「漢字習得辞典」緒言

緒 言


この辞書は、独習を余儀なくされたフェルガナ大学の学生たちのために作りはじめられたものであり、漢字圏や欧米先進国でない外国で日本語を学ぶ学生や成人学習者を使用者に想定している。


日本語が漢字を使いつづけるかぎり、そして学習者の側でテクストを読む必要があるかぎり、漢字と向きあうことを避けるわけにはいかない。日本語の語彙に占める漢語の比率は、雑誌の異なり語数で見れば47.5%であり、和語の36.7%よりずっと多いという統計がある(外来語は9.8%。延べ語数では、和語53.9%・漢語41.3%であるが)。漢語はもちろん漢字で書かれるし、和語にも漢字が訓読みで使われている。
日本語の大きな特徴は、語彙が多いことである。ある統計によると、英語は、使用頻度の高い1000語を知っていれば80.5%、3000語で90.0%、5000語で93.5%がカバーできるという。これに対し日本語は、1000語ではわずか60.5%に過ぎず、5000語を知ってようやく8割を越すのが精一杯(81.7%)。3000語で86.8%に達する中国語、85.0%の韓国語に比べても、著しく不利である。漢字に音・訓ふたつあり、字音・字訓に基づく同義語の多いことが、語彙の多さの大きな要因になっているのは間違いない。
しかし一方で、たとえば日本の新聞を読むとき、使用頻度の高い漢字200字を知っていれば全体の56.1%が、500字でほぼ8割の79.4%が、1000字で93.9%、1500字で98.4%、2000字で99.6%がカバーできる。語彙に比べて漢字の場合、頻度の高い重要字の全体に占める割合が非常に高く、努力はただちに報われる。しかも漢字は形声字が大半なので、ある程度知っていれば、知らない漢字に出会ったときにも意味や読み方がだいたい推測できるという性質がある。漢字学習は、初めはたいへんだが、覚えていけばいくほど簡単になる。日本語能力試験1級の2040字(常用漢字1945字とほぼ同じ)はもちろん到達目標だが、同2級1023字(学習漢字1006字とほぼ同じ)を習得すれば、困難の大部分は克服したことになる。そして、漢字をひとつ覚えれば、字訓の和語とともに、その字を構成要素とする字音の熟語(漢語)をいくつも覚えることにつながる。漢字学習は日本語の語彙学習の根幹をなすのである。
たとえば「まなぶ」と「がくしゅうする」は同義語だが、音節がひとつも共通していない。漢字を間に置いてはじめて、これらが同義語だとわかる。耳からだけで、あるいはローマ字だけで日本語を学ぶ者は、発音に何の共通点もないこれらの単語をひとつひとつ暗記しなければならない。だが、漢字とともに日本語を学ぶ人は、漢字(この場合は「学」)と有機的に関連づけて、これらの同義語群を習得することができる。基本漢字の音訓をマスターすることが、日本語の多すぎる語彙をマスターする近道なのだ。いわゆる「音訓シノニム」をできるだけ挙げることにしたのも、この点への配慮からである(同義語であっても、使用できるコンテクストが違うことが多いので、その点には注意が必要だ)。


 「日本語は世界一むずかしい」などというのは、「日本語は論理的でない」というあきれた言い草とともに、西欧諸言語がすべての規範であった時代の悲しむべき物言いとして、無視してよい。しかしながら、「日本語の表記は世界一むずかしい」というならば、それは残念ながら当たっている。ひらがな・カタカナに加えて漢字があり、ローマ字もときどき入ってくる。さらに、「諸橋大漢和」に載っている漢字は約5万字だというのはエピソードとして聞き流すとしても、2000ほどは「常用」とされるその漢字には、音読みと訓読みがあり、音には漢音・呉音・唐音があり、訓もひとつにとどまらず、音訓まぜこぜの重箱読み湯桶読みがあり、加えて当て字もある。中国語では日本の2倍以上の字を常用としているとしても、読みは基本的に1字にひとつなのだから、それは単に数量の問題で、音訓による複雑怪奇は存在しない。日本語にうんざりしたくなったら、和語も収録しているタイプの字典の「生」や「上」「下」の項を見てみるといい。ひとつの字がこんなにも違って読まれている。あなたが秩序を愛する人だったら、これはひどいと思うだろうし、実際にあれはひどい。
 加えて、字音だけでも次のような問題がある。日本語の発音は、閉音節がなく音節の数が少ないので、たいていの文明語より簡単である。しかし、この一面での学びやすさが、同音異義語の異常な多さとして、学習者にはねかえってくる。中国語では異なる発音の字が、日本語では同じ発音になることがあまりにも多い。そのため、たとえば手近の国語辞典で「コウカン」を引くと、「公刊」「公館」「交換」「交感」「交歓」「向寒」「好感」「好漢」「巷間」「後患」「浩瀚」「高官」「鋼管」など、17語もが並んでいる。日本語ワープロの変換キーを押して、現れる漢字の行列にめまいをおぼえた外国人も多かろう。アクセントまで同じだとすると、文脈のほかには字形しか意味の判別の手段がない。耳で聞いただけではわからないという奇怪なあり方をしているのが近代日本語で、話しながら指で宙に字を書く人を目撃した経験もあると思うが、恐れることはない、その人は別に指が勝手に動く奇妙な病気の患者ではなく、むしろ教養ある常識人だ。だから、ほめられた特徴ではないのだが(実に盲人に優しくない言語である)、残念ながらことがそうである以上、漢字を習得せずに日本語を習得したとは言えないのである。
日本列島に生息する人類の一部にマスターできたことだから、他のホモ・サピエンスにできないわけはないけれど、なんとかその道を行きやすくしてあげたいと思う。


「漢字を覚える」というのは、つまり形・音・義(意味)の間に関連をつけることである。
覚える手助けになりそうなことは積極的に取り入れた。ひらがな・カタカナの元になった字をあげたのも、「化学」と「科学」のような同類同音語を区別するために、前者を「バケ学」と言ったりするような例を添えたのも、形・音・義の記憶を助けるかもしれないタグをいくつもつけておこうということからである。
要は、覚えられれば何だっていいのである。絶対の方法はない。自分に合った方法を自分で見つければよいので、それが根本だ。「業」の書き方を「タテタテチョンチョンヨコチョンチョン、ヨコヨコヨコタテチョーンチョン」と覚えるのもいいし、「止まるのが少ない」のが「歩く」、かわいい「女の子」が「好」き、でもいい。「東」と「西」は、東に譜面台、西に壺があるイメージを思い浮かべてもいいし、「東」を「木」と「日」合成としてもいい(木の向こうから日がのぼる)。「明」は会意字、「暗」は形声字だが、それにこだわらず、「日」は太陽や時間に関することがらで、「月」があれば明るい、「音」しか聞こえなければ暗いと考えていい。「親」を「木の上に立って子どもを見ている人」と、「恋」を「ふた(亠)の下で火が燃えているような気持ち(心)」としてもいいのである(昔は旧字体の「戀」を、「戀という字を分析すれば、いとし(糸)いとしと言う心」とシャレていたが。「女のまた(又)には力あり(=努)」とも言っていたな。「意欲に(1492)燃えるコロンブス」同様、これも日本語の「文化財」だ)。
しかし一方で、「王道」はある、と考える。鴎外は医学生時代、新しい術語を習うたびにギリシアラテン語の語源を調べ、赤インクでノートに注していたという。「人が術語が覚えにくくて困るというと、僕はおかしくてたまらない。なぜ語源を調べずに、器械的に覚えようとするのだと言いたくなる」(「ヰタ・セクスアリス」)。それは漢字にも当てはまる。
漢字の成り立ちを究明する学問がある。実際に漢字は歴史的にどのように作られていったのか。わかりにくい例がいくつもあっても、字源学にしたがって覚えるのが結局はいちばん効率的で堅実である。学問の本道であるし、日本学の学生であればなおのことだ。しかしながら、字源学にはかならずしも定説があるわけではない。白川字解(汎呪術説)は魅力的だが(異数なものは魅力的に決まっている)、あまりにも字面に密着しすぎている気味があり、見てきたような説明が多いのも得心しかねるので、できるだけ採らないように心がけた(それでもなお入っているものがあるとすれば、それがこの説の力だ)。多くは藤堂字解やその他の漢和辞典の字解によった(音義説の流れである藤堂説は藤堂説で、いわば字源学に語源学を加えたもので、言語はまず音であり、文字はその写しであるという基本原理において疑いなく正しく、字形研究に音の重要性を強調するのはいいのだが、そこかしこに同一音義、同一起源を見つけすぎている感はある。この分野においてもやはり、「黄金の中庸(凡庸?)」原則を堅持すべきなのだろう)。
けれども、字源学は万能薬特効薬ではないことも強調しておかなければならない。字形は変遷しているし、古代中国人の論理を読み取るのだから、そうそう理解しやすいものばかりではない。だが、字源の基礎知識をわきまえておけば(たとえば「又」や「寸」が「手」の形で、「止」や「夂」が「足」、「卩」が「ひざまずく人」であることなど)、漢字習得が数等容易になることは間違いない。字源学で理解しやすいところは字源学で、そうでないところでは自分なりの方法をあみだしてほしい。


漢字字典の必要を日本人はあまり認識していない。漢和辞典というのは、たいていの日本人が持っている日本語の辞書であるにもかかわらず、日本語教育においてもっとも顧みられていない本のひとつである。あなたの学校の本棚を見てごらんなさい。漢和辞典など置いていないか、あったとしてもほとんど開かれていないはずだ。むろん、それにはそれなりの理由がある。引きにくい、使いづらいという単純な理由のほかにも、日本人の国語学習・漢文学習を念頭に編纂されていることが、外国人の日本語学習に無縁のものたらしめている。しかし、手にとってよく見てみれば、漢和辞典は漢字に関する情報の宝庫だとわかるだろう。音訓、字義、画数、部首、熟語に加えて、字の成り立ち、旧字体、甲骨文・金文・篆書の字体、呉音・漢音の別、筆順、同訓意義の使い分け、部首解説、中国語音等々、最近の辞書の充実は驚くばかりだ。日本語学習に不要な部分をそぎ落とした上で、漢和辞典に集積されている情報を使いこなせるようにすることの必要は、きわめて大きいと断言できる。
漢字字典の最大の問題点は、検索だ。引きづらいのである。直接に辞書の本体にあたることはできなくて、まず索引で知りたい字の出ているページを割り出し、しかるのちに該当ページを開く。その際1ページ前でも後でもいけない。こういう二重手間が、漢和辞典をいたって不人気なものにしている。他のたいていの辞書と同じく、音に従って並べる、つまり、同音なら画数順ということにして、漢音の五十音順(日本語の場合)、ピンイン表記のアルファベット順(中国語の場合)というのがいちばん合理的なようだが、字典をひくのはそもそも読み方を知りたい場合というのが大半だから、いすかのはしの食い違い、そうもいかないのだ。索引による検索は漢字字典の宿命で、したがって問題は、どのように検索しやすく有用な索引を作るかという一点に集約される。「新漢英字典」や「Kanji in Context」が採用している字形索引は、もっともすぐれた検索法であると思われるが、検索法にとどまる。検索のためには形と位置を基準にするのがよいが、本書のように漢字習得を第一に考えれば、意味と形を基準にすべきである。位置の基準は、この場合は重要ではない。同じ意味単位でも位置によって形が変わることがあるのだから(「心」が左にくれば「忄」、「火」が下にくれば「灬」のように。漢字は位置についてはけっこう無頓着で、「峰」と「峯」(山+夆)、「島」と「嶋」(山+鳥)は、同じ字の別の形にすぎない)。
部首というのは、結局漢字の配列法に過ぎない。漢字習得を目標とした本書などは、わずか1200字弱しかあつかわないから、「常用漢字表」の順に並べると宣言して澄ましていられるが、漢字をどう並べるかは大問題で、いかに欠陥があろうとも、部首別以外の決定的な方法はまだない。だが部首を立てると、「問」は口部に属し、「間」は門部に属すなどということが起きてしまう。では、どちらでも検索できるように、「問」なら「門」でも「口」でも、「間」なら「門」でも「日」でも検索できるようにすればいいというのが、両者の折り合いをつけた解決策となろう。


漢字の造り方には、象形・指事・会意・形声の四つがある。象形(「日」「月」など)と指事(「上」「下」など)は要するに絵文字であり(「文」)、それ以上分解できない単位である。会意・形声は二つ以上の文字の組み合わせである(「字」)。部分部分が意味をになっているのが会意(「信」「武」など)、ひとつが意味を、もうひとつが音を表すのが形声(「河」「江」など)であって、こちらが意味をになう意符と音を表す音符の組み合わせとすれば、会意字は二つ以上の意符の組み合わせということになる。しかし、形声字の音を表す部分(音符)も、語源的に共通するある意味をもっていることがある。つまり「清」「晴」「静」などは「青」を音符とし、すべて「セイ」の字音をもつが、「すみきる」という意味も共通する。このように音符のうちにも語源とそれからの展開が容易に見てとれるものは、会意形声と呼ぶのがいいだろう。
説文解字」の漢字中、象形は2.8%、指事は1.4%、会意13.4%、形声82.4%であるという。「康煕字典」では形声字は93.6%にもなる。そして形声字の特徴として、たとえば「涸轍鮒魚」という語をいきなり見せられても、「コテツフギョ」と読める。水と車で魚の一種がどうこうするのだろう。「靉靆」は「アイタイ」と読めるし、雲に関係あることばだろうと想像がつく。このことが、「漢字は5万もある」と言われてひるむ学習者の最初の不安を徐々に解消する。そりゃそうだ、教養ある人なら三四千も知っているというが、むやみやたらにそれだけ覚えこめるほど人間は優秀な動物ではないし、日本人や中国人がその他の人類よりすぐれているべき道理もない。体系性がなければ、そうはいかない。その漢字のしくみを効率的に把握していくのが、漢字学習である。
技術の本質のひとつは、自然の過程の加速であるという。言語学習法というのは結局、小児がことばを習得する過程を意識的・体系的に加速させる方法であるわけで、漢字学習もそれにならう。
部分にわけて、構成単位にわけて考えることで、漢字のむずかしさはぐんと軽減される。意符音符索引(構成単位・字素の索引)を作ることは、合理的な検索方法でもあるし、漢字の体系的習得の助けにもなると考える。また、漢字は曲線にとぼしく、円などは四角にしてしまう。曲線にとんだ篆書は、絵文字としての漢字の姿をよく表している。漢字のそれぞれの構成単位には篆書を添えて、絵文字としての意味を把握しやすくした。
検索は外的・形式的秩序(五十音順・画数順など)によるのがもっとも効率いい。だから、構成要素を意味によるまとまりと派生関係で配列したこの字素索引(意符音符索引)などは、最初は検索するのにどこを見ればいいかがわかりにくく、初めて開いたり、ときたましか開かなかったりするような場合には、使いづらく思うだろう。これは通覧することがぜひとも必要で、読む索引だと言える。漢字の組み立てを解きほぐした、意味によるグループわけであるのだから。なじんでくれば、使いやすさもぐんと増す。漢字を習得するための「方法としての索引」である。
漢字は、長い間使われているうちに発音もかなりかわったが(形声字は本来同じか非常によく似た音を表していたはずだが、現在の発音では違った音になっているものが多くある)、形のほうでも変化をこうむり、本来別の字と同形になることがある。たとえば「赤」は、見たところ上の部分は「土」だし、下は「亦」に似ているが、字源からいうと「大+火」なのである。したがってこの索引では、現在の字形からは読み取りにくくても、字源にもとづいて「赤」を「大」「火」の項目にも入れ、字源的には関係なくとも、現在の字形によって「土」の項にもあげた。同様に、「田+木」と見える「果」は、木に果物がなっているさまを写したもので、「木」とは関係あっても「田」とはない。しかしこれも、「木」とともに「田」の項にものせた。字形の本来の意味と関係ないものは〔 〕にくくって表示した。


字源学によることにすると、ひとつ大きな問題が生じてくる。字源研究は旧字体にもとづくのである。
たとえば「臭」はもと「自(鼻の象形)+犬」であり、「突」は「穴+犬」であった。「鼻」と「犬」で「におう」、「穴」から「犬」がとびだして「突き出る・突然」というのはよく理解できる。しかし、これをいわゆる「美容整形的改変」をほどこした新字体でながめると、「自+大」=「鼻が大きくなる」で「におう」とはこじつけられるけれど、「穴が大きい」で「突」では何のことかわからない。だから本書も、字解はあくまで旧字体によった。
漢字を千も二千も覚えるのでもうたいへんなのに、さらに旧字体にまで頭を使わせるのはよろしくないと考えるのはわかる。だが、では旧字体の知識は今日まったく必要ないのかと言えば、そんなことはない。
1)戦前の本はすべて旧字体で書かれている。古典研究にも旧字体は必須である。
2)新字体が用いられるのは常用漢字表にある字だけであり、表外字は「旧字体」のままである。つまり、「壽」は「寿」に、「擇」は「択」になったが、表外字ながら時々目にする「躊躇」や「銅鐸」はもとのままだ。1級第2水準漢字に入っている「睨む」と「児(旧字体:兒)」、「曾て」と「増(旧字体:筯)」の関係も同じである。常用漢字を越えて進むときには、旧字体の知識が必要になる。
3)もうひとつ付け加えれば、台湾や香港では今も「旧字体」(大陸の中国人の言う「繁体字」)を用いている。また、中国の簡体字は日本の新字体と別の形になっていることがあるが、その際にも、旧字体を間におけば理解できる。日本では「沢」と書く「毛澤東」の「澤」を、簡体字では「氵+又+二+礀」と書くような場合である。日本語を勉強するために漢字を勉強するのが大多数の漢字学習者だとはいえ、漢字自体は日本一国で使用されるものではない。もっと広い視野があっていい。
もちろん、旧字体を学べと言うのではない。現実の生活で旧字体まで必要とすることになる人は、非漢字圏の日本語学習者中ごくわずかである。必要の有無は自分で判断し、いらないものは抜かせばいい。まるまる覚える必要はさらさらない。つまり、提供者は本物の材料を提供する。その取捨選択は利用者が行なう。受け取った上で、自分なりの理解や工夫をすればいいのである。
新字体は、おおよそ次の5つの方法で作られている(「美容整形的改変」を除き)。
1)草書体による簡略化 「壽>寿」など
2)一部に略形を使う(1とも関連) 「弗・黄>厶(佛>仏、廣>広)」など
3)一部を同音・類音別字で代替 「睪>尺(驛>駅)」など
4)一部を省略 「壓>圧」など
5)全部を別字で代替
a)同音の別字で代替 「臺(タイ)>台(タイ)」など
b)同音でない別字で代替 「「體(タイ)>体(ホン)」など
5の別字で代替の場合、a)同音別字(もともとの「台」には「よろこぶ・皇族の行為」という意味があった)での代替ならば、もとの字の意味が拡大したと考えればいい。だが、b)は字音が違うのだからやっかいだ。さらに、3・4の場合で、略字と同形の別の意味の字が存在するというケースがある。その際も、略字と別字の字音が(ほぼ)同じなら、5−aにならい意味の拡大と解釈できるが、字音が違う別字となると、5−bと同様、めんどうなことになる。このふたつのケースでも、当の別字がほとんど使われない字なら(「体(ホン/あらい)」のように)、実際上は不問に処せる。その別字が割合に使われる字だった場合が、真に問題となってくる。「欠(ケン/あくび)」「芸(ウン/ヘンルーダ)」「缶(フ/胴のふくらんだ陶器)」がそれだ。こういう場合は、旧字体と本来の字のふたつともとりあげた(別音別字は{ }内で解説した)。
(中国の簡体字と日本の新字体は、字形が同じものもあるが、異なるものも多い。その場合でも、略字の作り方の原則は共通なのだから、それをわきまえておけば簡体字の理解につながることも付言しておきたい。)


 旧字体の話が出たついでに、字体こそが漢字の魅力の核をなすことにも触れておきたい。
シャンポリオンヒエログリフ解読をはじめ、ヨーロッパの近代は人をわくわくさせる古代文字解読のエピソードに満ちている。だが東方では、「竜骨」として漢方薬店で売られていた骨(亀の甲羅)に文字が書かれているのが発見されたという19世紀末の甲骨文発見のエピソードのそこだけは、小説めいた知的冒険の始まりを予感させるが、苦心の末に解読に成功する英雄はついに現れない。それはその道理で、「謎の文字」は「死に絶えた文明」の遺物である。漢字はけっして絶えなかった。漢字の使用は紀元前2千年紀からとぎれることなく続いており、あるのはただ字体の変遷史のみだと言えるのである。現在の楷書体と漢代の隷書体には大きな違いはなく、楷書が読める人は隷書も読める。隷書と秦代の篆書、篆書と周代の青銅器に書かれた金文の間には多少距離があるが、その架橋には天才は必要なく、凡才の努力で足りるのだ。殷代の甲骨文は周代の金文の先行異体なのであって、当時すでに金文はその道の学者には読める文字だったのだから、新発見の殷代甲骨文も、多少の努力で読めるのである。中国文明において驚くべきは、その連続性である。メソポタミアの文字が紀元前4千年紀、エジプトが紀元前3千年紀というのに比べれば遅れるにしても、紀元前1500年、今から3500年前というおそろしく古い時代の文字を今も使っている(甲骨文字のいくつかは、今の漢字とほとんど違わない)。その「古代象形文字」の使用者が10億人を越えるので、うっかり見過ごしているけれど(あさはかなわれわれは、価値を希少性にばかり求めてしまう)、これはすごいこと、古代文字解読よりもはるかに驚嘆に値することだ。
3500年前から変わらぬ文字を習うのだというのは、少なからぬ人々にとって魅力的であるはずで、漢字のこの側面はもっと強調されていい。字源とは、まさにその古代にさかのぼる作業である。甲骨文や篆書は、ぜひ教材に取り入れるべきだと思う。表意文字である漢字ができれば、中国語を知らなくても中国人と「ペンの会話」(筆談)ができる、町の看板がわかる、さらには紀元前500年ごろに孔子が言った言葉がオリジナルで「読める」というような特性ももつ漢字は、「生きている古代」であるとともに、「時空間の超越者」でもある。「日常」と「奇跡」は両立せず、日本人はふだん何気なく使っている漢字が「小さな奇跡」であることをまったく意識しないけれども、漢字の力についてはもっと意識的であっていいと思う。苦労して学ぶ価値はあるのだ。
筆談や漢文訓読は言語学上の驚異であるのに、言語学が欧米出自であるために、これらがまともに研究されていないのは惜しいことだとつくづく思う。ひとつひとつの文字が意味を担っているので、こんなことが可能になる。もし、エジプトのヒエログリフがそうしたように、漢字がどこかの時点で表音文字化していたら、中国はヨーロッパのように小国に分立していたにちがいない。漢字は、文字は音の影ではないことを雄弁に語っているのだが、このことを欧米のソシュール主義者たちはどうしても理解することができない。事物の語りに耳を澄ますこと、それが学問であるはずで、言語学のこの分野は「学問であること」から取り残されている。
―だがまあ、閑話はここまで。


字音は漢字の中国での発音(を日本風になまったもの)で、呉音・漢音・唐音の別は、時代や地域によって異なる発音を反映している。字音はそういうものだから、日本で作られた漢字(国字)を除いて、漢字にはみな字音があるが(国字で字音のあるものもあるけれど)、「常用漢字音訓表」には、ふだんほとんど使われない字音は載せていない。しかしこの辞書では、字音のない国字以外の字についてはかならず字音を載せた(「音訓表」外の字音は斜字にした)。また、字義を和語で表したのが字訓である。「音訓表」は字訓もできるだけ削減する方針であり、それは支持できるが、字義を示すために字訓も補った。その字の本来の意味からずれて、日本で転用されたものを「国訓」という。それも示した。
書き順は残念ながら添えられなかった。


 簡単な英訳語を添えるべきかについては、いろいろ考えたが、結局つけないことにした。英米人は本書の使用者に想定されておらず、英語を母語としない者の間では、不用意な重訳によって誤解が生ずることが予想される。語例の中で、「早い」「速い」などの同訓異字の使い分けについて簡単な説明を施したが、その部分で、英語だとよくわかる場合に対応する英単語を添えてみただけである。
(訳語の話が出たついでに、ふれておきたい。教師をしたことのある人は経験があると思うが、一生懸命辞書を引いて書いた作文は、一目瞭然、すぐわかる。間違いだらけだから。辞書というのは、読むときには必要だし役に立つが、書いたり話したりするときには、むしろ間違いの生産装置になってしまう。コンテクストから切り離された単語の羅列だから、「言いたいことはわかるが、そうは言わないんだよね」という種類の誤りに引き込みがちなのだ。辞書がいちばん力を発揮するのは、知らない言葉を調べるときではなく、知っている言葉を調べる(確認する)ときである、というのが辞書のかかえる逆説だ。よい辞書は、余白の多い辞書である。余白に自分で書き込んで、自分が使うために最適にしてあるものが、自分にとって最もよい辞書だ。辞書は「使う」ものではなく「作る」ものである、というのもまた、辞書をめぐる逆説のひとつである。)
語例には、反意語や、対になる意味の字を並べた対義熟語・似たような意味の字を並べた類義熟語を掲げるように努めた。「漢字をして漢字を語らしめる」原則、あるいは「クロスワード方式」である。周囲のいくつかの項がわかれば、当該項の見当もついてくる。
しかし、対義類義の熟語を優先したため、漏れ落ちた基本的な熟語も多い。紙幅の関係もあるし、語彙習得ではなく漢字そのものの習得が本書の目的であるので、それにはあえて目をつぶったが、熟語構成法(「石を投げる」は和語は「石投げ」だが漢語は「投石」、「中に在る」は「在中」等々)理解についての工夫は、今後の課題として残った。
漢字の大きな特徴は、ひとつひとつの字に意味があるので、初めて見る熟語でも、だいだいどんな意味か推測できることだ。たとえば、”limnology” と聞いてもふつうの人には何のことかさっぱりわからないが、「陸水学」という漢字を見れば、「陸地の水についての学問」なんだろうと想像することができる。だから、語例には四字熟語や同類語の列挙なども積極的に取り入れた。パズルを解くような解読の楽しさを味わってほしいと考えてのことである。


漢字はむずかしい。でも楽しい。学習者にそう思ってもらうことが、漢字に携わる者の最大の目標であるだろう。しかし、職業の利害を離れて言うのだが、実際に楽しいのだ。練習時間はかなり必要だし、目は悪くなっちゃうし、いつまでたってもどこかしら間違えてしまうけれども、そんな幾多の欠点にもかかわらず。仮に将来漢字が廃止されることになったとしても、それは楽しさが足りなかったためでは決してない。


われわれが日々辛苦して作り出すものの99%は、10年後50年後の「過去の遺物」である。われわれは生涯決して完成に至ることのない道の途上にある。目指すのは、ただ「よりよいもの」のみ。これが学習者の役に立つことはもちろん編者の願いだが、さらに願うのは、これを踏み台に、衆知を集めてもっとよい辞書が作られることである。

2007年3月

編者



(「漢字習得辞典」の序文として書いたものだが、実際には載せることができない没稿なので、ここで日の目を見させることにする。載せられない理由は、
1)長すぎる。初めは短く書くつもりだったのだが、書いているうちに非常識なまでに長くなってしまった。なるべくハンディでなければならない辞書だから、こんな馬鹿げた場所ふさぎはとうてい載せられるものではない。
2)えらくリキ入れて書いてるが、ほほう、それではと本体のほうを見ると、「なあんだ」と思われてしまうだろう。羊頭狗肉なんじゃないの?「意気込みは買うけどねえ」。
3)「この序文、誰が読むんだい?」 これが読みこなせるほどの者は、漢字はもう「習得」しおわってるだろうじゃないか。本末転倒、はなはだしい。―でも本末転倒って、けっこう楽しいのである。)