クチン日録(6)

2月某日、アグネス・キースの「White Man Returns」読了。日本語訳で読んだ「風の下の国」「三人は還った」に続き、これで彼女のボルネオ三部作は全部読み終えた。雨季の晴れ間を盗んで、川べりのテラスで昼はテタレを、夕方はビールを片手に、サラワクの川風に撫でられながら少しずつ読んだ。
12月のJLPTを受けた者は少なくて、私の担当クラスからはN4の2人だけ。2人とも合格。実力からいって当然。やきもきすることもなかった。
2月某日、実行委員会。合気道から3人、柔道は欠席、クチン理科中等学校から1人。会後、会場のヒルズを見に行く。
作文コンクールの審査集計終わる。21本の応募だから3位まで入賞とするつもりだったが、3位と4位の点差が50点中わずか0.1点、4位と5位が0.3点というハナ差だったので、5位まで入賞とする。応募作はブログ「クチンあれこれ」(https://ameblo.jp/suseni)に順次掲載。反省点は、審査員がみな中高年男性だったこと。準備期間が足りなかったためしかたがないのだが、次からは若い人と女性を加えるようにしなければならない。
2月某日、火曜日のクラスは月曜と合併し、新しいクラスが始まる。
ロシア人の学生が参加したいとやってくるが、外国人は受講不可と何氏に拒否される。
2月某日、大使とKK領事事務所長がクチン訪問に来られていて、ヒルトンでの昼食会に日本人会メンバーや青年協力隊員とともに招かれる。
2月某日、渡し舟に乗ろうと出かけたら、通りで自転車レースをやっていて、対岸へは行かずそれを見た。参加者の半数以上は白人だったのではないか。
2月8日、朝タイプーサムの行列を見る。ボルネオはインド人が少ないので半島部ほど盛大ではないが、それでも2人背中に4つ鉤を刺し、そこに結んだ紐で山車を曳いて歩く男がいた。そのうち1人は頬を串が貫いていた。すごい。なぜ血が出ないのか不思議だ。これで4つの宗教行列を見たが、ほかの3つ(ムハンマド誕生日、待降節、上帝出游)が道を通行止めにして車道を進むのに対し、タイプーサム行列は車の通るなか道の端を歩く。人口比からしかたがないか。
そのあと、日本料理店や村田製作所にチラシを配って回る。
2月某日、SJFC年次総会。収支報告など。役員改選。漫才と東京音頭の練習。
中国の新型肺炎流行で、封鎖された都市が湖北省以外にも多く出てきた。そういう町に住んで家に禁足されている昔の学生に、暇で退屈しているなら日本語で日記を書いてごらんと呼びかけた。送られてきた日記をブログに掲載する。このブログはいま作文コンクール応募作を掲載中なのだが、緊急性と重要性の高いものに一時場所を譲ってもらおう。
2月某日、上で水漏れ修理の工事始まる。
2月某日、F氏に会う。昨夜到着。作文コンクールの1位と3位の者に夫人から特別プレゼントあり。運動会のため5万円の寄付をもらう。
2月某日、2時からヒルズで会場設営。
2月某日、午後ヒルズでJapanese UB Festival(ミニ運動会兼文化祭)開催。SJFC、柔道クラブ、合気道クラブ、SM Sains Kuchingの4チームの対抗戦。スプーンレース、ぐるぐるバット、むかで競走、玉入れ、綱引き、長縄跳び。柔道・合気道は子どもたちが競技。結果、SM Sains Kuchingが優勝。高校生は元気だからね。SJFCチームはオタクが多くて、運動はだめみたいだ。柔道・合気道デモンストレーション、舞台では、けん玉、漢字しりとり漫才、叩いてかぶってジャンケンポン、歌など。司会をボーハン・サブロー氏の一族の生徒が行なう。ブースは、ゆかた、折り紙、切り紙、手話など。藤井杯作文コンクールの表彰も行なう。優勝作文「日本茶に魅せられて」朗読。最後にみんなで東京音頭を踊る。
観客に日本人は1人もいなかった。それは一方で残念ではあるが、他方ではわれわれがどちらを向いた機関であるかをはっきりさせる機会ともなった。
2月某日、階上の同僚教師、水回り修理が終わるまで安宿に移る。
作文コンクール優秀作に対し、F夫人特別賞の賞品を渡す。1位の日本茶作文に茶器、3位着物の夢にゆかた・草履・足袋。
2月某日、日本語パートナーズとしてコレージュ・アブディッラーに赴任してきたYさんがSJFC訪問。
2月某日、I氏体調崩し病院へ運ばれる。今晩は彼のクラスに通っている夫妻に夕食に彼といっしょに招かれていたのだが、一人で行く。夫妻の息子は立命館アジア太平洋大学を卒業し、東京で働いているとのこと。6回日本へ行ったことがある。
翌日、I氏帰国。素早さに驚く。
2月某日、F・Y・S氏が授業に来てくれる。その前でスピーチ練習。日本人の姿が教室でたびたび見られるようになったのはうれしい。
2月某日、前日はI氏の帰国を知らずに来た彼のクラスの生徒をこちらに合流させたが、この日から彼のクラスは休講。
2月某日、高校生スピーチコンテスト予選審査のため、参加希望の生徒のスピーチを録画し、YouTubeにあげる。
帰国に備え、小包(本のみ)3個を実家へ送る。RM702。あと2箱送らなければならないから、全部でひと月の報酬を上回るだろう。
2月某日、個人レッスンの時間にF氏来訪。あす帰国。
作文コンクール応募作をブログに掲載しおわる。
2月某日、帰国が近づいたので、午後今まで行っていなかったネコの博物館を見に行く。ま、話のタネ程度のものだが(もっと体系的に収集整理すればいいのに)、招き猫、なめねこ、キティちゃんなど、日本の猫が幅をきかせていた。土産物売り場にはドラえもんやトトロが並んでいた。だがトトロはネコではあるまい。
その足で池のほとりの国立図書館、夜はスタジアムでサッカー2部リーグの開幕戦を見る。今シーズン、クチンFAに所属の日本人選手は2人になった。試合は敗戦。日本でリーグ戦が延期になる中、ウィルスフリーのサラワクでサッカー観戦というのもいいものだ。

3月某日、国会議員が協会に助成金を与えに来る。RM3000。去年はRM2000だったと。
3月6日、2週間前までに北海道に滞在していた者はマレーシアに入国禁止となる。
3月某日、生徒に車に乗せてもらい、バウへ行く。客家の金鉱夫たちの作った十二公司の夢の跡を訪ねて。初代白人ラジャ、ジェイムズ・ブルックに反抗して蜂起し、敗れて消え失せるまでのわずかの間だが、一種の「民主主義共和国細胞」を建てていた。けれども、リーダー劉善邦の墓廟、旗竿の基台の残りなど、しのぶよすがは少ない。帰りにシニアワンへ寄る。依岡神社のあるシニアワン・ジャポンを見たから、こちらのシニアワンも見ておかなければ。
3月某日、委員会。そのあとスキットのチーム4人と山河で会食。賞金を使って。
3月某日、昼寝のとき、雨季の間はつけていなかった扇風機をかけるのを再開。やはり雨季は涼しかったのだと実感。
3月某日、外国人が外国語で褒めるという趣旨のクチンフェスティバルの紹介ビデオ作成のため、MBKS公園でインタビューを受け、撮影される。
3月某日、船でシブへ行く。シブには特に行きたいわけではないが、船に乗りたかった。川では揺れないけれど、サラワク河口とラジャン河口の間の海を突っ切る部分ではさすがに揺れた。しかし、蛇行を除いてはほぼ直線距離で快調に飛ばすから、遠回りのバスよりずっと短時間で着く。シブへ行くなら船に限る。バスや飛行機は座席に縛りつけられ家畜同然に運搬されるだけだが、船や列車は中を動き回れる。ラジャンは大河。サリケイとビンタンゴールの間は川辺にロングハウスをいくつも見かけた。シブでは無聊。用はないし、見たいところもない。ハバロフスクなど大河の畔の町はだいたいそうだが、シブも対岸はほぼ無人のようだ。川船のターミナルがあるのがうれしい。川こそボルネオの主要交通路であったし、今もそうであるべきなのだ。
パスポートを持ってくるのを忘れたが、コピーを見せて宿に泊まれた。船の切符は見せなくても買えた。よかった。旅券がなければ町から出られない中国とは違う。
3月15日、船でクチンにもどる。
夕方、鳳山寺の廣澤尊王聖駕巡幸を見に行く。巡幸はせず、ただ聖像を乗せた輿が安置されているだけだった。山車も2台あっただけ。すべて寺の前の道で行われる。龍や獅子などが演技を見せ、神仏を拝するのみ。あとで聞くと、新型コロナ流行を防ぐため練り歩きが禁止されて、このような形で行なわれたそうだ。獅子や龍は堂から後ずさりして出る。最後に火龍という藁で作られ線香を刺した龍が出た。爆竹はもとより、火を噴き出す花火、手回しの花火、打ち上げ花火など、火、火、火。そして火龍を燃やして終わる。家屋密集地で花火を打ち上げたり藁束を燃やしたりなど、日本ではとうてい許されないことをやっていた。花火を真下から見るなんて初めてだ。向かいの舞台では閩劇が演じられた。
3月17日、前日のサラワクへの入境者には14日の隔離観察が義務づけられるとの報に続いて、3月18-31日の間マレーシアへの入国自体が禁止されるとの報に接する。今晩から31日まで授業休講。突然任務が終わってしまった。病欠ゼロ、自己都合休講ゼロを今月末まで続けたかったが。
ゼミ旅行でやってくる和光大学の学生との交流会を30日に行なう予定だったが、新型コロナ流行に伴う規制で学生2人と教師1人の個人旅行に縮小され、入国禁止措置でそれも不可能、お流れになった。
3月18日、活動制限令発効の初日。この措置が発表されたときはまだ死者はゼロだったが、発表を待っていたかのように2人の死者が出る。1人はクチンの人で、牧師。町を歩いてみたところ、8割ぐらいが閉店、ただし食料品店は開いている。食堂も半分くらい開いているものの、中で食べることはできず、持ち帰りになる。宗教施設は閉鎖。新聞を買ったら、5日に協会に助成金を持ってきてくれた国会議員がウィルス陽性だったという記事が出ていた。あれあれ、隣に立って写真に写った私は濃厚接触者か?
3月19日、きのう18日の未明は向かいのバーの騒音はまだあったが、きょうの未明は静かだった。バーを閉める禁令は夜明けから実行されたということだ。つまり、この国の一日は夜明けとともに始まるのだな。この禁令の唯一のいいところはこれだ。この部分に関しては通年で永久に続けてもらいたい。
4月18日の予定だった高校生スピーチコンテストが延期になるという通知来る。そのあとラマダンが始まるから、開催はハリラヤ以降になるだろう。うちの生徒が出場者に選ばれるかどうかさえわからぬまま帰国することになる。
3月20日、クラスはすべて休講だが、生徒からオンラインで授業してくれと言われ承諾するも、設定ができなくて四苦八苦。1時間半の授業のために2時間かけて設定する(というか、生徒に設定してもらう)。ワード・エクセル・パワーポイントなどの基本中の基本操作は何とかできるけども、それだけでは不十分となりつつある。遠隔授業もこれからの教師には必須の能力になるだろう。インターネット用語なんて私には尚書の漢文だ。おぼろげにわかるような気がするが、実は全然わからない。ITを使いこなす人の側におらず、さりとて尚書が読める人の側にもいない。いろいろな事実を突きつけられる。
久しぶりに仕事ができて楽しかったが、しかしこれはあくまで代替手段だ。私の授業ではゲームをしたり学生に板書させたりすることが多いのだが、それができないのでは片翼がない鳥だ。両翼あってもよく飛べるわけではないにしても。
3月21日、活動制限令施行初日はまだ開いている店もちらほらあったが、もうテイクアウトをやっている食堂すら非常に少なくなった。カーペンター通りでは1軒だけだ。
3月22日、人通りが少ない。対岸のマレー人村へ行こうと思ったが、渡し舟の数も少なく、帰りが心配だから、ダルハナ橋を渡ってアスタナ西隣の村へ行く。この歩行者専用橋は単なる展望台に過ぎないことがわかった。渡ったところでDunもアスタナも参観できず、隣の村へ行く道もない。そこへ行くためには10分かけて旧Dunまで登り、また10分かけて下って行かなければならない。マルゲリータ砦へも行けないし、蘭園は近いが今は開いていない。蘭園へ歩いて行く人のためにこの橋を架けたのか?
3月23日、小包2個発送。走っている車が少ないからグラブタクシーはないだろうと思ったし、1㎞ぐらいの道だから歩いて郵便局に行くつもりだったが、ひょっとしたらと思ってグラブを呼んでみたら、すぐ来た。助かった。荷物が14㎏だったから。
旧裁判所脇に検問所ができている。近郊バスも停止したようだ。きょうからスーパーでも入口で検温をしている。先週より規制が厳しくなっている。
散歩に出てもすわる場所もなく、わずかにすわれるラグビー場の観客席で東野圭吾を読んだ。ここにはホームレスかそれに準ずる人が数人いた。こういう非常体制下では、ふだんは人ごみの中に埋もれているそういう人たちが目につく。彼らはもちろんマスクはしていない。野良犬狩りのように、やろうと思えば彼らを簡単に収容できる。よるべなき自分も喪家の犬に近い。「家のあるホームレス」だ。
3月24日、きょうは後任教師到着の予定だったが、これも当然延期。というよりも、赴任日はしばらく決定できまい。
3月25日、帰国便の切符の手配を頼む。今は安いチケットがなく、きのうはあったフライトがきょうはなくなっていたりするので、日航便にした。というより、それしか選択肢がない。マレーシア航空と日本航空のナショナルフラッグ同士なら大丈夫だろう。
サラワクに7時―7時の夜間外出禁止令が出て、この調子では4月1日に活動制限令解除など無理だと思っていたら、案の定14日まで延長されると通知された。
3月26日、帰国難で、飛行機代が見込んでいた額を大幅に上回ってしまったから、両替の必要が出てきた。しかし両替屋はすべて閉店だし、銀行でもできない。困ったものだ。
3月27日、今週もオンライン授業をする。このクラスは運動会のとき主力になってくれた。合気道、手話、ゆかた、裏方など。そしてこのオンライン授業も提案し設定してくれて、17日以降空欄だった勤務簿も2箇所埋められた。感謝である。白紙は悲しい。
3月28日、KLでジョギングをしていた日本人4人が捕まったというニュースを聞く。
日曜マーケットに行ってみる。ほとんど閉まっているが、2、3割程度は開いている。そりゃそうだ、閉めたら収入ゼロだ。といって客は少ないが。休業補償はあるのだろうか。場外売り場には店はない。
3月29日、サラワク川で漁をしている小舟が何隻かあった。封鎖だの何だのの大騒ぎは結局、都市生活者、第2次・第3次産業従事者の話だということがわかる。彼らが決定し、彼らが管理し、彼らが報道する。そしてあたかも重大事件であるかのように思い込む。
持ち帰りのコロミーをポリ包みからわびしく食べる。帰国前にここの名物料理を食べて回ろうと思っていたのだが、その希望は空しかった。
3月30日、粽を昼食にと思って買った。失敗だった。売れ残りだ。作ってからだいぶ日がたっている。この外出制限下では売れないし、補充もしないのだろう。
3月31日、スタッフの1人に車で空港まで送ってもらう。マレーシア航空便でKLへ飛び、日航成田行きに乗り継ぐ。KLの案内板ではドーハ、成田、ヒースロー行き以外はすべて欠航、クチンではマレーシア航空KL行き以外はすべて欠航だった。エアアジアは全滅。わずかにつながる細い一筋の道をたどって脱出したことになる。そのためだろう、ガラガラに違いないと思った機内はけっこう込んでいた。
4月1日、成田に着くと、検疫の前で2時間並ぶ。しかし感染の検査はない。東京へ行く成田エクスプレスは車両に1人だけだった。意図せず隔離された。
去年の春に日本を離れて以来ずっと夏で、370日ぶりにまた春に帰ってくると、寒い。春は実は寒いのだった。順序が逆になるとよくわかる。人間、何でも勉強だ。