入賞始末

先日、エレヴァン人文大学の学生がモスクワのCIS弁論大会で6位入賞したのを祝って、日本センターの教師がパーティを開いてくれ、エレヴァンの日本語教育関係者や在住日本人のほとんどが集まった。よその機関の学生なのに、ありがたいことである。
日本センター教師のアパートでは、モスクワへ行く前にもスピーチをさせてもらっている。集まった日本人や弁論大会経験者、日本語教師たちから論評や励ましを受けた。一人文大学にとどまらず、エレヴァン全体が代表を支えてくれたわけだ。これにはたいへん感謝している。
出場学生には、各学年の学生の前でもスピーチをさせた。その子に人前で話す経験を積ませ、度胸をつけさせるほかにも、弁論大会出場という彼女の経験を、彼女一人のものに終わらせるのでなく、大学全体の経験にしたいと思ったからである。彼女が代表に選ばれたのは教師なり学長なりの指名によるものだったらしいが、これらの練習を通じて全エレヴァンの代表となることができたのではないかと思う。だからこそ、日本センターの教師もわがことのように喜んで、自宅で祝賀パーティを開いてくれたのだ。


今回の入賞者の顔ぶれを見ると、極東の三大学をはじめ「常連校」ばかりで、唯一エレヴァン人文大が新顔である。アルメニアからは初の入賞となった。新しい顔であるというほかにも、唯一の「無印校」である。交流基金から教師が派遣されているところは、いわば日本語教育の重点校である。日露青年交流センターや青年協力隊の教師が派遣されているところは準重点校といっていいだろう。そういう機関は、教材や留学機会等々、さまざまな点で優遇されている。そんな中にただ一校「無印」がはいりこむことができたのは、同様の「非エリート」機関にとっても喜ばしいことではなかっただろうか。
グルジア代表のスピーチは気の毒な出来だったと聞いた。日本人教師がいないので、練習のしかたもよくわかっていなかったのではないかと想像する。アルメニアの「成功」以上に、グルジアの「失敗」は胸に迫る。この両校は、大使館も日本企業もない小国で私立で細々やっている似たもの同士なのである。違いは日本人の有無のみ。逆に言えば、このグルジアも今回のアルメニアほどにはできるはずだということだ。いつの日か二校そろって入賞できたら、こんな痛快なことはあるまい。


弁論大会の審査結果は必ず批判される運命にある。
そもそもスピーチのようなものを客観的に点数化できるはずがないのである。識見あり経験あると一応認められる人々を一定数集め、まあまあ妥当であろうという採点基準で評価し、それを合計して順位を出す、というのが経験的にいちばんよい方法だと思われるが、しかし決して万人がその審査結果に納得するわけではない。これは弁論大会が宿命的に抱える問題だ。
けれども、入賞者や順位について毎年ひとつふたつおかしなところはあるにしても、大枠で妥当だ、というのが何度もこの大会を見てきた私の意見である。
だいたいいつも10ぐらい衆目の一致するすぐれたスピーチがあり、その中から6人の入賞者が出る。この10人前後の「入賞候補者」以外から入賞が出ることはほとんどない。ただ、どの6人がそれかについては、人によって意見が異なるものだし、順位についてもしかり。
そして、いいスピーチをしながら運悪く入賞を逃すと、最下位になったも同然なのである。順位が発表され賞品がもらえるのは6位までで、順位もわからず何ももらえない点では、次点(7位)も最下位も選ぶところがないのだ。6位と7位の間には恐るべき深淵が口を開けている。華やかなスポットライトを浴びる一握りの人たちと、場末の安アパートのどれも似たようなドアが連なったような眺め。そう、これはショービジネスの世界に似ている。オーディションに受かる者と落ちる者と、その差はほんの紙一重でありながら、勝者がすべてを取るというところまで。これはたしかに理不尽だ。
そしてその審査というのが、審査員の顔ぶれや人数が違えば、入賞者の顔ぶれにも順位にも少しずつ違いが出るであろうようなものでしかないときたら。国内大会や地方大会での順位とモスクワでの順位がかなり違ってくるのもその理由による。ことによると天候や風向きや、前日夫婦げんかをしたかというようなことまで審査結果に影響を及ぼしているかもしれない。だから弁論大会をきらう人、無視する人がいても理解できる。しかし、順位にこだわらなければ、入賞者がいいスピーチをしたのはたしかなのだから、拒絶するほどに重大なことでもない。たかが弁論大会だ。
結果の適当不適当を論じるというのは生産的なやり方ではない。そこからは結局、審査員は自分らよりアホだという、間違ってもいるし不毛でもある結論しか出てこない。審査員はアホかもしれない。その可能性は排除されない。しかしそんなことを言っている人たちほどアホでないのはたしかだ。飲み屋マターということだ。
世に理不尽は数多い。だが、それは常に何かを語っている。理不尽に耐えることを人生という。


アルメニアがこんな分不相応な高い座についたのは、もちろんもののはずみである。幸運な偶然がふたつみっつ重なったのだろう。そうでなければ入賞なんかできるはずがない。だが、いちばん重要なことは、「もののはずみ」がありさえすれば入賞にすべりこめるぐらいのポジションにつけていたこと。つまり上位10人ぐらいのグループの中に入っていたということで、アルメニアにとってこれだけでもすばらしい。何せこれまで常に下位グループか、せいぜい中位グループのうしろのほうにしか位置していなかったのだから(島根県の国体順位並みとでも言おうか)。だから今回の目標も、中位グループの前のほうに行くことでしかなかった。
上位グループに入っていれば、何か「ひょんなこと」があれば入賞できる(逆に「ひょんなこと」で圏外に落ちることもある)。今回はアルメニア代表にそれが起きて、ああいう結果になった。つまり、入賞は「もののはずみ」でしかないが、上位にランクされるほどのスピーチをしたのはたしかだということだ。


結果は結果としてあとからわかるもので、出場した学生は、いいスピーチをしたいということのほかに雑念はなかったと思う。スピーチコンテストがどんなものかよく知らないのだし、アルメニアからは過去入賞した前例がないから、イメージもできなかったはずだ。現地人教師も学長も含め、われわれの間で「入賞」なんて言葉は一度も出ることがなかった(だいたい彼女は「入賞」という日本語を知らないだろう。6位までになれば賞品がもらえるということも、エレヴァンをたつ時点では知らなかったのではなかろうか)。
アルメニアは入賞なんか考えてもいなかった。だから入賞に価するのだ、と言い切ってよい。審査員が一方的に予想もせぬ高い評価をよこしたのだから。
アルメニア代表の子は日本語力が低い。だからすばらしい、と考えてもいいのではないか。その裏にある努力を思えば。実際よく練習した。「目方で男が売れるなら」と寅さんは歌うが、練習量で順位が決まるなら、あのくらいのところにつけていてもおかしくなかった。人の倍も練習しないと人並みになれない学生が、人並み以上の評価を得た。それをほめてやらないのなら、この世にほめてやるべきことなんてあまりないと思う。


今回のアルメニア代表に期待していなかった理由は主にふたつ。「お勉強」型とでも言おうか、本で読んだり資料を調べたりして得た知識を得々として発表するタイプのスピーチだったことがまずひとつ。彼女の場合は、日本語とアルメニア語・ロシア語の慣用句を調べ、意味が似ているものも全然異なるものもある、だから慣用句をよく心得ておかねばならない、慣用句はとてもおもしろい云々と説く。文の運びに工夫があり、なかなか巧みなところがあるとはいえ、弁論大会では自分の体験や意見を語るスピーチが多いもの。その中で、これってどうなんだろうと日本人なら誰でも危惧する。
もうひとつは日本語力の低さだ。日本語能力試験3級にようやく受かる程度の力だと思われるが、こんな大会に出てくる学生はやはり語学力も高いから、明らかに見劣りする。
スピーチそのものはきっとよかったのだろう。今回の大会は聴いていないのでわからないが、彼女がここをたつ直前にやったスピーチのレベルでモスクワでもやれたのなら、悪いものじゃなかったろうと思う。
だが、ああいうタイプのスピーチを日本人は好まない。私もあまり好きではない。まるでレポートだから。
しかしながら、ロシア人はこういう「知識のひけらかし型」のスピーチを好む。10人いれば、4、5人はこんなのを書いてくる(学内のレベルでは。大会出場レベルとなると淘汰されてぐんと減る)。好んでそれを書くということは、それを評価する人もいるということだ。日本人は、まず10中9人がこのタイプのスピーチを評価しない。だがロシア人はする。今回の審査員は5人中3人がロシア人だったようだ。だからこんな評価が出たのだろう。しかし、ロシアの地でやる大会なのだからロシア人の審査員が多いのは当然のことだし、ロシア的好みが出てくるのも当然だ(それがモスクワの好みであってはならないと思うが)。
人の好みはさまざまだ。だからいろいろなスピーチがあっていい。自分の経験や意見を開陳するのが主流であっても、そればかりではつまらない。多様性はいつでも世界を飾る花だ。
(余談だが、彼女の祝賀会にアルメニア人教師が、クリームたっぷりコテコテの、いかにも甘く重そうなケーキを持ってきてくれた。日本人は辟易する代物だが、参会のアルメニア人はたちまち平らげていった。つまり、そういうことなのだ。)
練習のかいあって、スピーチはめきめきよくなった。ただ、もとから低い日本語力は、そんな練習だけですぐに上がるものではない。きっと質問でつまずくだろうと踏んでいた。むずかしい質問が出たら立ち往生する恐れもある(そもそも日本語力をはかるのが質問の目的のひとつなのである)。だが、出されたのは簡単な質問だったらしい。それが彼女の二つ目の幸運だ。
スピーチと作文とはまったく別物である。スピーチでいちばん大事なのはパフォーマンスだ。「ステージ」なのだから。公衆に訴えかけるものなのだから。アピール度コンテスト、好感度コンテストという側面もどうしてもある。
あの学生も、好感度でポイントをかせいだのかもしれない。おチビさんが目を見開いて一生懸命話しているのが、ロシアの大女たちの中で好ましい印象を与えたのかなと。もしそうだとしたら、これもたくまざる幸運だ。
身に過ぎる勲章をもらって、学生時代のよい思い出だが、重すぎなければいいがとは思っている。


旧ソ連に赴任する日本語教師は、好天が続き遠出には最高の9月10月の輝く秋の日々を、弁論大会の練習のためにつぶしてしまうべく運命づけられている。そして、なぜか冬の12月初めに行なわれる日本語能力試験に際しては、雪はどうか霧はどうか、峠道が越えられるか、飛行機が欠航しないかとやきもきし、ようやく学期が終わり、試験休みでまとまった休暇の時間が取れるのは、1月の冬の盛り、厳寒の盛りで、旅行しようという気も起こらない。行く先も冬なのだし。この国から能力試験を受ける学生はいないので、その分の心労はないけれど、まあ大した特典ではない。
ロシアなどよりずっと天気のいいアルメニアも、10月半ばから雨の日が多くなり、降るごとに気温が下がっていって、今はまぎれもない晩秋。中央暖房もガスもないこの土地で暖をとる冬の頼みのオイルヒーターをつけはじめた。
久しぶりの快晴に恵まれた祝賀会の日、日本センター教師の6階のアパートの南面する壁いっぱいの窓からくっきり見えた、雪化粧の白いアララト山と小アララトの姿を美しい秋の形見に、山国アルメニアの冬ごもりがはじまる。