WMブラジル大会雑感

今大会のベストゴールではないかもしれないが、もっとも印象的だったゴールは、ファン・ペルシーの長い距離からのダイビングヘッド、キーパーの頭を越すヘディングシュートだ。
サッカーは「全身的スポーツ」である。頭を使うスポーツはほかにあるだろうか?「頭を使う」というのはふつう「よく考える」の意味だが、サッカーでは頭を「最高部にある足」として使うのだ。
手を使ってはいけないから頭を使うわけだけれど、どうして、手も存分に使っている。バランス取るためにはもちろん必要だが、それだけでなく、叩いたり引っ張ったり肘打ちくらわせたり、実際にはいろんなことをしていながら、一方で「手を使ってはいけない」というルールを守るために(守っているふりをするために)、いろいろな身振りが発達する。ペナルティエリアディフェンダーが手を後ろに結んでアタッカーに向かうのは、ハンドを取られたらフリーキックペナルティエリア内ならペナルティキックが与えられるからという純粋なルールブック準拠だが、ファウルをしたあと両手を上げたり(特に手を使ったファウルの場合はほぼ例外なく手をあげる)、審判の判定に抗議するときに手を後ろに結んだりするのは、「手は使わない」というフィクションにもとづく身体言語だ。頭突きもそうかもしれない。今大会のペペの頭突き、史上有名なジダンの頭突き。カメルーン選手が仲間同士でもめていたときも頭突きをしていた。「頭は手の代替物である」というサッカー選手の了解がそこにあるに違いない。
サッカーは「全人的」(手を含めて)であり「全方向的」である。人間の「後ろに目がない」という身体構造が重要性をもつ。後ろからボールをかっさらわれるなんてことがしばしばだ。あの準決勝でブラジル選手が後ろから奪われて、試合を最終的に破壊するゴールを決められた3点目か4点目か(あまり多すぎて思い出せない)のように。こんなことはほかの競技ではまずない。ネットのある競技では選手は互いに正対するし、ラグビーも基本的に正面から来る敵とぶつかり合う。後ろから追いすがられることはあるが、斜め後ろからであって、来そうだというのは察知できる。後ろからなんて、プロレスのタッグマッチの反則ぐらいなものだ。
そして、「倒れるスポーツ」である。ラグビーやアメフトでも選手はばたばた倒れるが、あれは「倒れる」のではなく「倒す」のであり、ちょっと違う。本来的に「倒すスポーツ」である格闘技のボールを使った亜種みたいなものだ。サッカーでは、相手に転ばされもするが、転びもする。そもそも大きな頭を上にのっけて二本足で飛んだり跳ねたりなんて自然の理に反することで、転ぶほうが正しい。正しくはなくとも、人間的だ。二本足で激しい運動をして転ばずにいるなんて、まやかしくさいにせものじゃないか? 大地と全身的に接触するのは喜びだ。野っ原を駆けまわり、転びまわる。転倒万歳。
手を使わず、器用さで手よりはるかに劣る足と頭でボールを扱うのだから、サッカーはその本質としてミスをするスポーツである。90分走り回って1点しか入らない、それどころか1点も入らないようなゲームがざらだ。1点も入らなければつまらないかといえば、そうではない。ブラジル−メキシコ戦のような興奮に満ちたゲームを見よ(一方で、日本−ギリシア戦のような時間の無駄みたいなゲームもあるが)。キーパーのファインセーブだったり、ゴールポストに跳ね返されたシュートだったり、決定的な場面での空振りだったり、あらゆる種類の失敗に観衆はどよめく。失敗に終わった試みを全身で嘆賞するスポーツといっていい。だからこそ、ゴールが決まったときの選手や観客の喜びようはたいていのものじゃない。失敗の山ののちに訪れる歓喜なのであって、それは失敗があるからこそなのである。実に人間的だ。


今回の日本代表は「いつわり」が多かった。退場者を出したギリシアを相手のぶざまな0−0なんて、ベラルーシ戦、セルビア戦のぶざまさと同じだ。そのあとのオランダ戦、ベルギー戦での「いつわり」を見せられて、あのベラルーシ戦・セルビア戦が「なかったこと」のように思われていただけで、あれをよく覚えている人にはなんら不思議のない結末だった。コンフェデ杯でも、真実のブラジル戦・メキシコ戦にいつわりのイタリア戦大健闘が混じっていたため、3連敗という結果が重く受け止められなかった。「いつわり」が「真実の瞬間」に耐えられなかった、というのが日本代表の総括になる。
開始早々ばかげたミスで失点するという悪癖も、矯正されないままだった。ああいうのを何度も見せられて、ええい、学習能力のない、と歯ぎしりしていたが、たぶんあれは学習能力の問題ではない。一朝一夕にはどうにもならない国民的特性、民族的欠陥だと考えるべきなのだろう。浮き足立つのだ。ピンチでもチャンスでも冷静になれない。シュートがへたなのもそれによる。「おしゃれ」でありたいという間違った傾向がそれに輪をかける。
1試合の勝利をもたらすのはフォワードで、最終的なタイトルをもたらすのはディフェンダーだ、ということばを聞いたことがある。イタリア人監督なのに、ディフェンスがぼろぼろなままで4年が過ぎた。今野や伊野波が日本最高のディフェンダーとは思えない。いくらディフェンスの弱い日本でも、そんなことはあるまい。絶対的なストライカーが今もいないし、たぶんこれからもいない風土からいって、強固な守備は追及しなければならないテーマのはずだ。南ア大会でのオランダ戦、ロンドン五輪でのスペイン戦の獰猛な守備を見よ。私にとってはこのふたつが日本代表のベストゲームである。オランダ戦は負けだし、スペイン戦は五輪代表だけども、そんなことに関係なく。
ジーコは監督としてだめだろうと就任のときからわかっていたから、その結果を見ても大きな驚きではなかったが(大きな憤りではあったが)、ザッケローニにはもちろん期待していた。ビアホフを重用した人だから、でかい選手を前線に置くのが好みのはずで、現在日本最高のストライカーである佐藤寿人が選ばれなかったのはそれゆえとわかる。ではなぜハーフナーは選ばれなかったのか? 試合で彼が出ても、本田が使わなかったからではないのか? つまり、選手や戦術を決めたのは監督でなく本田ではないか?
これ、だめな監督じゃないか?と素人の私でも感じていたのに、どうして本職たちが気がつかないのか。日本特有の「無責任体制」のなせるわざではないか。選任した者を見限って解任するのは勇気がいるし、その選任が誤りだったとみずから認めるわけだから、その責任を取る必要がある。
イランはあのアルゼンチンを相手に、もう少しで0−0の引き分け、ことによると1−0で勝っていたかもしれない。オーストラリア、世代交代がうまくいかず、かつては日本と互角以上だったが現在は後塵を拝しているオーストラリアが、スペインを粉砕したオランダ相手に五分の試合をし、一時は逆転もしていた。最終的に1勝もできなかったアジア代表チームでも、力を出し切った国と、まるで出せなかったみじめな国のふたつにはっきり二分される。
調整試合で日本が勝ったコスタリカ。彼らはイタリア、イングランドに勝ち、ウルグアイ、オランダに引き分けた。その違いは何か。もちろん守備だ。こうまでくっきり「その後」が分かれると、悲しくなるより楽しくなる。死の組と言われたグループで、誰もがコスタリカ敗退と思っていた。私もそうだった。しかし、コスタリカをあなどるチームが敗退組になるだろうとも考えていた。結果はそのとおりだった。つまり、イタリアとイングランドと、それから日本が敗退した。
終戦、グループリーグ最強の敵コロンビアに2点差で勝てばかすかに決勝トーナメント進出の望みがあった試合の前に、「奇跡はそれを信じない者には起きない」と名言を吐いた選手がいた。これも、そのとおりだった。ギリシアにそれは起き、日本には起きなかった。たぶん信じていなかったのだろう。口だけだったのだろう。優勝をねらう云々と同じく。
ベスト16のコスタリカギリシア戦の前半は、前大会のパラグアイ−日本戦はこんな感じだったのだろうなと思いながら見ていた。あの試合、われわれは手に汗握っていたけれど、日本およびパラグアイ国民以外の世界の人々にはこのように見えていたのだろうなと。しかし、前半は退屈だったこの試合も、後半にコスタリカに点が入り退場者が出てからは俄然スリリングになり、PK戦までおもしろく見た。やはりサッカーは点だ。点が入ればおもしろくなる。点は人を酔わせる。
それにしても、弱小国の健闘が目立った大会だった。後世の人は大会記録を見て、おや、誤植があるぞと思うに違いない。ドイツ−アルジェリア(延長2−1)とドイツ−ブラジル(7−1)の結果が入れ替わってるじゃないか。― サッカーのおもしろさのこれもひとつである。


日本については、サッカーのほうでまるで話題にならなかったかわりに(すばらしいコロンビア、意外なコートジボアールの土壇場での敗退と奇跡的なギリシアの進出のみ話題になり、日本はその3国の試合相手としてしか口の端にのぼらない)、チームとは別のところで話題になったことがふたつある。試合のあとのゴミ拾いと、開幕戦での西村主審の判定である。
自分たちが出したゴミを自分たちで片づける。日本では特にどうということのない行為が、ワールドカップでは話題になる。日本におけるサッカーおよびサッカーファンの位相が世界におけるそれといかに異なるかを端的に示している例だ。サッカーというのは、スラム街の悪ガキたち、汗にまみれた労働者の息子たちのスポーツ(炭鉱町のクラブチームの強いこと)なのであり(審判や協会のお偉方は、選手をそういう者の代表として取り扱う。校長や視学官が育ちの悪い粗暴な生徒に対する態度と言っていい。後述スアレスへの懲罰にもそれが見られる)、敗戦後に暴動が起きるのは当たり前、戦争まで起きたりする。それなのに、日本人は勝っても負けてもゴミ拾い。日本の誇るべき点であると同時に、異質である点だ。だが、逆に日本の生きる道はここにしかないとも思われる。あのみじめな敗退のあと、選手が一切言い訳をせず謝ったのは、今回の代表チームで唯一すばらしかった点だが、それもゴミ拾いと同じ思想に基づいている。
もうひとつの西村主審のPK判定は、実際に手をかけていたのだから、笛を吹かれることも往々にしてあるプレーであって、誤審ではあっても特にどうということのないものだが、世界の注目を集める開幕戦だったのが不幸だったのだろう。あれよりひどい誤審は無数にあった。ギリシアの奇跡の勝ち上がりを決めた終了間際のサマラスのPKはPKではなかったし。ブラジル−オランダの3位決定戦など誤審だらけで、最初のPKはエリア外の反則だからFKだし、それを犯したシルヴァはイエローカードでなくレッドカードだったはずで二重の誤審、さらに、オスカルはペナルティエリア内でファウルを受けていてPKだったはずが、逆にシミュレーションとしてイエローカードを出されている。しかしブラジルの選手も観衆もこんな重大な誤審にろくに抗議もしない。3位だろうが4位だろうが準決勝敗退の重い結果の前に実質何も違いはなく、スコアの多少の違い(0−3が1−2になろうと)は、サッカーの質においてオランダに圧倒されていた事実の前には空しいとわかっていたからだ。まっさらですべてがオープンだった開幕戦の重要さとは比較にならない、すべてがほとんど決まったあとの盲腸のような3位決定戦は。
ブラジル−クロアチア戦のあんな笛、Jリーグなら普通である。PKを取られた側が力ない抗議をし、サポーターも文句を言うが、それだけ。すぐに日常の中に埋没してしまう。だが、ワールドカップ開幕戦ではそうはいかないということだ。日本では、審判の判定は絶対であるとして、誰の目にも明らかな誤審ですら検証しない誤った習慣ができている。いくら抗議しても覆らないのだから、それをサッカーの一部であるとして受け入れるのはいい。執拗な抗議で判定を(史実も)変えようとする愚かしい隣人の態度に辟易している身としては、潔いのは大いにけっこうなことだ。だが、誤審は、なくすことはできなくても、減らさねばならない。そのためには検証が必要だ。オフサイドもPKも、海外のテレビはこれでもかとばかり繰り返し再生するが、NHKは1回再生すればいいほうで、1度も再生せず忘れ去らせようとしているのは不都合だ。ああいうNHKの悪習が今回の西村主審の「悲劇」(開幕戦の笛を吹いた人がその後1度も主審を任されなかった!)を生んだのだ。猛省してもらいたい。そんなNHKの態度は、敗戦の原因を検証することなく、ただちに新監督の人選に入るという協会の体質とも通底する。悪習は孤ならず、必ず隣あり。ここをまず変えなければならない。
相手ディフェンダーに手をつかまれていたとはいえ、あのフレッドの倒れ方は、大根ではなくクサい演技でもないが、熟練のルーティンであった。あれで開催国にPKを与える笛が吹かれれば(おまけにイエローカードまで出た)、見物のすれっからしたちは「買収か!」と色めきたつ。だが、日本人だから、買収ではないとすぐに気づく。では? つまりイノセントでナイーヴだ、という結論になる。それは滑稽だ。傲慢や腐敗は憎まれる。イノセントでナイーヴなのは笑われる、ということだ。
イノセントでナイーヴ。審判に限らず、日本サッカーを語る上でのこれがたぶんキーワードだ。


「噛みつきスアレス」が今大会の大きな話題である。これでますますスアレスが好きになった。天才というのは常人とは違う。だから多少の逸脱は大目に見なければならない。たぶん彼は何らかの病気だ。しかし軽微なものだ。スアレスについて注目すべきは、私生活での愚行悪行の話題を聞かないことだ。聞こえるのはピッチ内での奇行だけである。私生活では平凡な人で、フィールド内でのみ「非凡」になるのではないかと推量される。生活破綻した天才もきらいではないが、私生活では平凡な家庭人で、仕事になると狂気を帯びる天才にはひかれる。
問題は、「紙一重」的な天才の奇行が「大目に見られる」範囲内かどうかで、私は範囲内だと思うが、外だと思う人もいて、そこで意見が分かれる。
スアレスが噛んで、世界中が喜んだ。彼が属するウルグアイ代表やリヴァプールは困っただろう。出場停止処分をくらうわけだから。キエッリーニおよびイタリア人は怒っただろう。しかし、それはレッドカードが出されず退場にならなかったからだ。だから、試合が終わってしまえば、噛まれたキエッリーニ自身が処分は重すぎると言っている。防衛の最終ラインで体を張る彼は、あれなんかよりずっとひどいことをやられているし(より多くやってもいるし)、処分とのバランスが取れてないことは体感しているに違いない。
私は人に噛まれたことも噛んだこともないのでよくわからないが、大して害があるとは思えない。耳や指なら危ないが、肩や腕を噛んだところで大事ない。人の口は人を噛むようにできていない。肘打ちや膝蹴りのほうがよっぽど危険だ。故意に足を狙った卑劣なファールで選手生命が断たれたり短くされたりする大けがは今まで無数にあったし、これからもあるだろう。肩を噛むことなんぞより、そっちのほうを何とかするのが重要だろう。悪意のある危険なタックルの例なんか、腐るほどある。ネイマールがみまわれたやつなど、ごく軽い部類にすぎない。多すぎるから罰することができず、きわめてまれだから大げさに罰する。茶番だ。ソフィスティケートされた凶悪さは許され、プリミティブな実害のなさは厳しく糾弾される、ということだ。ときどき野性がほとばしるのに抗えない山出しの田舎者が、都会のお上品ぶった悪辣な連中になぶられる図と重なる。
彼がしでかした物議をかもす行動では、手でゴールするボールをはじき出すほうがよほど大きな問題だ。あれが横行したら、サッカーというゲームが歪められる。しかし、これは重大な反則だから、罰則規定がある。それをした選手は退場、出場停止。相手チームにはペナルティキックが与えられる。だがPKは水ものだから、外すこともある。実際この試合で相手チームは外した。故意にルールを破った者が利益を得た(退場と出場停止と引き換えとはいえ)。サッカーというゲームの根幹に関わるこの反則がその程度の罰で、たかが噛みつきが4ヵ月のサッカー活動禁止? 違うだろ。
ルールブックにない。だから恣意的な判定をする。そこが根本的な誤りだ。東京裁判と同じだ。スキージャンプで日本選手が活躍するとルールが変えられてしまうのとも同じである。日本語ではこれを「お手盛り」と言うのだけどもね。
粛々と罰を下せばいい。罰することに何ら異議はない。過剰に重すぎると言っているだけだ。ボールのないところで相手にパンチをみまった選手(あるいは頭突きをみまった選手−あのフランスの10番)に下す罰と同じものを与えればいい。それ以上でもそれ以下でもない。
子供が真似したらどうするんだという非難も、まるで当たっていない。噛みつくときは頭を押しつけるのだから、無防備な頭をしこたまどつかれて、そのあとみんなから袋叩きにあって、しまいだ。
FIFAの決定をこきおろすマラドーナは正しい。マラドーナは、監督にはしたくないが、批評家としては恐ろしく正しく的確だ。とんちんかんなペレ、偏りのあるクライフ、雑なベッケンバウアーに比べて際立つ。現役では、元刑事犯であるバートンがいい批評家になるだろう。
スアレスのことでは、リヴァプールが好きになった。リヴァプール以外のイングランド中がスアレスに対して轟々たる(誤った、と私は思う)非難を鳴らしているとき、ひとりリヴァプールのみは断固として彼を支持し、かばいつづけた。彼らも内心はどうだったのか知らない。もしマンチェスターの選手が噛みついたり人種差別を疑われる行動をしたら、急先鋒となって批判していただろうとも思うが、身内に対する批判はいかなるものも撥ねつけた。すばらしい。ことは理非曲直ではない。無条件に「わが家の息子たち」を守る態度は、正義不義の彼岸にあって尊い
「全身的スポーツ」であるサッカーでも、口は関係ないね。というよりも歯ね。舌のほうは大いに活躍する。PK戦コスタリカ選手を挑発していたオランダGKのように。


今大会で最も心打たれたのは、敗軍の将兵たちの立像である。メッシを手前に、暗い沈んだ表情で立ち尽くす無言の群像。ユニフォームの群青色が悲痛さをさらに深める。試合とは勝敗を決める場で、一方が勝つならば他方は負ける。確かドイツ対アルゼンチンはほぼ五分の対戦成績で、きょうは勝ち、明日は負ける習いとは言いながら、勝負事はやはり勝たなければいけない。負けてうれしいことなんか何もない。ましてワールドカップの決勝戦という、ほとんどの選手にとって一世一代の大舞台だ。勝つために死力を尽くし、そして敗れる。胸中いかばかりか。早く引き揚げてやりきれない思いを、泣くか叫ぶか、酒をあおるか深く沈みこむか、何なりともして片づけたいだろうに、勝者のセレブレーションを見るためにとどまらねばならない。残酷だが、だからこそあんないいものが見られた。
アルゼンチンの試合は、眠っていてよく見られなかった。前半の途中あたりから寝てしまうのである。退屈で。たまたま目を覚ましたらメッシの決勝ゴールの場面だったことがあり、得をしたような気分になった。だからいつも再放送で見直していたが、見返しても、寝入った私は正しかったと確信するような試合だった。ナイジェリア戦以外は本当につまらなかった(見返すことができたのは、中国CCTVの体育チャンネルが毎日全試合を生放送するほか再放送もしていたおかげで、中国に感謝である。どうして出場もしてないのにあんなに熱心なんだ?)。
ドイツの試合はことごとくおもしろく、眠気が起こることもなかった。アルゼンチンの試合で最後までくいいるように見たのが決勝戦で、それはドイツの試合であったからか非常におもしろかったが、敗戦だった。私が寝ればアルゼンチンが勝ったということはあるまいが、彼らには残念なことである。
ドイツのサッカーはもちろんおもしろかったが、アルゼンチンのメッシ依存の近来まれな異形のサッカーも、あれはあれでおもしろかった(寝たけど)。走らない守備をしないメッシに攻撃の全権を任せる。それが許されるどころか、走らなくても守備しなくてもキャプテンだとうのがすごい。残り10人の「労働者」が「天才」を認め、支え、彼の分も走りまわり守備をする。ドイツのが民主制なら、これは君主制。「労働者」たちがそれを固く支持し結束しているのには驚嘆するが、マラドーナのときがそうだったように、この形に慣れてもいるし、彼らがもっとも力を発揮できる形なのかもしれない。ディ・マリアマスケラーノのようなMVP級の選手が「それでいい」と思って「労働」にはげんでいるのなら、ファンや評論家も「それでいい」と思わなければならない。愛にさまざまな形があるように、サッカーにもさまざまな形がある。


勝戦の大詰めの場面、0−0の状況で監督が期待の若者を「メッシよりすぐれていると示してこい!」と言って送り出し、交代でピッチを去る歴戦の勇者、世界記録を更新したばかりのベテランが、代わり際に「おまえならできる」と声をかけて退く。そしてその若者が世界一を決める美しい決勝ゴールをたたきこむなんて、ドラマでもあざとすぎて書かないような筋書きではないか。フィクションに疲れた人間には、ノンフィクションのサッカーは限りなく魅力的だ。


せっかくの優勝にミソをつけたと言われたのが、ドイツ選手が祝勝会で踊った「ガウチョ・ダンス」である。腰をかがめたガウチョと歩き方と、背筋を伸ばしたドイツ人の歩き方を見せるというものだそうで、アルゼンチン人に対する人種差別だと報道された。的外れと言うべきだ。学生の馬鹿騒ぎレベルの事象である。「大学数え歌」みたいなものだ。「一つとせ、人は見かけによらぬもの、軟派張る奴ぁ×大生、そいつぁゴーキだね、そいつぁゴーキだね」「二つとせ、ふた目と見られぬオカメでも、窓から顔出す×大生、そいつぁゴーキだね、そいつぁゴーキだね」などと歌う歌詞には、微温的なからかいのほかに、「間男するやつぁ×大生」「肥桶かつぐは×大生」のような明らかな侮蔑も含まれているが(「オカメ」も今や放送禁止用語かもしれない)、ある歌詞を対象校の学生は「見れば見るほどいい男」と歌い、他校生は「見れば見るほどいやなやつ」と歌うように、相互的な関係にあるのだ。アルゼンチンに対するからかいやあざけりではある。だったらやりかえせばいい。近々親善試合があるらしいから、そこでやっつけて、お返しのパフォーマンスを見せてやればいい。ただ、そんなことを繰り返すと遺恨試合になってしまうので、好ましいことではないけれども。それにしても、いつからサッカー選手は模範的市民でなければならなくなったんだ? あんなのは芸能人(可原乞食の裔)と同じで、刑法にさえ触れなければ、あとはたいがいのことは大目に見てやるべき存在のはずだ。サッカーファンも犯罪者予備軍みたいなもので、だからそれがゴミ拾いをすると心底驚くくせに、選手に対する期待値だけ高いのはどうなの?
差別というのは微妙な問題で、その判断基準には主観的なものと客観的なものがある。主観的には、対象となった者が「差別だ」と感じたら、「差別」なのである。自己申告制なのだ。客観的基準というのも、した側とされた側に明らかな優劣の差があり、「やられたらやちかえす」ことができないときが差別だ、のようなものだから、多分に「主観的」である。だが、これらはドイツとアルゼンチンには当てはまるまい。対戦成績で五分のサッカー強国、ワールドカップ優勝国同士のことであるし。
無視してよさそうなこんな些細なことに言及するのは、われわれの世界には事件で飯を食っているマスコミや弁護士という人種がいて、この連中は事件に群がり、事件性があればかきたて、果ては、事件がなければ作り出すことまでするからだ。彼らによって焚き火の火が火事あつかいにされたのがこの件だ。われわれは努めてこの連中にたかられないようにしなければならない。放っておけば彼らはわれわれを丸裸にする。


ヤフーでサッカー関係のニュースを追っているのだが、「報知」「スポニチ」「サンスポ」などはまとめてスキップする。「日刊スポーツ」は他社が取り上げない記事があるので、ときどきのぞく。Goalの記事をよく読む。試合経過がいちばん詳しいので。写真の選択もセンスがいいし。驚いたのは「日刊ゲンダイ」である。これはだいたいがサラリーマンのネガティブな感情のはけ口のような新聞で、そねみやうがちに満ちていて、ふつう読むことはないのだが、ワールドカップの記事は非常に的確で、うがちも当を得ていた。しまいごろは「ゲンダイ」だからというので読むようにさえなっていた。いったい「ゲンダイ」に何が起こったのか? しかし、W杯が終わったあとの記事はいつもの「ゲンダイ」であった。まあ、そのほうが安心ではある。4年後に会おう。