チベットのパパラッチ

人間は秘密が大好きだ。子供を見るがいい。秘密基地をせっせとこしらえて、暗号で指令を送ろうとする。人間とは結局、子供なのである。秘密が好きなのときっかり等量に、秘密を破るのも大好きだ。自分の秘密は守らねばならず、人の秘密は暴かねばならない。禁じられれば禁じられるほど、そこへ踏み込みたいと願う欲望は募ってゆく。まことにもって始末におえないが、それが人間性というものだ。
ホップカークの『チベットの潜入者たち』(白水社、2004)は、19世紀後半、鎖国チベットに次々に踏み込んでくるヨーロッパ人を描いた読み物である。たいへんおもしろく、いろいろ考えさせられる。
宣教師が布教のためにやって来るのは、余計なお世話だが、まあ許そう。職業的探険家や軍人もよしとしよう。彼らには職務や使命感という大義名分がある。だが、リトルデール夫妻やランドーの押し入りなどのくだりを読むと、ふつふつと怒りがこみあげる。そこへ行かねばならない何の理由もない連中が、ただ自分勝手な冒険気分のみで押しかける。不幸にして命を落とした者もいるが、ほとんどの場合において、チベット人は侵入者がただ元来た道を帰ることだけしか要求しない。自分たちの平和な生活を守りたいだけなのだ。
だが、そうはいかない。文明は、ひとりまどろんでいることを許さない。人はみな文明人になる義務を負っている(らしい)。ここで天心の警句を思い出すべきなのだが。「彼らは、日本が平和な文芸にふけっていたころは野蛮国と見なしていた。しかし、日本が満洲の戦場に大殺戮行動をおこしてからは、文明国とよんでいる」。
むかし日航機の墜落事故があって、わずか4人だけ(だったと思う)助かった中に、川上慶子という女の子がいた。いっしょに乗っていた両親と弟は死に、自分だけ助かった。助かったとはいえ大けがを負って、入院していた。ある日相撲を見ていたら、突然中継が中断し、ニュースに切り替わった。慶子さんが退院するのだというのである。あのときの怒りを思い出す。病院を出て歩いていくのだが、その道にカメラの砲列がえんえんとしかれているのだ。親兄弟を一時に亡くした気の毒な女の子をそっとしておかず、その上にこんな仕打ちを重ねるのである。全体としては許しがたいが、個々のカメラマンに悪意はない。この本の登場人物たちもそうなのだろう。それもまた人間性ではある。
チベットへの侵入者の子孫である著者は、そのような先祖の行ないを批判的にとらえている。パック旅行者のポタラ宮闊歩をもってチベット侵略は完成したとする意見は、まことに正しい。けれども、この一件全体をチベット対侵入者の「ゲーム」として見る視点には、西洋(わけてもイギリス)文化のわれわれとは違う発想を思い知らされる。中央アジアを舞台にしたイギリスとロシアの勢力拡張の争いを「グレート・ゲーム」と名づけるのと同じ、われわれにはない感覚を、ここにも感じさせられた。異質だが、快くなくはない。
この本の最大の欠点。それはロシア側からの入蔵者を(プルジェワルスキーを除いて)まったく取り上げていないことである。彼らがロシア領に住むブリヤート・モンゴル人だったため、つまり非白人だったため、白人の競争という視点から取り扱われなかったとも考えられるが(河口慧海や成田安輝も申し訳程度にしか言及されていないのだから)、単純に知らなかったのではないかとも思われる。欧米人の著作は、実は限られた視角しかもっていないということを忘れてはならない。英語に頼りすぎるのは危うい。それもまたこの本の教訓である。