WM雑感/当事者の喜び

日本−カメルーン戦というのがあった。いくらサッカーが好きといっても、ワールドカップの全試合を見る人は少ない。グループリーグが1日3試合あるうち、仕事のつごうで1試合しか見られない場合はもちろん、2試合見られる場合も、まず割愛されそうなのがこのカードだ。この試合を真剣に見ていたのは、地球上でただ日本人とカメルーン人だけだったろう。もちろんワールドカップだからそのほかにも見ていた人は大勢いたが、彼らは娯楽を見ていたので、そういうものとしてはミスの多い、「生ぬるい」、退屈な試合だったらしい。そうだろうと思う。それにまったく異議はない。しかし。
試合にはいろいろな試合がある。快勝・辛勝・惜敗・惨敗、善戦健闘・悪戦苦闘すべてあるけれど、「凡戦」だけはない。「当事者」には凡戦なんかないのだ。試合に「凡戦」を見るのは「第三者」だけである。
たとえばあの試合、本田がシュートするとき、トラップしてからゴールネットがゆれるまでのわずかの間に、シュートを外すシーン、キーパーに取られるシーンのふたつがはっきり見えた。その幻を打ち消すようにネットがゆれているのを確認して、はじめて喜んだ。その間何秒だったか、コンマ何秒だったか。人間の脳というのはおもしろいものだ。日韓ワールドカップのロシア戦で稲本が決めたゴールのときも、オフサイドじゃないか、取り消されるんじゃないかと頭が激しく回転しているのがわかった。旗が上がってないのを知っても、リプレーが出るまで気が気じゃなくて、再生映像で奥のほうにロシア選手がいたのを確認し、微妙だがオフサイドではないかもしれないと信じることができて、ようやく喜びに加わった(でもやはり微妙だね。ロシア人はみんなあれはオフサイドだと断言するだろう)。
いやいや、こんなことで頭は大忙しだから、退屈なんかしているヒマはないのですよ。攻められているときは、突然鋭いシュートが飛んでこないか、ディフェンダーが愚かなミスをやらかさないか(やりそうなんだよな、オウンゴール3連発が直前にあったから)、攻めているときは、アトランタ五輪のブラジル戦のような交通事故みたいなゴールが出てこないか、相手キーパーがファンブルしてくれないか、場面を追うだけでそれはもうたいへんです。
それだけに、勝ったときの喜びは、「当事者」以外には味わえない心地よさである。ええと、冷評しているあなた、あなたの国は出場してましたっけ? 出場して勝ちましたっけ? なに、出てきて勝っていればけっこうですが、出てなかったり勝ってなかったりしてるのなら、まずすることを先にしてくださいね。
当事者の利益と第三者の利益は一致しないどころか、しばしば相反する。第三者は責任がなく、単なる消費者だから。第三者の喜びは当事者の悲しみであることが多い。当事者の喜びが第三者の憤りだったとしても(「ウルトラネガティブな戦術」云々)、全然意に介する必要はない。負けてフランスみたいに赤恥さらすより、勝って無責任なヨーロッパ人どもを怒らせていたほうがいい。出場国中ニュージーランドと並んで最弱だった北朝鮮が、対等な戦いを挑んでボロ負けした試合を見ればいい。ポルトガル人と第三者は大喜びだったろうが、北朝鮮にとっては、悲しみであるだけでなく、ひょっとしたら帰国後の強制労働であったかもしれないのだ。無責任な第三者のマスコミや評論家の言うことなんか聞き流しなさい。当事者には当事者の戦いがあるのだ。日本人は自軍の成果をニュージーランド人とともに喜ぶのみである。


けれども、日本戦以外は大いに楽しんでいましたよ。当事者でありつつ第三者でもあるというこの特権。この贅沢。それを味わうためには、まず出場権を得なければならない。
当事者として自国の試合にワクワクしハラハラするのと同時に、第三者として白熱の熱戦や名手の妙技を堪能できるのがワールドカップのいいところで、これが野球やバレーボールのような日本が強い競技だと(バレーはもはや強くないが)、日本戦ばかり見せられる。ほとんど洗脳である。
サッカーファンは、よほどうかつな人でない限り、日本の実力は出場32か国のうち25番から30番目の間程度だということは知っている。「世界の中の日本の位置」は正しく認識されている。上には多くの強豪チームがあって、スーパープレーで魅了させてくれるスタープレーヤーたちがいることを知っている。日本が出てなくてもすばらしくおもしろい。プラス日本だ。観戦を楽しみつつ、それらのチームや選手と日本及び日本人が伍して戦うさまが見られるわけだ。これが喜びでなくて何であろう。「日本チャチャチャ」だけが大会の趣旨かと思えるような中継に疑問を持たない競技とは根本的にちがうのだ。
サッカーファンは民主主義者である。カメルーンもガーナもコートジボワールも日本より強い。チリもパラグアイも日本より強い。ふつうにまっとうに生きている日本人なら聞いたこともないコートジボワールだのパラグアイだのが。ホンジュラスアルジェリアでやっと同等。ホンジュラスと! そしてこれらの国にサッカーファンはしかるべき敬意を持つ。GDPでもなく、オリンピックのメダル数でもないのである。「チリに学べ」などと真顔で言う。エスタブリッシュメントの決して発することのないこういうフレーズは尊い
するとアメリカでサッカーが人気がないのは、つまりアメリカが「民主主義」じゃないってことかな? しかしそのアメリカも、武力・経済力・メダル数、どれをとっても敵でないアルジェリアごときに勝って、元大統領まで狂喜していた。勝ち方が劇的だったことを差し引いても、アメリカ人の中でもサッカーファンという人種は「正しく」世界を見ることができるのだろう。
オリンピックは国力をかなり反映する。メダル数と国力には明らかな相関関係がある。金メダルを取る国は参加国中のほんの一握りで、陸上のケニアだのジャマイカだのを除いて、ほぼ先進国に限られている。そして国歌演奏は金メダルと結びつけられているので、先進国がそのヘゲモニーを見せつける場となっている。
ワールドカップに国連の常任理事国が出てこないことは珍しくなく、オリンピックでは決して聞くことのない国歌をオリンピック中継の視聴者より多くの人が聞く。サッカーによる平等。一本筋が通っていて、痛快だ。人々がワールドカップに熱狂するのにはこんな理由もあるだろう。
ただし、ワールドカップも優勝候補はほんの数か国であって、その意味では同じくエリート支配である。ワールドカップに対する最大の不満は、アルファベット支配の場であることだ。それはつまりヨーロッパとその植民地の祭典だということ。ラテン・アルファベットとキリル文字ギリシア文字がほとんどすべて。そのほかにはわずかにアラビア文字とかなとハングルがあるだけで、漢字やインド系文字は見られない(漢字は日本も使うし、中国は1度出場したことがあるけれど)。まあ、ヨーロッパ発祥のゲームだから、その辺は我慢しなくちゃならない。
サッカーのいいところは、日本が「途上国」であることだ。先進国がその常として漂わせる傲慢臭が、ことサッカーにおいては少ない。そりゃフィリピンのようなどうしようもなく弱い国は見下すけど(それに小野にケガさせた)、ウズベキスタンカザフスタンを見下すことはなく、北朝鮮のような政治的マスコミ的な悪役にもあなどれない相手として敬意を払っている。ミサイルを撃つななんて無理無体な難癖はつけない(核はだめかもしれないが、ミサイルを開発するのは国として当然の権利でしょう。自分はいっぱい持っときながら、相手には許さんなんていう論理が理解できない)。ワールドカップ北朝鮮を応援していた日本人はけっこういた。日本人が政治的にも経済的にもサッカー市民のようにふるまえれば、いたるところで尊敬をかちえられるんじゃなかろうか。


閑話休題、話をカメルーン戦にもどそう。多くの日本人と、日本人以外のすべての地球人に冷笑されるのを覚悟であえて言えば、あれはインテルバイエルンチャンピオンズリーグ決勝みたいな試合だったんじゃないか? もちろん向こうはとてもバイエルンのレベルじゃなくて、せいぜいニュルンベルクフライブルク、こっちもインテルには程遠く、まあカターニャぐらいだったが、それでも、試合のエッセンスを取り出せば、たしかに同じである(ネコもトラもネコ科の肉食哺乳類という点で同じだというような話で、ネコとトラが戦えばどうなるかという話ではなく)。
それでいくと、オランダ戦はバルセロナインテルの準決勝第2戦か。オランダはかなりバルセロナだったし、日本も守備に関しては「浦和インテル」か「横浜インテル」みたいな感じで、少なくとも「人民のルーニー鄭大世ルーニーに似ているよりはるかにインテルぽかった。インテルの戦術はきらいだが、ことが日本代表なら全然話は別である。
そんなたとえを持ち出すのは、この試合の日本の監督は「ほぼモウリーニョ」だったからだ。相手を徹底的に分析し、的確な作戦を立て、適材適所に配置し、全員に戦術を浸透させた上で90分最初から最後まで粘り強くプレーさせ、しかるべき交代をし、――モウリーニョじゃないか。どこがちがうの? メガネで出っ歯で、肌が黄色くて、日本語をモゴモゴしゃべるところ? モウリーニョは礼賛し、岡田武史はクサす。それは単なる「拝外主義」だ(このことばは「排外主義」と同音で、かつ意味が正反対だから非常に困るのだが、あるいは「両極は相通ず」という深い真理を秘めているのかもしれない)。ダブルスタンダードな人は世の中に数多いが、日本人にはもっと多いかもしれない。
教訓:勝てば饒舌になるもの。いいじゃないですか、2回しかそのチャンスがなかったんだから。