サハリン消息/マークシート

12月4日(日)、日本語能力試験の模擬試験を、本試験と同じ日に、本試験と同じ形式でやりました。本試験と同じということは、四者択一の設問の答えをマークシート方式の解答用紙に記入する、ということです。マークシートなんてここの学生は知らないから、こうするんだよ、丸をきちんと塗りつぶすんだよ、答え以外の個所に書き込んだら採点されないよ(実際答え以外の三つにいらぬ×印をつけて、0点になってしまった学生がいました)、鉛筆と消しゴムを必ず持ってきなさい等々、懇切丁寧に教えます。そして当日は、それでも鉛筆や消しゴムを忘れてしまう学生(いますとも、もちろん)のために、貸与用の鉛筆・消しゴムを試験監督に持たせます。
そして、思います。マークシートが導入されたのは、私が高校生の頃だったなあ。そのときは、心底憤ったものです。正解を含む四つの選択肢から選ばせるというのがまず人をバカにしていて気に入らないし、例のように塗りつぶさないと採点しないというのには、ほとんど激怒しました。何をふざけたことを。どう答えようが正解は正解だろうが。なぜ形式に内容のほうが従うんだ、機械の都合のいい形式に人間がやり方を合わせて奉仕せねばならんのだ。―― 今でも正当な怒りだと思います。マークシートを無視して、答えを数字で書き込んでやろうかと思いましたが、満点取るような生徒がすればカッコいいかもしれないが、間違いだらけの答案でそんなことして、職員室で笑われるのもいやだったから、結局大勢に従ってしまいました。
あのとき激発したその自分が、今学生にマークシートの指導をしている。皺や白髪はこうして出来ます。
人間を機械にする、ということ。日本語能力試験の実施は、間違いなく学生たちのためになるから、こちらもその実現のために一生懸命(マークシートもものともせず)努力します。テストというのも一つの文化です。東京でやるのと同じやり方でここでもやるんだよと、学生にも試験監督をするロシア人教師にも言い聞かせます。初めてこんな試験を受ける学生には、まぎれもない「異文化体験」だったでしょう。そしてこの「日本文化」の中には、「人間を機械にする」という要素が抜きがたい一部を成していることに、決まり悪さを覚えます。
けれども、また考えは巡ります。人間が機械になることが笑いを引き起こすというベルグソンの洞察にもかかわらず、ヨーロッパ文化も人間を機械にすることに熱心ではないか? 同時に同様に動く(シンクロナイズド)ものを美しいと見ていないか? あのレーニン廟の前(今は永遠の火の前)の衛兵交代なんかはまさに好例だし、軍隊のパレードもそうです。北朝鮮マスゲームなんて最たるものだ。人間の(あるいは文明人の)そういう傾きは、どこから来るのだろう。権力の嗜好には関係しているだろうが、話はそう単純ではなく、われわれもたしかにそれを美しいと感じ、それに加わっている者は誇りと充実感を持っているに違いないのです。機械になりたがるわれわれの中のこの不思議な欲求。それは文明の何か一部なのか?
マークシートの思い出」だったはずが、少々遠くまで連れ出されてしまいました。でも、射程はもっと長いでしょう。たぶん。