100段階評価

まるきりイメージのわかない国というのもあるけれど、長く外国と関わっていれば、たいていの国についてあるイメージをいだいているものだ。しかし実際にその国に住んでみると、そのイメージを裏切られることはままあり(いい意味でも悪い意味でも)、それが外国へ行くことの魅力の大きな部分をなしている。トルコについてもしかり。いろいろイメージと違うことはあったが、最大の驚きはやはりこれだろう。トルコ人がこんなに試験が好きな人々だとは思わなかった。年中試験をしているよ、この国。日本人は試験が大好きで、さすがにそのレベルには達していないけれど、これだけ好きなら十分だ。
大学内の宿舎に住んでいたので、メールチェックをするために土日も大学へ行っていたのだが、月に1度か2度は試験で校舎が使われていた。試験があると、駐車場や路上が車でうまっているのですぐわかる。そして、おじさんおばさんがあたりをうろうろしている。受験者の両親である。小さい子どもがいっしょのことも多い。弟妹である。家族総出なのだ。気候のいいときは、芝生にすわりこんでいる(もっとも、芝生に学生でない年配者たち、どう見ても大学のキャンパスに不似合いな人たちが車座になっているのは、試験のあるときに限らない。大学病院の周囲は年中そうだから)。顔を見ると楽しそうではないので、ピクニックでないことは明らかだが(それに大学だし)、じゃあ何なんだろうと、事情がわかるまでは不審に思っていた。でもあの人たち、息子娘の試験が終わるまで何をしているのだろう? 学生に聞いたら、笑いながら「お祈りしてます」と言っていた。実際にそうしているのを見たことはないけれど、そんなことをしそうな雰囲気はひしひしと感じる。
入試でないほかの試験のときも父兄同伴のことはあるが、何と言っても大学入試のときの混雑度はすごい。トルコの入試は、国が行なう統一試験ひとつで決まる。受験生は全員それを受ける。志望校志望学科を届け(10も20も書けるらしい)、その試験の点数で振り分けされるという。合理的と言えばきわめて合理的だが、ちょっと驚きのシステムである。
入学試験の参考書や問題集はもちろんだが、就職に関わるKPDSとかKPSSなどという試験もあって、その参考書問題集も本屋に山積みになっている。へえ、そんな国だったの?塾も山ほどある。学生はたいてい高校生のとき塾に通っていて、学校は別だけど塾が同じだったので親しい友だちだ、なんていうのも多い。ある学生は、休暇でうちに帰る前に別の町に1週間いたというので、親戚か友だちのところにでもいたのかと思ったら、昔の塾の先生のうちに泊まっていた。それほど塾は高校生活の一部になってしまっているらしい。


だがまあ入試は、その結果の影響はこうむっているけれど、われわれには直接関係はない。大学の雇われ教師がトルコ人の試験好きを思い知らされるのは、中間試験の存在だ。中間試験って、あなた、大学ですよ、高校じゃないんだから。と、赴任した日本人教師はみな言ったに違いないが、いくら言おうと、それはある。いや、あったっていいんです。そういうものか、というだけの話。それが効果的に組み込まれていれば。だが、どうも私の経験したところでは、そうではない。
試験は学生の力を上げるために非常に有効なツールで、だからこそ弊害をかかえつつも盛んに行なわれているわけだが、有効性を保障するにはフィードバック(そのもっとも単純な形は答え合わせ)が適切になされていなければならない。だが大学の定期試験の場合、それができないのだ。答案を学部に提出しなければならないのである。提出する前にちゃっちゃっと答え合わせをするぐらいならできるが、それ以上のことはできない。作文などは訂正したものをうちで書き直させたいのだが、答案を学生に渡してはいけないと言われる。紛失する危険があるので。だが、試験の作文は学生が限られた時間内で必死に書いたものだから、宿題の作文よりずっと力も入っているし、彼らの現在の力のほどを正確に映し出してもいる。教師のほうも宿題より真剣に評価し赤ペンを入れているので(3日も4日もかけて)、結果として非常に有意義な教材となっている。それが使えない。作文はそもそも個別指導の必要で、授業でみんなでやるのでは足りないものだから、試験の答案はぜひ有効に使いたい生きた(切れば血の出る)「教材」なのだが、使えない。ただ採点の手間ヒマのみ一方的に供出させられる。答案という最高の実践的な「教材」を、活用できないばかりか、保管庫という名のゴミ置き場に差し出さなければねらない。つまり、やりっぱなし。
他の大きな問題は、誰が落第したかわからないのだ。それはコンピューターが判定する。教師は試験の採点をするのだが、それをコンピューターに打ち込むと、コンピューターが優良可の判定を下す。平均点などを勘案するのだろう。教師が合否を決めるのだと、試験後学生が泣きついてきて、それがわずらわしい。それがないのはいいけれど、自分の学生の成績を自分で把握できないのは困る。
機械的に何点以上は合格、というふうになっていないらしいのだが、実際の合否状況や学生の話を聞くと(彼らはこのことについて切実で真剣であるので、教師より確かな情報をもっている)、機械的な線引きがあるようにも思える。同僚教師に聞いても、そのあたりのはっきりしたことがわからない。年によってしばしば方法が変わっているようだ。)
こんなことがあった。ある学年の期末試験の結果が非常に悪く、平均が48点だった。中間で80点をとったまずまずできる学生も、期末は43点だった。しかし、平均点がこうだし、中間はいい点だったのだから、まあ大丈夫だろうと思っていたら、落第した。彼女だけでなく、クラスのほぼ半数が落第だった。平均が60だとしたら55で落第ということだから、それはありえないはず。やはり機械的な合否決定線はあるのだ。あるなら教えておいてくれよ、クラスの半数も落としたくないよ、という苦情のほかに、じゃあ中間試験の80点はどうなの?という疑問もわく。これは考慮されないの? 中間より期末が重視されるのはわかるが、これは中間試験の軽視というより無視じゃないか。では何で中間試験をしているのだろう。授業の時間を1週間削っておいて、「教材」としての活用もできない。中間試験の存在意義には大いに疑問がある。単なるムチ? それともトルコ人の試験好きの表われ? 疑問渦巻く日本人教師の脳内である。


もうひとつ、日本人教師にのしかかる問題は、100点満点の採点である。日本人にはよく会話や作文が割り当てられる。まあそうなるのはわかるけれど、こういう科目の試験で100分の1単位で点を出そうとしてごらんなさい。たいへんです。5段階や10段階の評価なら的確にできる自信があるが(境目のところでは迷うけど。たとえば7と8の、4と3のどちらにするかという間の部分では)、「100段階評価」なんかできないよ。
会話という科目であるから、口答試験が基本となる。口答試験で100段階評価って、あなた。だが、そういう決まりならしかたがない。複数の設問をし、それぞれを10段階で評価して合計すると、ひと桁まであるそれらしい数字が出る。こういう試験だと、ひとりずつ応対するわけだから、ひとつの問題セットを全員に問うというわけにはいかない。問題セット自体も何種類も用意して、学生にくじびきで選ばせることになる。つまり複数の設問を複数個準備しなければならない。ちょっと考えてみてもわかるとおり、これ、けっこうたいへんです。その作業を、期末だけでなく中間も含めて年に4回もやれとは。だから中間は筆記試験にしましたよ。
設問は簡単なロールプレイにするのがいいのだが、しかし短時間ですわって対面で行なうというシチュエーションだと、そういくつも設定を考えつかない。それに、3・4年生はそれでいいが、まだ初級段階の1・2年生、特に1年生には無理だ。だから、会話の試験と言い条、初級では文法の口頭試問になってしまう。さらに、学生の数である。1クラス30人から35人ぐらい、1・2年生の試験には前年落とした上級生も受けに来るから、40人50人になってしまうこともある。ひとり5分でこなしていったとしても、まず3時間、へたすると4時間以上もかかってしまう。それを年4回というのは過剰な負担だ。


作文の試験も困る。試験自体は、テーマを決めて制限時間内に書かせるだけだから、むずかしくない。その点、会話の試験と逆である。問題は採点のほうなのだ。作文の100段階評価って、あなたならどうします?
私がとった採点法は、まず基準点を設定し、行数がクラス平均より多ければ、1行につき0.5点、使った漢字1字(異なり字数)当たり0.5点を加点する。長ければ長いほど、漢字を使えば使うほどまちがいも増えるのだから、その分加点してやらなければならない。まちがいは、文字・語彙・文法それぞれ1つにつき1点を減点する。いい表現・いい構成・いい考えには加点をする。減点が客観的であるのに対し、この加点は主観的になってしまうが、しかたがない。
これでやってみると、この学生はこのくらいだろうと平常思っているのに見合うそれらしい数字が出てきて、かつ年4回の試験でだいたい同じような点を取っており、ばらつきが少ない。かなり信頼性の高いものだと思う。窮してけっこう通じたかも。
学生はみんな試験の点を上げたくて必死だから、それがこちらのつけめである。定着させたい項目の減点を大きくすると宣言すればいいのだ。たとえば原稿用紙の使い方。段落の始めの1字空け、行頭に「。」「、」を書かないという点や、必ず複数の段落に分けて書けということなどを徹底させたいと思ったら、これらの間違いはマイナス5点とすると言っておく。するとたいてい直る(いくら減点されようといっかな直らない猛者も一定数かならずいるが。彼らのほうがこちらの安考えより上手(うわて)ということ。そして「上手な人々」はいつでもどこでも多いのですねえ)。


とにかく、トルコの中央集権管理主義には驚いた。ドイツやソ連、わが日本なら驚かないが、トルコにそれは予期していなかった。今も、町のトルコ人を見ている分にはそんなものは全然感じないけれど、一面としてはそれもあるということだ。誰かが言っていた、「トルコ人はいつも優等生だ」という発言を思い出す。イスラム世界帝国をよしとすれば模範的なイスラム世界帝国を、世俗主義国民国家をよしとすれば模範的な世俗主義国民国家を作りあげる。そして、いま問題のこの方面でも、トルコはしっかり「優等生」になっているようだ。この分野ではその必要ないんだけども。「優等生」と「トルコ人」はイメージ的にちょっと結びつきにくいのだが、事実を見ればたしかにそう言える。いや、こういうのは来てみて経験しないとわかりませんね。その意味ではいい収穫であったけど、でも中間はいらないね。