フェルガナだより 番外

<逆境>
2005年5月のアンディジャン事件は、フェルガナ大学の日本語教育を窒息させました。フェルガナの教師は2人とも日本人で、それがタシケントへ避難させられ、授業は休止、翌年度からの後任も見つからず、現在に至るまで授業はなされていません。リシタンに住む前の教師が、11月に週1回日本語能力試験の準備をしてくれていたそうですが、それだけ。学生は自分で独習しています。
だから正直なところ、12月にフェルガナから10人が受けた3級の能力試験に合格者が出るか、危ぶんでいました。彼らが教室で習ったのは初級教科書全50課中36課まで。あとは独習です。それでも、4人の合格者が出ました(うち1人は9月からタシケントの日本センターに通っていますが)。1人は、400点満点で320点以上の好成績でした。合格率4割は、海外での3級の合格率47.6%と遜色ないし、もし事件がなく授業が当たり前に行なわれていたら、あと2人受かっていたろうと思います。1人だけ4級を受けた者がいて、不合格でしたが、これも合格だったに違いありません。
逆境でこそ、人の真価が問われる。1期生はさほど上下差がなかったはずだが、ここへきてずいぶん開いてしまった。さもありなんと思います。独習は辛気な仕事です。やらなくても誰にも怒られない。ついつい怠けるのがふつうの人間で、叱るつもりはない。そうでなく、合格した4人を称えよう。よくやった。
そのうちの1人は、去年郡山女子大に留学するはずだったが、ビザが取れずに土壇場で行けなくなった学生です。留学の話が出る前に、日本の工場に働きに行くという話に応募していて、留学決定後そちらは断ったのに、手違いで入管への申請が取り下げられておらず、そのため二重申請となってしまい、入国許可が下りなかったのです。留学が流れて以来消息不明、フェルガナを引き払って田舎に帰っているとのことで、他の学生に聞いても様子がわからず、心配していましたが、その間もひとりで勉強していたらしい。そもそも留学候補だったのだから、3級合格は当たり前ではありますが、それでもあの事情を考えれば立派です。去年の弁論大会では、日本に留学できることになった、がんばります、というスピーチをみんなの前でしていたそうです(させるなよ、そんなの)。それで、行けない。情けなくて恥ずかしくてたまらなかったろうと、その心情を思うと、こちらもたまらない気持ちになります。そこから立ち直り、日本語を自習、しかも、教師がいなくなったフェルガナで、1月からは日本語を習いたいという学生たちに個人授業をしているとのこと。能力試験3級だけでなく、彼女は同時にもっと重要な「試験」にも「合格」したと思います。涙の数だけ強くなれるよ、アスファルトに咲く花のように。何かの歌にありましたね。
「前科」があるから、留学はもちろん、当分日本に入国することはできないでしょう。それで、大学院にも入っているし、高校でウズベク語を教えていることもあり、9月から大学で日本語教師のアシスタントをさせてやってほしいと頼み、大学から内諾を得ています。1年生の授業を週1回ぐらい持たせて、日本人教師の手伝いをしながら教え方を学び、翌年からは一人立ちした現地人日本語教師になってもらいたいとの心算があります。現地化は絶対に推し進めなければならないテーマですから。
滞在中、彼女の村を訪ねる機会がありました。キルギスとの国境の、山が迫る耕地の少ない村です。彼女の部屋には飾り棚があって、そこには日本の本や週刊誌などと並んで、チラシも飾ってあった。商品の広告のあのチラシです。きれいではあるが、こんなものを。胸衝かれました。誰にでもある、たとえばマッチ箱なんぞが宝物だった幼い頃。言葉にすれば「ナイーブさ」「愚かしさ」ということなんだろうけれど、こいつらはときどきとんでもない無垢の輝きを放ち、われわれの心を浄ってくれる。いつか、こんなばかばかしいことをしていたねと、笑う日も来るのでしょうが。
彼女は、押し花のコレクションも見せてくれました。押し花か。やっていたよ、たしかに。私の周りでも。清楚で優雅ないい趣味じゃないか。いま日本の女学生の何人ぐらいがしているだろう。ケータイで忙しいもんなあ。花だって、売り物か飾り物ばかりだもんなあ。われわれが得たものと失ったものについて、考えさせられました。収支決算は、それでもプラスなんだろうか。近過去に出し抜けに襲われて、忘れていたかすかな記憶を不意に柔らかい指で触られることが、この国では多いのです。
この彼女もそうですが、今回来てみると、結婚した学生が3人、アルバイトで学校で教師をしているのが4人いました。勉強だけしていられず、自分の食い扶持や学費を稼がなければならないのはつらいかもしれないが、それは成長の印。うれしく、頼もしく思いました。結婚したうちの2人、教師をしているうちの1人は、日本語の勉強をやめてしまいました。それはやむを得ません。卒業後も日本語を使って働けるのは、せいぜい1人か2人。日本語を勉強した経験が、彼らの人生で何かしらの糧となり、よき父、よき母になってくれることを願います。
古人曰く、艱難汝を玉にす。玉になれ、玉になれ。


<前例恐るべし>
ウズベク人は弁論大会が好きです。モスクワの弁論大会でも、中央アジア三国の代表はいつも複数名入賞します。聞いていておもしろいのは、ロシアの学生は、よく調べたレポートのような知識をひけらかすスピーチをします。対して中央アジアの学生は、語ります。最近はこの特徴のコントラストも薄れてきたけれど、やはり根底には脈々とあるような気がしますね。語るのが好きなのです。
今回フェルガナへ行ったのは、弁論大会があったからです(2月25日第3回フェルガナ地方日本語弁論大会・3月11日第14回ウズベキスタン日本語弁論大会)。ウズベキスタンの弁論大会は派手で、まさに学生たちの晴れ舞台。日本国特命全権大使を始め、日本人会やJICAの方々など、かなりのメンバーが聞きに来ます。フェルガナにも出場枠がある。アンディジャン事件以降教師がおらず、授業を受けられないでいる学生たちには、日本語を鍛えるよい機会です。あの事件以後フェルガナがどうなっているかも見たかったし、思い切って出かけてきました(思い切りすぎ、という意見もありましたが)。
行ってみて感じたのは、引き継ぐことのむずかしさ。今はリシタンの青年センターで働いている後任教師の一人がフェルガナ弁論大会の準備をしてくれていましたが、その尽力は多とするものの、大いなる無駄を自分と学生両方に強いただけではなかったかと思います。スピーチしたい学生にウズベク語で作文を書いてこさせ、それを日本語に訳して与え、暗記させるというものだったのです。数人が日本語で書いてきたほかは、皆そうだった。日本語で作文を書かない者が、スピーチをしてはいけません。それはルール違反だという以前に、そもそもそんな学生がスピーチなんかできるはずはないのです。2期生は教科書の17課までしか習っていません。つまり、動詞の活用形はほとんど知らないということ。日本語でまともな作文が書けるわけはない、動詞の活用を習っていなければ。だからスピーチもできるわけはない。
しかし、そういうおまえ自身が当時の1年生にスピーチをさせていなかったか? そう、させていました。そのときは、日本人社会にフェルガナ大学を認知してもらうために、無理を承知でやったのです。けれど、「フェルガナだより」9号をみていただければわかるように、私は日本語で原稿を書いてこさせていました。スピーチした6人とも、恐ろしく間違いの多い稚拙な日本語ではあったが、それでも一生懸命日本語で書いてきて、それを手直ししてやらせたのです。
けれども、「前例恐るべし」。1年生がスピーチをしたというのが前例になってしまい、ひとり歩きを始めたのでしょう。去年も1年生がスピーチしている。テキストを見れば、彼らが自分で書いたのでないことは明白です。そうして今年も、日本語ではせいぜい「わたしのへやにつくえがあります。つくえのよこにたながあります。つくえのうえに本があります・・・」程度しか書けない連中が、「作家の心が、しらずしらずのうちに私の心に入ってきて、そしてわたしの心がしずかに変わってゆくのだと思います」などとスピーチする。語彙も文法も習ったところよりはるかに上だから、彼らにとってはスピーチコンテストではなく、暗記コンテストです。スピーチ練習を通じて多少は日本語の勉強にもなっただろうが、その時間教科書を進めてやったほうがずっと効率がいいのだけど。
ウズベク語で書いてよければ、ウズベク語で書いてきますよ。スピーチはみんなしたいのですから(どういうわけか)。これはのりこ学級の「悪習」です。あそこではウズベク語の作文を日本語にしてやっている。子どもだから、やむを得ないところはあるでしょう。しかし「悪習」は広まりやすいものです。フェルガナ大も侵食されてしまった。
今回はのりこ学級と合わせて19人が参加しましたが(実際にスピーチしたのは17人)、そんな大勢の学生を1人で指導できるわけがない。私も飛び入りしたので結局2人でしたが、それでも十分なことはしてやれない。日本語で書いてこさせれば、この半分しか参加しなかったでしょう。十分に指導の手がまわり、学生も勉強になったと思います。
日本語はまだよくできない学生のためには、何かのテキストを暗唱させればいいと思います。小説の一節や詩などの。実際にそれをやっているところもあります。スピーチ練習は作文・発音・質疑応答の練習になるものだが、この弁論大会ではそうはいきませんでした。でも、大会のミニマム、つまり開催できたことを喜ぶほうが先でしょうね。航空運賃使って来たから、つい欲は出すけどね。


<私に注意を払って/ライホナ・ムイディノワ>
 家族は子どもを人間にする大事な学校です。子どものしょうらいは、家族の中でうける教育とはらわれる注意にかかっています。子どもが困難を感じているとき、両親が注意してあげると、むずかしいことがやさしくなります。子どもは確信が持てるようになりますから。両親が不注意だと、子どもの夢がなくなります。
 私の友だちは夢をなくして生きています。友だちは経済学部で勉強しています。私はいつも彼が絵をかいているのを見ます。でもかいた絵を見たことがありませんでした。それで友だちに、
「かいた絵はどこ? ちょっと見てもいい?」と聞きました。
友だちはいつも、「ああ、最後までかかなかったんだよ。絵をかくのはあまりおもしろくないから、途中でやめちゃった」と答えていました。
 ある日、彼のかばんの中に本をさがしていたとき、たくさんの絵を見つけました。すてきな絵で、びっくりしました。彼が来たとき、「あなたがかいた絵を見たよ」と言いました。
 彼は顔が赤くなりました。そして怒りました。私は「ほんとうにきれいな絵だよ」と言いました。でも彼は、「友だちだから、お世辞を言っているんだろ」と言って、なかなか信じてくれませんでした。私は、「どうしてみんなに見せないの」と聞きました。彼はしばらく考えたあとで、言いました。
「子どものとき、父は私がかいた絵を見て、叱りました。私は川の中に木をかいたんです。父は、「どうして川の中に木があるんだ。川の中に木は生えないよ。よく頭を使いなさい。絵を書くより算数を勉強しなさい」と言いました。じつは、しょうらい画家になりたいと思っていました。それが私の夢でした。でも、人生はこんなもの。それから私は絵をかくのをやめました。父が言うとおりに、経済学部に入りました。でも、ひまな時にまた絵をかきはじめました。かいているとき、私はリラックスするんです。絵をかくのがほんとうに好きなんです」
それを聞いて、私は考えました。子どもが絵をかいたとき、もしお父さんが、「ああ、きれいだね。自分でかいたのかい。もっとかきなさい。それから、いっしょにおかしいところをさがしてみよう。いいかい。ここがへんだね。なおそう。これからはこうかいてはいけないよ、画家さん」とほめていたら、今はどうだったでしょうか。友だちはおもしろくない経済を勉強するかわりに、絵がもっと上手になって、有名な画家になるかもしれません。夢を実現したかもしれません。
今、ウズベクの家族の多くは、子どもたちのことにあまり注意しません。どんな意見を言っても、興味をもちません。もし話の途中で意見を言うと、「子どものくせに、話をさえぎるんじゃない」と言われます。でも、もし子どもが困難にぶつかったら、「もう大きくなったんだから、自分で考えなさい」と言うでしょう。
 小さいころ、私にもそんな経験がありました。私がある意見を言いたいとき、親は私に注意をはらってくれませんでした。私は小さかったけど、私に注意をはらってほしかったのに。私にとって大きな問題は、両親にとって小さな問題でした。これは私には重く感じられました。それから私は意見を言わなくなりました。家族の中だけでなく、友だちの間でも言わなくなりました。友だちに言っても注意してくれないと思ったからです。私は勉強はよくしましたが、意見は言いたくなかった。自分の意見が正しいと感じていても、それを言うのがこわかった。また誰も注意してくれないかもしれないのがこわかったんです。ある日、教室で授業中、先生が私にも質問しました。私は答えました。先生は、みんながあげた答えの中で、私のがいちばんいいと言いました。私はおどろいて、すぐには信じられませんでした。私は考えます。もし私が小さいころ、しっかり注意をはらわれていたら、私は今よりもっとしっかり意見が言えるかもしれません。みなさん、私のような子どもたちは少ないと思いますか。子どもだけでなく、多くの人たちが注意をはらわれるのを待っています。みんなに注意をはらってあげましょう。


リシタンの弁論大会でのスピーチの一つです。この学生は、1点差でフェルガナ代表の座を逃し、タシケントでスピーチできませんでした。しかし作文はなかなかよく(自分で書いてきました)、もしウズベキスタン大会に行ければ、入賞もねらえたのではないかと思います。
 彼女のオリジナルも添えます。


<私にちゅういしてください>
 かぞくは子どもを人げんになるが大事な学校です。子どもの将来はこの家族でくれるきょうじゅとちゅういにかかっています。子どものむずかしいことでりょうしんがちゅういしたとき、この子どもは難しいをやるのがやさしくなります。りょうしんが子どもにちゅういしたとき、子どもは自分にかくしんがあるにしまいます。りょうしんは自分の有名にふちゅういで子どもの有名をなくなります。
 私の友達はそんなことで生きています。私の友達はいつも絵書たことで会います。友達はけいざい学部で勉強しています。私は友達がやった絵を見ませんでした。それで私はおもしろいで友達に、
「書た絵はどこにありますか。ちょっと見てもいいですか」と言っていました。
 友達は、
「ああ、最後まで書きませんでした。絵を書くのはあまりおもしろくないですから、とちゅうでとめました」と言っていました。
 ある日は友達のかばんに本をさがした時、たくさん絵をみつかりました。よく見てつてきな絵ですねとびっくりしました。そんな絵を友達が書きました。それから友達が来た時、「あなたが書た絵を見ました」と言っていました。
 友達は初めにかおがあかくなりました。はずかしくなりました。それから私をしかられました。私は「ほんとうにきれい絵ですね」と言っていました。でも友達はしんじりませんでした。「あなたは私の友達です。だから私におせいじしています」と言っていました。そのあとで私はそんな絵を書いてみんなに見せていませんかとしつもんしました。友達はよく考えたあとで、言うがきめました。
「子どもの時は父は私が書た絵を見て私をしかられました。私は川の中に木を書きました。父は「どうして川の中に木がありますか。川の中で木ははえりませんね。よくあたまを使ってください。絵を書くよりすう学をしてください」と言っていました。じつはしょうらいがかになりたいでした。これは私の有名でした。でもこれはじんせいですね。これから私は絵を書きませんでした。父が言ったけいざい学部に入りました。でもひまな時絵を書くのをはじめました。絵を書た時私は休みます。私はとても書くのが好きです」と言っていました。
 そんなことをかいて、私はかんがえました。はじめ子どもの時、絵を書たとき、おとうさんは、
「ああ、きれいですね。自分でやりましたか。これからも書いて下さい。それからいっしょにまちがうをみつけますよ。いいですか。ここですこしまちがうがありますね。なおしてください。これからそんなしないでください。私のがか」とほめましたとき、今どうするでしょうね。友達にとっておもしろくないけいざいならうのせきに絵をかくのほうがよくかもしれません。
 もしおとうさんがちゅういしたとき、今子どもは有名ながかになるかもしれません。ゆめをとるかもしれません。
 今ウズベクかぞくの大たいりょうは子どもたちのことばをあまりちゅういしません。どんないけんをいうときょうみをもちません。もしはなしのなかでいけんを言ったとき、
「あなたはこどもですよ。ことばをさえぎりません」と言っています。
 もし子どもにとってむずかしいことに会ったとき、
「あなたも大きくなりましたよ。自分でかんがえてください」と言っています。
 ちさい時、私にもそんなことがありました。あるいけんをいたいとき、おやは私にちゅういしませんでした。私はちさくても私にちゅういするがほしかった。私に自分のせかいがありましたから。私にとって大きいもんだいは、りょうしんにとってちさいもんだいかんじりました(でした)。このことは私におもかったです。それそれ私はいけんを言わなくなりました。かぞくのなかしかではない、ともだちのなかにも言わなくなりました。友達に言ったときちゅういしませんとおもいました。私はよくべんきょうしましたが、自分のいけんを言たくなかった。私はいけんがただしいがかんじりましたけれども、言うがこわいでした。また人たちが不注意に会うかもしれませんから、こわいでした。ある日はきょうしつでじゅぎょうの中に私にもしつもんしました。私はことえました。みんなあげたこたえの中で私のいけんは一ばんえらいとえらべました。私はびっくりしてしんじりませんでした。私は日から日ふえりました。それから私はよくかんがえました。もし私ちさいときちゅういをもったとき、私は今よりつよいいけんをいえるかもしれません。みなさん、私よな人立ちがすくないとおもいますか。たくさん人たちは注意を待っています。みんなにちゅういをあげましょう。


「これは私の有名でした」? ああ、「夢」のことか。馬鹿な間違いだ。初歩的な誤りも多いぞ。下手だなあ。―― そう思いますか? いや、私はよく書けていると思いますよ。間違いはかなり多いが、言いたいことは全部はっきりわかります。構成はしっかりしている。書き加えたり削ったりする必要はなく、ただ文章の誤りを直してやるだけで、たちまち上掲の「完成稿」と変じる。骨格はできていて、足りないのはつまり時間。発達の時間が十分あれば、立派な作文になります。
動詞のアスペクトや活用形の誤り、受身と自動詞・他動詞、助詞や語彙的・文体的な部分のほかに、目を引くのは、長音が聞き分けられないために出てきた誤り。「夢」を「有名」と、ごていねいに漢字を使ってしまったので一際目立つけれど、長音による間違いの範疇です。ちなみにこの学生は、「フェルガナだより」9号で紹介した「学生の問題」を書いた子です。あれからこれへ、進歩の跡ははっきり見られます。


<楽しい恋人>
フェルガナにいられたのは、実質的に3週間。1週間はスピーチ練習につぶれ(だってほとんどの学生がスピーチするんだものね)、授業に当てられるのはそれが終わってから、スピーチ練習が代表だけに絞られてからの2週間です。あまりに短く、とてもまとまったことは教えてやれないので、あっさり舵を切りました。弁論大会のアトラクションに急遽参加することにしたのです。とても準備の時間がないから出られないと思っていたが、大学の国際部長は参加させたい、学生は参加したい。では、参加だ。
前2回と同様、ウズベク民謡を日本語に訳し、楽器(弦楽器ドゥトール、手太鼓ドイラ)の伴奏で歌い、踊るということにして、一日で歌を選び、一日でそれを訳し、短期決戦で準備しました。ウズベク語のわからない私が翻訳。これが学生たちにはいい練習になります。日本語でどういう意味か説明させる。われがちに、ああだこうだ日本語で発話します。授業ではなかなかあんな積極的な、餌を持ってきた親鳥に雛が顔中口にしてピイピイ鳴くような発話は望めません。これだけでも、参加することにしてよかったなと思いました。そう、今回何よりうれしかったのは、私のいたときはまだほとんど日本語でコミュニケーションできなかった学生たちと、まともに話ができたことですね。
だが、参加するまでの道は、モグラ叩きの連続でした。まず国際部長が、文化学部(民俗芸能学部と言ったほうがいいか)のほとんどプロの女子学生を踊り手として使えと言ってくる。/日本語を勉強していない者が参加するのはルール違反だと思い、断る。― 出発の週になって、踊り手の学生の両親がタシケントに行かせないと言い出す。/電話をかけて、了解を取り付ける。― 直前には、教授が当日の土曜日に試験をする、受けない者は落第だと学生に言い渡す。/面会して参加の許可を得る。ふう、モグラの楽園だね、まったく。
歌はこうです。「楽しい恋人」。


歌っておくれよ オモン・ヨール
帯をしめましょう オモン・ヨール
恋人が来たよ オモン・ヨール
楽しく踊ろう オモン・ヨール
ハイ・ヨーレイ、ヴァイ・ヨーレイ オモン・ヨール
楽しく踊ろう オモン・ヨール


フェルガナの娘は オモン・ヨール
黒い目をしている オモン・ヨール
楽しく踊れば オモン・ヨール
すらりと眉目よし オモン・ヨール
ハイ・ヨーレイ、ヴァイ・ヨーレイ オモン・ヨール
楽しく踊ろう オモン・ヨール


小川のほとりに オモン・ヨール
リラの花が咲く オモン・ヨール
となりの娘が オモン・ヨール
目配せしてるよ オモン・ヨール
ハイ・ヨーレイ、ヴァイ・ヨーレイ オモン・ヨール
楽しく踊ろう オモン・ヨール


フェルガナの道には オモン・ヨール
すずしい柳が オモン・ヨール
大好きなあの子の オモン・ヨール
頬にはほくろが オモン・ヨール
ハイ・ヨーレイ、ヴァイ・ヨーレイ オモン・ヨール
楽しく踊ろう オモン・ヨール


結局、教育法はモチベーションづけに尽きます。歌や踊りの練習も、それでモチベーションが上がるなら、授業よりずっといい。タシケントで発表する学生のスピーチ原稿を教材に使ってみたり、それを漢字の書き取りに使ったり、自分のスピーチに対する質問を宿題に出したり。弁論大会の立体学習を心がけました。大会翌日の日曜日には、みんなで動物園を見に行きました。みんな動物園は初めて。初級会話の発話練習にはもってこいだ。「先生、あれは日本語で何と言いますか」「あれはトカゲ」「トカゲ? ああ、『とかげさまで』」(笑)。日本では最近「寒がり」が多いようだけど、駄じゃれは外国語習得の一里塚だよ。
なお、ウズベキスタン弁論大会では、のりこ学級代表として出たフェルガナ大2年のムミノフ・アスロール君の「白いカラス」が5位入賞、中央アジア大会の出場権獲得。フェルガナ大代表のユルダシェワ・マスマさんの「コーカンドへようこそ」は選外でしたが、日本人会長にお褒めの言葉をもらいました。弁論大会・アトラクション参加は、対内的には上述のようにモチベーション向上が第一義。対外的には、フェルガナ元気だぞ、死んじゃいないぞとアピールできたかと思います。事件一つで殺されてなるものか。


<大工の弟子から始まった/マドヴァリエフ・ドニヨル>
自分の運命は自分の手で切りひらかなければなりません。私にはまだ大した経験はありませんが、努力なしに何ごとも実を結ばないということはわかっています。
私は小学生のころ、大工の弟子になりました。両親が反対しても、「将来役に立つから」と自分に言い聞かせて、その大工さんのうちに通いました。田舎では小学生が弟子になることは普通で、ほとんどの人は自分の子供を宗教の先生のうちに行かせます。弟子というのは、何も知らず、何でもやらされる人です。私が大工の仕事を習うと決めた理由は、両親が壊れた窓を直してもらうためにわざわざ大工さんを呼び出したことです。それを見て、自分で直すことができたらいいなと思いました。私の先生の大工さんは年をとった人なので、他の弟子もいっぱいいました。その大工さんは毎日私たちに笑い話を言ったり、いろんな質問をしたり、人生について教えてくれたりしました。例えば、「成功は階段だよ、エスカレーターじゃないよ」とか、「もしお金が話せるんなら、「さよなら」しか言えないだろうね」とか、「さっさと仕事しなさい、今日は昨日になるよ、明日には」など、とても楽しい日々でした。だけど、つらいこともありました。その大工さんの家は家族が多くて家も広かったので家庭内の仕事も言いつけられました。またその大工さんのうちは先輩−後輩関係があって新しく来た人は歳に関係なくお茶を入れたりとか、お客さんをむかえにいったりとかさせられたものです。毎日五回お祈りしたのは言うまでもなく、仕事は朝の5時から夜の9時まででした。別に、仕事が多かったからじゃなく、その大工さんが言ったとおり早起きは三文の得だったからです。私たちが作るものはたんす、ドア、窓、こたつなどで、そのほかはお客さんの注文したものを作りました。二年間こうやって大工の仕事を学んでから、その仕事を自分のうちでつづけました。田舎でナンを作るときよく使うもの、例えばめん棒とか穴あけ棒を自分で作って売り始めました。冬には、田舎の生活の命の綱であるこたつも作り始めました。ある日あるおばあさんに、「うちに来てこたつをなおしてくれないか」と言われ、そのおばあさんのうちへ行ったら、ドアも窓も閉まらないので、部屋がすごく寒かったし、それにこたつもこわれていましたから、おじいさんが死にそうになっていました。私はすぐこたつを直して、ドアと窓もちゃんと閉まるようにしました。それが私の大工としてやった一番良い仕事だったと思います。あのおじいさんとおばあさんは、どこかで私を見かけると、すぐお祈りを始めます。「神様、この人の命を長くしてください」と。そんな時私はこの世の中で生きている意味があるのを感じます。今でも自宅で大工仕事を自分でやっています。
中学生のころ、私たちの家族は父親の転勤で町にひっこしました。町で右も左もわからなかったあのころは、なにかをしたくてもできなくて、つまらなかったです。ある日小説を読んでいて、「料理ができない男は一生おいしい料理が食べられない」というところが出てきました。私はおいしいものが大好きですから、それがきっかけで、料理の先生をさがしはじめました。それでレストランにはいって、料理の先生の弟子になりました。ほとんど遊ばずに仕事をしていて、自分も充実感があったし、親もうれしかったようです。レストランというところはいろんな人々が来るちゃんとした雰囲気のところだから、しっかりしなくてはいけませんでした。ですから、そこで習ったことはただ料理だけじゃなく、コミュニケーションとか商売のしかたなども学びました。
親にとって心配だったのは、私の勉強でした。私もそのころ勉強したくて、レストランの仕事をやめて田舎に帰ってきました。その後、私は2年間の準備で大学に合格しました。今、私は4年生です。もうすぐ卒業します。あのとき大工の弟子として学んだことと、レストランで学んだことが、今でも役に立っていると思います。「若い時の苦労は買ってでもしろ」という日本のことわざがあります。そのとおりだと思います。大事なのは種をまくことです。まかぬ種は生えませんから。


これは、フェルガナ州バグダッド生まれで、タシケント経済大に学んでいる学生のスピーチです。書かれているのはフェルガナ地方の生活なので、紹介します。
学校に行かないで、徒弟をする。今のわれわれは驚きます。学校教育だけが「教育」ではない、そうなったのは近代以後のことで、学校制度によらずとも(あるいはよらないほうが?)まっとうな人間は育つのだと思います。医者の息子が大工や料理人の徒弟をし、そのあと2年間の受験準備でウズベキスタンでは名門である大学に合格する。「フェルガナだより」の読者は、ハタム君の弟子の話を思い出すでしょう。彼も学部長の息子だし、当の父親の学部長も、子供の頃大工の徒弟でしたね。学校が教育の「独占資本」になっている現在の状況に疑問を投げかける、非常に面白いスピーチでした。イリイチの「脱学校の社会」を思い浮かべました。ここの場合は、「脱」というより「以前」の感じだけど。
なお、彼の母親は仕立て屋で、彼が徒弟をしていた大工の親方の娘は、そのころ彼の母のもとで見習いをしていたそうです。相互互恵。いいなあ、ウズベキスタン。われわれのほうがここに学ばなきゃいけないよ。
このスピーチ、やはり1点差で入賞を逃しています。審査員諸賢、ウズベキスタンを指導し発展させるドグマにとらわれていないかなあ。発音もよかったし、緩急強弱もよくついていた(声はやや小さく、速かった。これは「私に注意を払って」の子も同じ)。1位か2位だと思うけど、私的には。私に好かれるスピーチは入賞しないという伝統は、今回も守られてしまいましたね。


<システム>
帰国してからわずか1年半だというのに、ずいぶん変わったものだ。大使や日本センター所長、JICA所長などが交代しただけでなく、日本人教師の顔ぶれも、初めて見る人が多かった。海外の日本人社会は三年ひと昔だなと実感しました。
だが、サマルカンドタシケント経済大については、それをしのぐ一年半ひと昔。あのころトップの東洋学大に激しく迫っていたサマルカンド外大、その「生ける伝説」だった山本氏が大学を去り、康和学院という学校を作ったが、病気で今は帰国中。サマルカンド外大では日本人の日本語教師がゼロになったと聞きました。経済大も、当時タシケントでナンバー2の座を確保し、留学生も続々送り出していたのに、一気にしぼんでしまっていた。4年生には日本語の授業ができないのだそうです。栄枯盛衰世の習いとはいえ、目盛りがあんまり早送りではないか?
個人のイニシアティブの限界を見ました。結局サマルカンドも経済大も、異常な熱意を持つ個人がいたり、日本人ばかりのスタッフのチームワークがよかったりして、急速に伸びたのです。しかし、その日本人がいなくなり、後任に人を得られなければ、これまた急激に沈んでいってしまう。体制がしっかりしている東洋学大が堅調で、そして日本センターが多くの学習者を集めていました。
継続性を保証するのは、システムです。これを痛感しました。「人治主義」でなく、「法治主義」。どうせ2年かそこらでどんどん代わってしまう日本人教師がすべてを担う体制では、人が代わるたびに動揺する。これではだめだ。フェルガナなども、アンディジャンで事件が起きて、日本人の、つまり教師のいない1年を抱えてしまったし。現地人教師を育成し、それが講座運営の中心になって、日本人は補助するだけという体制を早く作らねばなりません。教科書教材、カリキュラムを確定し、進度や試験、行事日程を組み込んだ年間スケジュールを作り、誰が教えても一定のレベルに達するように。システムにはシステムで弊害があります。気をつけないと、すぐに硬直化し自己目的化する習性をもっている。だが、まずは確立させるほうが先です。
今回のフェルガナ訪問の目的には、5・6月、そして9月以降の教師招聘の道筋をつけることもありました。それもできた。あと1年頑張れば、卒業生が出ます。卒業生が出たら、これを雇用して、逃げ足速い日本人がいなくなっても、日本語教育を続けることができます。1年を棒に振ってしまったフェルガナ大では、それ以前にやらねばならぬことが多いけれど、将来のあるべき姿はしっかり見据えておかねばならぬと感じさせられたウズベキスタン日本語教育の風景でした。


民俗学を、ジャーナリズムでなく>
「平穏」を絵に描きたければ、早春のフェルガナなんかもってこいじゃないか? 去年ここから80キロばかりのアンディジャンで事件があって、今も外務省の「渡航の是非を検討せよ」との勧告が出ていて、等々の予備知識がなかったら、どこに「危険」の影があるのだろうと思ってしまう。そんなフェルガナでした。
もちろん、この地域で事件は起きてきたし、これからも起きます。それは起きますとも。問題や火種はあるんだものさ。
しかし。事件が起きるのはこの盆地だけじゃない。タシケントで起きるよ。首都なんだもの、標的だよ。でも、フェルガナには行っちゃいけない。タシケントには住んでいい。首都だから。これって、やっぱりダブルスタンダードでしょ。
仮に1、2年のうちにこの盆地のどこかで何かが起きるかもしれぬと認めたとしても、それでもなお、ここは本当に「危険」なのだろうかと問う必要はあると思います。テロのような事件や激情の爆発は、その場にいあわせていない限りは何でもない。本当に恐いのは、人心の荒廃が広範に広がること。その危険は今のところフェルガナには認められないし、ウズベキスタンでもそうです。単に事件との遭遇を恐れるなら、そんな珍しいことに出くわすより、交通事故に遭うほうが確率的にずっと上でしょう。
柳田国男は、文献資料に基づいて農民の歴史を記述すれば、それは飢饉と一揆の歴史になってしまう、史学によっては農民の生活はわからないと考えて、民俗学を興しました。事件に群がる歴史学者やジャーナリストの精神から訣別する、ということ。ひとりの農民の生活史の9割5分までを占めていたであろう平穏無事な、喜怒哀楽に織り成された生活の実相を見る。笑っている百姓の顔を見る、ということです。いつもいつも木の根を齧って、筵旗立てていたはずないじゃないか。私は断固として民俗学の味方です。
「安全対策マニュアル」にも、強い違和感を持っています。あれって、「義和団メンタリティ」の所産、「租界からの視線」じゃありませんか? 目の高さがそこに暮らす人々と同じなら、さほど危険なことはないというのが私の経験則なのですが。あのマニュアルは、目の位置が非常に高い人のためのものと思えてなりません。似てはいるが別なゲームのルールのような感じ。いたくない人たちのルール、とまで言っては暴言になりますが。
結論は、フェルガナは「危険地域」だけど、危険地域じゃない、ということか。宮本常一を手に、フェルガナへ行こう。ただし自己責任でね。


<役者の死>
知人のアパートの家主は俳優夫妻で、オペレッタ劇場に出ていました。オペレッタが好きなものだから、ナヴォイ劇場へ行くより頻繁に、場末の駅で降りて舞台を見に行ったものです。今回の再訪で、そのご主人が亡くなったと聞きました。60は越えていたが、まだそれほどの歳ではなかったのだが。皆が祝福する生誕の数だけ、年々死にゆく人の数もある。それがわかっていても、役者の死は、人に強い印象を与えずにはいません。華やかな光を浴び、舞台の上で陽気に愛嬌をふりまいていたその輝ける日が、記憶に深く刻まれているからでしょう。無常の二文字。冥福を祈りつつ、蕭然とします。
―― そんなこと、「ハムレット」にもう書かれていただろう。お定まりの、天地開闢以来無数に繰り返された感想だろう。その通り。われわれが考えるようなことは、すでに古人が説いている。こうして人は古典主義者になります。新しいぞ、新しいぞと金切り声をあげて書店にひしめく装い華美な本を避け、時の流れに堪えた書物を友としはじめる。
一方で、個体発生は系統発生を繰り返す。私たちの人生は、おのれの限りある身の丈をもって、世界を測ることの積み重ねだ。先人の発見を自分の発見でなぞる旅だ。オペレッタ役者の知人の死は、やはり心に響くのです。Traum ist Schaum、うわべは陽気で実ははかないあれらのメロディとともに。