高校サッカー選手権雑感

天皇杯高校サッカーも、見ることができる年は必ず見ている。今年は幸い見ることができる年だった。決勝戦だけだが。
富山第一対星稜の決勝は、得点経過が劇的だった。それ以外は特に秀でていたわけではないが、それを忘れさせるほどの展開だった。前半、富山が一方的に押していたとはいえ、決定機はあまり作れないうちに、PKで星稜が先制、さらに後半カウンターからヘディングで追加点を奪ったときは、誰もがこれで星稜の優勝だと信じた。しかし、後半40分過ぎに1点を返して、そのあとも猛攻をしかけたときは、ひょっとするとと感じた。そしてロスタイムにPKを得る。PKはたいがい得点になるとはいえ、外したり止められたりすることもけっこうある。緊張は極限に達する。それが決まって同点、延長。延長後半のもう残り時間のないところ、みんながPK戦を考えていたときに、ロングスローから強烈なボレー。富山第一優勝。終わってから振り返れば、すごい経過だ(星稜はたしか甲子園でも延長18回のすごい試合をやったことがあったが、あれも負けたんだったっけ?)。


高校サッカーはおもしろい。ことによるとJリーグよりおもしろい。それはなぜか。
日本サッカーの欠点は数々あるが、もっとも大きな、致命的と言っていい欠点は、シュートを打たないことだ。ゴール前で、シュートが打てるのにパスしてカットされるというシーンを何度見てきたことか。
高校生はシュートを打つ。思いきりよく打つ。トーナメント戦で、負けたら終わりということもあるかもしれないが、それ以上に、あの年代特有の向こう意気の強さによるのだろう。
トリックプレーも大好きだ。こんなのやってみようやと、いたずら好きな半分子どもの連中がああだこうだ話し合っているのを想像すると楽しい。
ホームとアウェーがないのも日本サッカーの特徴である。あるにはあるが、アウェーゲームの戦い方なんてしない。もちろんホームゲームの観衆の多くはホームチームを応援しているのだが、一部の熱心なサポーター以外は、心情はひいきしていても傍観的に眺めている。微温的だ(だからこそ、ACLには意義がある。あれでは外国へ行かされるから、完全なアウェーを経験できる)。
高校サッカーの応援団はサポーターの理想だ。「サポーター」と選手の間には、どちらの側からもつゆ疑われないすばらしい一体感がある。選手は「サポーター」のまごうかたなき代表で、「サポーター」は彼らを一心に応援するし、選手は選手で、「サポーター」を喜ばせることが戦いの大きなモチベーションである(その中には好きな女の子もまじっているに違いない)。勝て勝て勝てと手を握りしめて祈る女子高生ほどに純粋なサポーターがあろうか。彼らの名誉がわれらの名誉、われらの悲嘆が彼らの悲嘆。Jリーグのチームにはない、切っても切れない選手と一体の「サポーター」である。
地元の人々だってそうだ。富山県では決勝戦は50パーセントの視聴率だったとか。泣いてうらやめ、Jリーグクラブ。「サポーター」なんぞという新語を作って(それは関節を保護するバンドのことだったはずだ)、クラブ理念などという目新しいものを鳴り物入りで導入したが、なに、輸入でない地生いの理想的「サポーター」がJリーグ元年のはるか昔からあり、今もほれ、そこにある。「地域密着」なら、地元の高校に勝るものはない。ひょっとしたらわが子が、でなくても知り合いの子が、必ずそこの生徒なんだから。
それは「歴史的事実」でもある。高校サッカー選手権は大正6年/1917年からやっているので、Jリーグよりも日本リーグよりも、それどころか日本サッカー協会よりも古いのだ(大日本蹴球協会・1921年創立)。「後輩」たちは「先輩」に学ばんといかんね。


勝戦の対戦校、富山第一と星稜は、地域こそともに北陸で隣接していたが、実に対照的だった。他県出身者が大半の星稜と、自宅通学生、つまり地元の子ばかりの富山第一
野球と同じく、才能ある越境選手を数多くかかえる高校は、クラブのユースチームのような存在で、ここでもJリーグ元年以前から根生いの「クラブ」もどきがあったわけだが、「サポーター」には賛辞を惜しまぬ者も、この「ユースクラブ」には疑念なしとしない。多くの場合そういう高校は寮をかかえていて、親元から離れて集団生活をする。それは密室になりがちだ。そして、高校の教師と生徒には権力関係がある。さらに、日本の集団は内輪の恥を外に出さない閉鎖的な体質がある。問題のない生徒は、サッカーに打ち込んだ問題のない生活が送れるだろう。だが、問題が起きれば、それは内部で無残に押しつぶされるのではないかという懸念があるし、それはたぶん懸念にとどまらない。
地元の生徒ばかりだと、顔が見える。生徒一人一人の背後には、親がいて、家族親族がいて、地域社会がある。問題が起きれば、親や地元の有力者を通じて学校にフィードバックされる。結果として風通しがいい。一見、他県からさまざまなバックグラウンドをもつ生徒が集まって刺激を与えあうのは開放的に見えるし、地元の似たり寄ったりの生徒ばかり集まるのは閉鎖的に思える。だが、開放的なものが閉鎖的で、閉鎖的なものが開放的であるという逆説もまた存在するのだ。地域社会(ムラ社会)というのは隣人の噂話の世界である。群れというのはそういうもので、それは猿山を見ればわかる。息が詰まりそうなのもたしかだが、一方で安全保障にもなっている。そして、日本一にだってなれる。富山第一が示したように。


高校サッカーで好ましいのは、交代する選手がピッチに一礼して出て行くことだ。礼に始まり礼に終わる柔道や剣道の部員がやっているのだから、クラスメートのサッカー部員がやるのは自然で、美しい。形だけであろうとも、形すらないよりずっといい。
日本サッカーのために提言がある。まずことばを正しなさい。「おしゃれ」なる語は中継から追放しなければならない。こんなことばを使うから、プレーが軽くなる。必要ならば、芸術的なプレーとかスペクタクルなプレーと言いなさい。
また、「泥臭いゴール」というのもサッカー用語集から抹消してもらいたい。そんなものは存在しない。たくましいゴール、強い意志のゴール、献身が報われたゴールがあるだけだ。
ブラジル人はよく、日本人には「マリーシア」が足りないと批評するという。なくて上等だ。審判を欺く小狡いプレーで勝って、何がうれしい。正直でなくて、何か楽しい。勝ちたいよ。そりゃあ勝ちたいさ。だが、勝つなら正々堂々だ。卑怯未練抜きだ。勝ったところで、たかがサッカーではないか。命まで取られりゃすまいし。「マリーシア」は幸いまだ日本語になっていない。これからも日本語にならないでもらいたい。卑怯であっていい、潔くなくていいことがらなど日本には存在しないでもらいたい(大いに存在するけれども、にもかかわらず)。
南米の場合、おそらく勝たないと「命まで取られる」のだ。南米のような正直が報われない社会では、みずからの才覚で権威権力を欺いて、窮地(往々にして権力に強いられた不当な窮地)を切り抜けることが絶対的に必要なのだろう。だが、そんな社会を真似る必要がどこにある? 正直が(ある程度)報われる社会が今そこにあるのなら、われわれの仕事はそれを守ることだろう。プロのサッカー選手なんて、カズのような無茶な例外は別として、並みの選手は10年そこそこしかやれない。サッカーやめてからの人生のほうがはるかに長いのだ。その後の人生で、正直が報われない世界に生きたくなどないし、正直を踏みにじっていいわけもない。そういうことである(しかしそれには、車が来ないのに赤信号が変わるまで待ちつづけるがごとき、自分の頭で考えず、規則に考えてもらうような主体性の欠如は含まれない)。
南米選手を見るのは楽しい。実におもしろい(特にスアレス)。だが、見て楽しむだけでいい。見るだけなら、超高層ビルが崩れて大勢の人が死ぬのを見るのだって楽しいかもしれない(戦慄の快楽だ)。だが、それはもちろん近所のビルが崩れて人が死んでいいことを意味しない。
あらゆることが教育であるように、サッカーもまた教育である。教育というのはすべて徳育であって、それ以外はむしろ余計なことだ。よい父、よい母になる以外に教育の目標などないのだ(ちなみに私は独身ですが)。もちろん、正直と両立しない類のよさもあるので、南米がよい父よい母だらけなのを疑うものではありません。