サハリン消息/教材申請

国際交流基金へのさまざまな助成申請は、年中行事のようなもの。今年も教材申請のために目録を繰ります。
申請書に書き込みながら、つと立ち止まって(立ち止まるのが好きなのです)、しばし考えます。なんと多くの書物や道具に取り囲まれて仕事をせねばならぬことか。こんな武装が本当に必要なのか?
学生には、「正しさへの希求」があります。正しい日本語を言いたい、書きたいと願っている。それは意識的なものではなく、本能的なものではないかと思います。正しくないといい成績がもらえず、いい勤め口が見つからないからとか、間違えるとバイト料が下がるからとかいった打算的な意味では全くなくて(もちろんそれらの要素もないわけではないでしょうが)、正しく話すことを人間本来の性向として望んでいるのです。これには感じ入ってしまいます。それはおそらく正誤にとどまらず、正邪の観念をも含みます。宗教的でない人間はいないとは折々感じるが、倫理的でない人間もまたいないだろうと思います。哲学者が何と言っているか知らないが、倫理観は確かに生得です。子どもはみんな正義の味方、学生はみんな正しい日本語の味方です。
ならば。教授法教育法の書物の山を尻目に、教えるというのは本当はひどく簡単なことではないだろうか。彼らの正しさへの希求に正しく応じるだけでよいのではないか。彼らはわかろうとしているのだから、火花が散るようにパチンとわかるよう仕向けるのは、ほんの指の一振りでいいのではないか。
そうなんだろう、と思います。だが、それができないのだ。わかりたい気持とわからせたい思いの間の大きな溝、それに一瞬にして橋を架ける達人もどこかにはいるのだろうし、自分でもそれができる瞬間がないわけではないのだが、大きな裂け目は開いたままで、それを本や道具でせっせと埋めようとしている、というのが高みから見た眺めなのでしょう。
至らぬ私は申請書の欄を埋めてゆく。どこか遠くに、あるいは紙一枚を隔てた隣にある、すべてを是に変える素晴らしい世界を感じながら。そこにたどりつけぬことをもまた意識しながら。