1分ビデオコンテスト

 教室の学習だけでは日本語力はつくものではない。課外の学習こそが大事で、それは学習者自身が考えていろいろやればいいのだが、教師としても学校としてもさまざまな機会を提供すべきである。それが課外活動である。外国で教える場合はその必要性と重要性がさらに増すし、困難も増す。教室を一歩出たら日本語なんか誰も話さず、母語で生活できるのだから。

 課外活動は、単調になりがちな学習に活気を持ち込み、モチベーションを上げる効果が期待できる。ネイティブスピーカーである教師が積極的に関わることで、教室ではできないネイティブスピーカーとの密接なコミュニケーションをもつことによって、聞く力、話す力が鍛えられる。

 いろいろな性格の学習者に適したいろいろな催しがある。人前に出たくない学生はどこでも必ずいるし、また逆に、ろくに話せないのに何にでも出たがる学生も必ずいる。一歩下がって人の世話をするのが好きな者、歌や踊りや漢字マニアやオタクな知識や、さまざまな特技を持つ者がいるのが学校のいいところだ。それに、学校には日本語専攻であるにもかかわらず日本語が嫌いな者が一定数いて(入学後嫌いになった者や、もともと好きじゃないのに入学試験の結果そこに振り分けられた者など)、彼らの嫌悪感を取り除くのも教師の仕事のひとつであるのだけども、それには課外活動がきっかけになりうる。

 

 では、課外活動にはどんなものがあるだろうか。

 まず、集まって話をする日本語サロン。

 新聞・雑誌作り。これは最近ではブログという形をとることが多い。紙という物質の制約がなくなり、作りやすくなった。

 料理をはじめ、着物だとか生け花だとかの日本文化紹介の催しもよくやる。ただ、能動性という点では学習者は受け身である。

 逆に、日本人に自文化を紹介するという催しはすごくいい。しかし、その町に日本人がたくさんいればでき、いなければできないので、普遍性はない。日本人視聴者を想定し、ビデオを撮るという活動をすれば、ある程度の代替になる。

 コスプレというのも最近のはやりだが、これは能動的とはいえるけれども、日本語は基本使わない。日本語イベントではなくオタクイベントだ。

 総合的に、日本祭りなどフェスティバルを開催することもある。コスプレや日本文化紹介もしばしばその枠内で行なわれ、ステージでは歌や踊り、日本語劇、ステージ外では模擬店などが出る。模擬店は、日本人の来客があれば生きたコミュニケーション実践となって非常にありがたいが、それがないと日本語力との結びつきは弱い。

 日本語劇ではセリフを忘れたり飛ばしたりするのが恐い。スピーチコンテストでも起こることだが、スピーチならその人一人だけの問題だけれど、劇では全体が崩れてしまう結果にもなる。プロでも起こりうるし、母語でも起こりうる。素人なら母語の劇でも取り繕うのはたいへんだが、外国語となると破滅的になりかねない。それで、セリフをあらかじめ録音しておき、それを流しそれに合わせて演技する、という方法がしばしばとられる。ダンスの振り付けのようなもので、アフレコの反対だ。また、セリフ班と演技班に分かれ、セリフ班が袖で台本を見ながら言うのに合わせて演技班が演技する、という方法もある。こういうふうに分けると、日本語は上手だが人前ではあがってしまって足がすくむ者、日本語はからっきしだが演技ならお手のものという連中それぞれに所を得て、いいように自己実現できるだろう。

 

 そのほかに、さまざまなコンテストがある。コンテストは競争であり、それのない他の活動と違い、切磋琢磨という要素が加わる。おもしろいかどうか、上手かどうかが重要で、正解がない。試験も競争であり、日本語学習カレンダー上の重要(ことによると最重要)なイベントであるが、試験というのは正解が存在しそれを答える作業である。体も動かさず、あまり(または全然)楽しくない。

 いろいろな種類のコンテストがあるが、まず、しにせと言うべきスピーチコンテスト(弁論大会)と作文コンクールに指を折る。

 朗読コンテスト、暗誦コンテストというのもある。スピーチから自作するという部分を省いたものだ。

 日本語劇も競演会としてコンテストになることがある。

 カラオケコンテスト。のど自慢である。

 ドラマやアニメの声を消し、その部分のセリフをつけるアフレコのコンテスト。

 クイズ大会。日本についての知識を参加者のみならず参観者にも広げるには有効だが、これは立体試験のようなものだ。

 百人一首大会というのも国によっては行なわれている。古文の学習のきっかけとしてはいいけれど、現代では使わない文法や語彙だから、実践において役立つことは少ないし、本当に競争に打ち込むと決まり字の暗記となってしまう。日本語力との関係は深いようでいて、実際には一見したほど深くない。日本語力はむしろ、指導者が日本人であったり、そういう大会には日本人が大勢いたりするので、それによってつくということになる。

 スピーチコンテストなどフェスティバル型の催しは、伝統国では現地人教師がとりしきっているが、日本語新興国では日本人が主体となって行なわれていることが多く、日本語が共通言語となるので、スタッフとして参加する学生は日本語で揉まれることになり、その点でも非常によろしい。

 

 コンテストを分類すれば、まずステージ型とそれ以外(作文コンクールだけだが)に分けることができる。

 ステージ型では「場の拘束」が必然だ。その日・その時・その場所に集まる必要がある。だからおもしろいのだが、束縛ではある。わけても、コンテストの場合は審査員が必要になるのだが、審査員を確保し拘束するのはけっこうなハードルだったりする。ステージ型以外ではその拘束がないのが利点だ。逆に言えば、その拘束があるということはその日その場に人が集まるわけで、フェスティバル性が高い。非ステージ型はそれが乏しく、人知れず結果だけ通知が来る。

 また、自力型と他力型という分け方もできる。自力で創出するスピーチや作文と、すでにあるものを演じるカラオケ・アフレコ・朗読・暗誦だ。日本語劇は創作脚本か既製脚本使用かによって異なり、両者の中間といえよう。

 機材依存度を基準にすれば、その低い順に、最低限紙と鉛筆でできる作文・大きめの教室があればできるスピーチ・日本語劇(大道具・小道具・衣装・照明・音響など)・カラオケ・アフレコとなる。機材がアナログかデジタルかも違いだ。劇には多くの機材が必要だが、それらはすべてアナログだ。なにせ古代ギリシャの昔からやっていたことだから。カラオケもアナログ時代からあったが、今ではデジタル化している。アフレコはデジタルでなければできないだろう。

 日本語力向上との相関度で言えば、スピーチ>作文>それ以外、となる。やはり自力でゼロから作り出すスピーチや作文のほうが日本語力はつく。

 

 しかし、コンテストには欠点や問題もいろいろある。

 ステージ型では、続きを忘れてしまい、真っ白になって立ち尽くすことがときどき起こる。こういうのはトラウマになってしまう恐れがある。また、大勢の前でするのだから、失敗(ねらった成績が取れないことも含む)によってモチベーションが下がる結果となってしまうのも恐い。

 作文の場合(スピーチもスピーチ原稿作成が前段にあるからここに含まれる)は、まずコピペ。盗作盗用である。また、別の意味での「作文」、作りごとであることもままある。人の経験をわがことのように書いたり、話を盛ったり。「作文」になるのは、不誠実であるだけで、自分で書いていれば日本語の練習にはなっているけれども、まるまるコピペではどうにもならない。

 

 日本語教育の枠内でビデオコンテストというのがすでに行なわれているのかどうかはよく知らない。管見に入ってないだけで、実はよく催されているのかもしれない。とにかく、今回これを始めてやってみて、さまざまなコンテストの弱点を補って有効なのではないかと思った。

 自分で考えて、いろいろな種類のビデオが撮れる。自由度がきわめて高い。今回の応募作品を見ても、落語などの芸能実写、短いスピーチ、アフレコ、何か(スキーの滑り方、漢服、お気に入りの本や番組等々)の紹介や解説など。寮のルームメイト会議を撮ったものもあった。さらにもっといろいろな企画が考えられるだろう。スピーチなら話、作文なら文章、カラオケなら歌と、決まった形があるのに対し、はるかにとらわれずクリエイティブであることができる。自主性創造性を開放できる。

 ナレーションという形で参与すれば姿を見せなくてもいいし、そうでなくても、撮影のときは撮影者がいるだけだから観衆を気にすることもない。自撮りならそれもない。だからステージ型コンテストでは必須条件の観衆の前に出ることが嫌いな学生も参加できる。さらに、ステージ型の大きな難点である失敗の問題もない。失敗すれば何度でも撮り直しをすればいいのだから。

 時間と場所の拘束がないのも利点だ。この点は作文コンクールと同じで、審査員は遠方にいてもよく、自分の都合のいい時間に審査できる。運営の側からは助かる。

 それでいて、発表会・表彰式を催すことでフェスティバル性も確保できる。ステージ型の利点も取り入れられる。

 今回、1分ビデオという条件にした。コンテストである以上、同一条件を課さなければならない。1分という長さには特に根拠があるわけではないが、25MBとか30MBのようなメールに添付して送れる容量を目安にした。すると1分程度だろう、ということだ。

 初回ながらやってみて思ったのは、凝った編集をした作品がやはり上位に来てしまう。編集コンテストにならないように、カット数を限定することが必要になるだろう。

 ともかく、これはなかなかいいものだ、というのが結論である。現代では誰でもスマホを持っていて撮影できるから、参加は容易だ。母語でならSNSに動画投稿をしている者もいるだろう。それを日本語でやるだけだ。スピーチや作文より参加のハードルは低い。これから盛んになっていくだろうと思われる。