タイムリミット

 「島根の近代化遺産一覧」(島根県教育委員会、2002)にリストアップされている益田市七尾町の旧若林医院の主だった若林明文(1903-78)は、温泉津の出身で、東京大学医学部を卒業し、医学博士号を取ったあと満洲に渡り、チチハル・北安・営口の満鉄病院に勤めた。
 チチハルの満鉄病院は今チチハル医学院付属三院となっている。2011年までは昔の2階建ての建物が問診部として残っていたことが旅行者の写真からわかるが、2018年にはもうなくなっていた。今は24階建ての円形ビルが聳え立っている。
 ハルビン駅前の旧満鉄病院も古い建物が消えていた。一等地を2階建て3階建ての、現代中国の基準から言えばちっぽけな建物が占めているのだから、新築は時代の必然だ。大きいものでもせいぜい4階か5階。取り壊されて巨大ビルを建てられてもしかたがない。今では8階とか10階建て以上がデフォルトだ。道幅も大拡張された。片側5車線、両側で10車線の上に、自転車路も広い歩道も取ってある。薄汚れて、改修かしからずんば倒壊かの岐路が近づいている古い建築物など、どんどん整理されるのは理の当然という話である。21世紀になってからの中国のすさまじい発展と、建築物の運命である経年劣化の進度を考えると、ちょうど今あたりがそれが交差するポイントとなっていると思しい。
 北安の旧満鉄病院は今は第四人民病院で、昔の建物が改修されて使われている。昔を懐かしむ人にはうれしいかもしれないが、住民にとってはうれしいことかどうか。それだけ発展が遅れているわけだから。あるいは、当時は「第一」だったはずの病院が「第四」となるまでにほかの新規の病院に追い越され、そこに安住のポジションを得ているということかもしれない。

 チチハルに今も残る日本人が建てた戦前戦中の建物といえば、まずかつて「北満随一」と言われた立派な駅舎(1936)。隣に戦後の新駅舎があり、今はそちらが使われているが、古びたとはいえおもしろみのない新駅舎に美しさでは断然勝るものの、大きさでは新駅舎に勝られる。駅前にある体育館(一部が遊泳館)も満鉄時代のものという。
 おそらく駅長とか高級駅員の社宅だったと思われる日式住宅が、駅の近く、鉄道関係者の住む区域にある。平屋や2階建ての個人商店個人住宅は市の中心部ではすっかり消え失せて、商店はビルの1階部分、住居は集合住宅になってしまっているから、このように一戸建ての個人住宅が駅前一等地にあるのは珍しく、築80年以上でも十分価値があるのだろうと想像する。その近くには、昔の武道館が図書館となって残っている。
 電報大楼(1936)。市の中心広場にあり、今は中国移動が入っている。軍艦のようなシルエットで、昔は目立ったかもしれないが、今はビルの中に埋もれ、タイルもところどころ剥げ落ち、壁や屋根に草が生えている。もはや命運は風前の灯と見えるが、敷地面積が狭いので、再開発して高いビルを建てるには適していないため、案外しぶとく残るかもしれず、そうしている間に古い建物を評価する動きが出て、改修保存になればいいとひそかに願う。
 かつて巨大な忠霊塔が立っていたところには、戦後巨大な毛沢東像を前にした宮殿のごとき工人文化宮が建つ。その前方の片隅に、むかし手水舎(洗手亭)だったものが残されている。歴史(国恥)を忘れないためにそれだけ取り壊さなかったのだ。今では犬や人の立小便の場である。
 日本人が建てたもの以外では、まず清真寺で、これは古い。1684年の創建である。チチハル城の建設が1691年だからそれより古い。1700年に改建、以後1852年、1893-94年、1897年、1911年と拡張重修を経て、1924年に現在の姿になったという。中国式の寺廟風モスクとして代表的なもののひとつに挙げられるだろう。
 それから、聖彌勒爾大教堂(1931)。高さ43メートルの塔は、当時「市内のどこからでも見える」と言われていて、昔の写真を見ればたしかにそうなのだが、今では正面からでなければ見えない。周り中が塔より高いビルばかりだから。
 五教道徳院(1933)。儒仏道の三教にキリスト教イスラム教を合わせたものだそうだが、実質道教施設である。
 督軍署。もと1908年ごろ建てられたようだが、改修というより復元ではあるまいか?
 龍沙公園内の万巻閣(1930)と関帝廟(1739年創建、1818年重修、1980年修繕増築)。
 それ以外はすべて21世紀の建物だと言ったら、もちろん過言ではあるが、大きな過言ではない。90年代以後の建物だと言えば、過言の幅はぐっと縮まる。戦後の改革開放までの建物も少ないのだが、北小路健・渡部まなぶ「満洲の旅1982チチハル・チャムス・牡丹江」(国書刊行会、1982)という写真集を見れば、そこに写された街は平屋や2階建て3階建てばかりと言っていいくらいで、その当時まではほとんど満州国時代の延長だったように思える。だが、その面影は今やまったく消えた。
 郊外の昂昂溪はかつての東清鉄道の斉斉哈爾駅だったところで、かわいらしい駅舎や旧鉄道クラブの建物のほかに、ロシア人鉄道関係者の住んでいたロシア式住宅が多く残っており、いくつかはきれいに改修されている。この駅のブリッジは日本時代に作られたそうだ。日式住宅というのも残っているが、ロシア式住宅に比べると素っ気ない単純な造りだ。
 しかし、チチハル市の中核部分にはロシア建築はない。この昂昂溪が東清鉄道大切当時は「チチハル」と呼ばれていたのだが、ここから本来のチチハルへは24キロも離れていて、そこは旧中国・満州の都市でありつづけ、そこに中国人および日本人が近代建築を建てていったわけである。

 チチハル満鉄病院のごとくごく最近取り壊されたものも多い。ハルビンの日本総領事館など、ガイドブックには載っているが、行ってみるとなかった。長春の旧満州国文教部、興農部の建物も消えていた。あとには大きな新築のビルが建っている。
ち なみに、残っている満州国の政府官庁の建物はほぼ全部が吉林大学の所管になっている。ここの学長になれば満州国皇帝の気分が味わえるか?
 満洲の神社はすべて消えただろう。侵略の象徴だから消えてかまわない。ひとつぐらい残してもいいように思うが、そうもいくまい。ハルビン工業大学博物館に中国人学生が描いた神社の設計図があった。中国人も神社を設計していたという意外な事実だけで満足すべきかもしれない。
 ただ、寺では大連に本願寺の建物が残っている。長春にもあった。
 そろそろ大改修か撤去かの「タイムリミット」が近づいている20世紀初頭の建物は、「選択と集中」の対象となるわけだ。残す価値があると認められたら改修、でなければ取り壊し。ハルビンに中華巴洛克(バロック)と呼ばれる中国人による特徴的な西洋建築が多くあったが、まるでテーマパークのようにきれいに改修された建物がその名も「中華巴洛克」という一画に集中的に残されているほかは、その外側の建物が荒れ果てて崩壊に任されているのが露骨にその事情を物語っている。

 だが、日本の近代化遺産にも修復の必要なものがいくつもある。他国の21世紀をあれこれ言うより、自国の戦後を考えたほうがいいかもしれない。タイムリミットはどこでも迫っている。