サハリン消息/「贅沢」旅行

最近は宇宙旅行もできるそうだが、億単位のかかりというから、さすがにこれは例外としましょう。それを除いて、日本人にとっていちばん贅沢な旅行先はどこだと思いますか? 私は迷わず、サハリンだと答えます。宗谷海峡は40キロ、津軽海峡(20キロ)よりはあるけれど、対馬海峡(60キロ)より与那国・台湾の間(80キロ)より短い、日本からいちばん近い外国です。いや、戦前は外国じゃなくて日本だった。そんなところに旅行しようと思ったら、これがあなた。
1月下旬、知人がサハリンに遊びにきました。函館や札幌からユジノへの便が往復8万から9万円。40人乗りプロペラ機で。それだけあれば、ヨーロッパへ往復できます。だいたいソウル−ユジノ便より高いのだから、ひどいものだ。それに、「内地」の人間には北海道への旅費もその上にかかってくるんです。稚内コルサコフ間のフェリーは2等で片道2万円だけど、関釜フェリー9千円、那覇から基隆1万5千円、日本海を横断する伏木−ウラジオ航路3万円と比べると、距離比でやはり高すぎる。それに稚内だものね。日本最北端ですよ。そこまで行かされて、これだから。サハリンの人間は、日本は北海道だと思っていないか? 競争がないと、つけあがる。日本の側でも甘やかしてないだろうかとも思います。
さらに。すでにソ連でなくなってずいぶんたつのに、いまだ旅行のシステムはソ連式が守られていて、バウチャーを取らないと旅行できません。つまり、個人旅行はできるが、自由旅行はできない。ビザ申請時に旅程はがっちり決まっていて、動かせないということ。あらかじめ往復チケットを買っておくのはいいけれど、ホテルや国内移動の切符も予約し、支払いしておかねばなりません。そして、このホテル代がサハリンでは無茶苦茶なんです。ごく並のホテル、駅舎の横(つまり線路脇)のユーラシアが1万6千円。高い。50ドルがせいぜいだろうに。サハリンは石油・ガス開発で外国人が流入していて、宿舎として一部ないし全部が借り上げられているホテルがいくつもあり、それで供給側が異常に強気なのです。知人はいちばん安い宿、駅前のモネロンに泊まりましたが、それでも1泊1万円。トイレ・シャワー共同で、かつシャワーは別料金。部屋も最低限なんだが(給湯パイプが一晩中うなるのだそうです)、2階の部屋から1階にあるシャワーを利用しようと思ったら、まずフロントで金を払い、3階に鍵をもらいに行き、1階に降りてシャワーを浴び、また3階に鍵を返しに行き、2階にもどる。1万円だろ? どう見ても、ほかの土地なら10ドル程度の安宿が、これですよ。世界でいちばん高い宿だと断言してもいい。
もっと金のかかる旅行先は数々あります。だが、距離で割ってください。設備で割ってください。サハリンの「贅沢ぶり」は異常に突出しています。次にサハリンに来るのは、モロネンの宿賃が10ドルになったときですね。料金体系が適正になるまでは、やめておこう。


それだけ使ってやってきて、それで見るもの何かあるの? うーん、ないわけじゃないんだけど、かなり趣味的になるねえ。ましてや冬だもんねえ。
秋のいい季節は仕事に慣れるためにつぶし、雪が解けるまで旅行はお預けかとあきらめ、ユジノにばかりくすぶっていましたが、彼女が来たのを幸い、どうしても行きたかった栄浜へ行ってきました。1923年、前年に最愛の妹トシを亡くした傷心の宮沢賢治が旅した樺太。この旅で「青森挽歌」「オホーツク挽歌」などの詩ができました。賢治の樺太の最果ては、オホーツク海に面する栄浜、現在のスタロドゥープスコエ。未完の「サガレンと八月」という童話は、この浜辺で風にもらった話だと言っています。「こんなオホーツク海のなぎさに座って乾いて飛んで来る砂やはまなすのいゝ匂を送って来る風のきれぎれのものがたりを聴いてゐるとほんたうに不思議な気持がするのでした。それも風が私にはなしたのか私が風に話したのかあとはもうさっぱりわかりません」。私も厳冬の風の話を聞きに、王子製紙の廃工場のあるドーリンスク(落合)まで「樺太鉄道」に乗り、出かけてきました。ドーリンスクからバスに乗り換え、丘を下りて着いた栄浜には、なぜかあまり雪はない。しかし海岸は凍りついて、琥珀がときどき転がっているという浜などは見えません。沖には流氷が浮いている。異様な皴を鋭角に刻まれた氷の上を、うろうろ歩きまわる。オホーツクの風はただ冷たいばかりでしたが、冬の氷の海辺は海辺で、忘れられない風景でした。村の大衆食堂の料理は、味はともかく温かくて、大雑把ではあるが心遣いもある。帰りのバスには、しっかり着込んで釣道具やドリルを持った男たちが大勢乗ってきた。氷の上で穴釣りをしたのでしょう。ドーリンスクの小さなレーニン像のある広場では、子どもたちがわずかな坂でそり遊びをし、野良犬たちがそれを眺めていました。
これも「贅沢」? たしかに贅沢。あまり人のしないことだものね。日本にない寒さの、いちばん寒い時期にね。