放題の木と紙の家なんだから。ロシア人が日本は寒いとこぼすのには道理がある)。冬に太陽ほどありがたい熱源はない。これはやはり確保したい。
ここに決めたのは、このふたつが大きい。ほかは前のところと一長一短で、家賃は同額。台所なんかは非常にせまく、料理らしい料理をしない私はあれでもがまんできるが、女性はいやかもしれない。夜間は断水する(10時−6時)等々、上記2点を除けば、そんなにいいアパートでもないのだが。
このアパートに心を動かされた点として、もうひとつ、水槽の存在もあったかもしれない。浴室のバスタブの上方に、四角い透明な水槽があるのです。そこに、ロシアに住んでいた人ならおなじみの、じかに水の中に突っ込んで湯を沸かすU字型の電熱棒があるでしょう、あれの特大のが差し込んである。下部にはシャワーの口がついている。スイッチを入れると、その湯沸し棒が水槽の水を温めるという仕掛け。原理的には市販のボイラーと同じだが、手作りの工作物であるところに、何とも言えぬ武骨な愛らしさがある。ドアを開けたら水槽だものねえ、驚くよ。ガラスではなくプラスチックか何かだが、そりゃそうだ、もし裸でシャワー浴びてるときに何かの拍子でガラスが割れて落ちてきたら、これはもう悲惨なことになります。中には浮きもあるんです。水洗トイレの要領で、浮きが上がったら水が止まる仕組み。わかりやすい。小学生にもよくわかる組み立てで、壊れてもこれならおれにも直せそうだと思えてくる(直せないけど)。ガスや暖房の停止という事態に遭遇し、必要に迫られた人々の、創意工夫のあとがまざまざと見える。とんち話を読むときのような、人間の知恵の勝利の図柄に見える。だから、ついひかれちゃったんですねえ。人によっては軽蔑の目を向けたりもするんだろうけど。だって、スイッチ入れて2時間ぐらいしないと温まらないんだものねえ。まあ、そのへんが創意工夫の限界ではあるんだな。人間の知恵って、だいたいその程度なんだ。
人が馬鹿にするものに愛情をもってしまうのは、天の邪鬼だから? まあそう思ってもらってもいいけど(そういう側面があることを否定するものではない)、それは、何かそこに大切なものがあるとひしひしと感じるからであって、自分としてはそちらのほうに注意を向けてもらいたい。旧東欧やソ連の車ときたらオンボロで、道はガタガタで、まったくひどいものだった、というのは正しい感想である。だが、そんなボロ車を運転する人々は、車が故障しても(よく故障する、実によく)、多少のことなら自分で直してしまう。あれにはいつも感心していた。日本人は動かなくなったらJAFに電話するだけ。それですむ社会のほうが進んだ社会なんだろうけど、そういう一部で高度に専門化し、全体としては無能化している人類って、どうなんだろう。エンストした車が道に止まっていたら、通りがかりの車の人が助けてやる。雪の日など押し掛けする車があちこちで見られるが、そういうときも通行人がこころよく手伝って押してやる。これらを「問題」ととらえるなら、それはよい自動車を生産することやガス供給・給湯の復活によって「解決」されるべきであるが、視点を変えれば、困難な状況をおのれの頭と腕と足で切り抜ける人間の半径5メートルでの「勝利」の姿ともとらえられ、私の心は後者に傾く。旧東欧ポーランドに自由労組ができたとき、その名は「連帯」だったなあ。
やっぱり、物事はわかりやすくなくちゃいけないんじゃないだろうか。仕組みなど毛の先ほどもわからないパソコンをパシャパシャやりながら、疲れたら浴室の水槽を眺める。精神の平衡にはいいかもしれない。