東欧の降誕祭劇

 「元日から一月六日の主顕節にかけてのあいだのことである。
 当年十四歳の少年クラバートは、おなじヴェンド人のふたりの少年といっしょに門付けをして歩いていた。ザクセン選帝侯国の君主である選帝侯殿下は国内で物乞いをしたり浮浪生活をしたりすることを法律で禁じていたのであるが、それにもかかわらず――さいわいにも、裁判官やほかの役人たちが目こぼししてくれることが多くて――この三人組の少年たちは、ホイエルスヴェルダの近郊を、東方の三博士のかっこうをして村から村へと歩きまわっていたのだ。
 三人の帽子のまわりにつけた麦わらの環が、三博士の冠というわけであった。そして三人のうち、マウケンドルフ村出身の、陽気なちびのローボシュが、ムーア人の博士の役を演じ、毎朝、からだにかまどのすすをたっぷりぬっていた。ローボシュは、クラバートが棒に釘でつけてくれたベツレヘムの星をほこらしげにかざして、一行の先頭に立っていた。
 一行は農家の屋敷を訪れると、ローボシュをまん中にして「たたえよ、ダビデのむすこを!」を歌った。クラバートは、ちょうど声変わりのときだったので、ただだまって口を動かしているだけであった。そのかわり、ほかのふたりの博士がいっそう大きな声で歌ったので、それでうまく帳消しになった。
 農家では、新年のために豚を殺していて、東方の三博士にソーセージやベーコンをたっぷり献上してくれるうちが多かった。また、りんごや木の実や干しすもも、ときには蜂蜜やパンやラードでいためた菓子、それにあんず入りの菓子や星の形をしたにっけい入りの菓子などをくれるところもあった」。

 これは、東ドイツ・ラウジッツ地方を舞台にしたプロイスラーの小説「クラバート」 (1971)(中村浩三訳、偕成社、1980、p.10f.)の冒頭の場面である。小説ではあるけれど、降誕祭劇(この場合は星の歌唱)のイメージを得るのによいだろう。

<降誕祭劇のひとつの例>
 「降誕祭劇」というのは、神の子イエスの降誕をめぐるエピソードを芝居仕立てにし、待降節(降誕祭前の四週間)から公顕節(一月六日)までの間、村の家々を訪ね歩いて農家の居間で演じてまわるものだ。東欧ではカトリック圏を中心に、今も行なわれている冬の習俗である。社会主義時代にも絶えることなく、体制転換後はむしろ盛んになってきた。
 どのような筋立てか、ひとつ短いものを見てみよう。西ハンガリーの羊飼い劇である。

天使(ノックして入ってくる)「ベトレヘム劇を演じてもよろしきや」
家の者「よいとも!」
天使「イエス・キリストは讃えられてあれ!

 (歌)夜空より 天使の声
    羊飼いよ
    ベトレヘムへ 急ぎゆき
    見よや 見よや

    神の御子 生まれけり
    かいば桶に
    そののちは なりたまえ
    救い主に

    かたわらに 母親の
    マリア マリア
    馬小屋に やすらえる
    御子よ 御子よ

  一番目の羊飼い、入ってこい!」
羊飼い1「行かないよ!」
天使「入ってこい、でないと出ていくぞ!」
羊飼い1「そんなら入ろうか。(入る)
    こんばんは、こんばんは、長い道を旅してきたので疲れてしまった」
天使「二番目の羊飼い、入ってこい!」
羊飼い2「行かないよ!」
天使「入ってこい、でないと出ていくぞ!」
羊飼い2「そんなら入ろうか。(入る)
    白樺の皮を靴にして、天使の翼をズボンにして、山々を登り歩いた。
    でもどこにも宿が見つからなくて、やってきました。凍えた両手を暖めに」
天使「爺さん、入ってこい!」
老羊飼い「行かんぞ!」
天使「入ってこい、でないと出ていくぞ!」
老羊飼い「そんなら入ろうか。扉の把手が見つからん、持っていったのか?」
天使「何で持っていくものか。そら、もっと隅のほうだ」
老羊飼い「炭の上だと?」
天使「しかたがないな、開けてやるよ」
老羊飼い(入る)「やれ、敷居にけつまずいてしもうたわい。ベーコンにけつまずいたな    らよかったのに。敷居はどうにもならんが、ベーコンは食ってしまえるからな。    ベーコンのような、ソーセージのような、よいお晩です。
    長い道を旅してきて疲れてしもうた。横になってもよろしいかの?」
    (三人の羊飼い、うつぶせに伏せる)
天使(鈴を鳴らして)「グローリア!」
羊飼い1「聞いたか、爺さん。天使の声がする」
老羊飼い「何の、丸焼きの鶏が竃の中でときをつくったのさ」
天使「グローリア!」
羊飼い1「何が鶏なものか、天使の声だ」
羊飼い2「それ、爺さんを起こしてやれ」
羊飼い1・2「爺さん、起きろよ」
老羊飼い「何じゃ?」
羊飼い1・2「起きろ起きろ、ベトレヘムの神の御子にごあいさつに行こう」
老羊飼い「どこへだと? デブレツェンのかわいい子にキスをしにか?」
羊飼い1・2「何を言ってるんだ、ベトレヘムへ、イエスにごあいさつに行くんだよ!」
 (羊飼いたち、杖を床についてリズムをとりながら、輪になって歩く)

皆(歌)「羊飼いたち 起きて急げよ
    ベトレヘムの町 破れうまやへと
    急げ 急げ 今夜のうちにたどりつけ」

羊飼いたち(ベトレヘムという教会の形の模型の前にひざまずく)
     「イエス・キリストは讃えられてあれ!」
天使「永遠に、アーメン」
羊飼いたち「イエスはいずこにましますか」
天使「この馬小屋の中におわします」
羊飼いたち「小さなイエスよ、ごきげんよう!」

皆(歌)「羊飼いたちは喜んで
    ベトレヘムのイエスのもとに急ぎ
    ごあいさつを申し上げる
    救いをもたらすみどりごに」

皆「クリスマスおめでとう!」
 (家の者からカネやベーコン、ソーセージ、果物、お菓子などをもらう)
皆(歌いながら退出)「主はよい人、よい人、恵みの家にあれ、
          家にあれ、家族みんなのもとにあれ」

 このように、「ベトレヘム」と呼ばれる教会の形をした模型を持ち歩き、歌がたくさん入ったテクストで演じる。「ベトレヘム」の中には聖母や幼児イエスの像が置いてある。鈴も欠かせぬ音響効果だ。居間や台所へ入って演じるため、必ず先触れの役の者が、その家の主人主婦に上演の許しをもとめる。そして次々に登場人物が呼び入れられる。年老いた羊飼いないし三番目の羊飼いは、決まってコミカルな役どころだ。終わったあと、今ではほとんど現金だが、昔は食べ物などの現物の贈り物をもらっていた。だからそれを入れるための袋や篭も持参する。

<どのように演じられるか>
 降誕祭劇ではないが、ニェムツォヴァーの「おばあさん」(1855)に、ボヘミアの村の聖ドロテア劇のことが描かれている。日本人がどうこう言うより、身近に、あるいは渦中にいた人の叙述を借りたほうがいいだろう。

 「そしてある日、プロシェク家では聖ドロテアの劇が演ぜられた。デイオクレチアヌス王の役はクドルナのヴァーツラフ、処女ドロテアの役は彼の妹リーダが演じたのだが、二人の廷臣、裁判官、首斬り役人とその二人の助手を演じたのはジェルノフあたりの少年たちだった。首斬り役人の助手たちと廷臣たちはもらったプレゼントを入れる袋をさげていた。・・・家の中へはいると、彼等は大きな声で鳴くイヌたちと歓声をあげる子どもたちに喜んで迎えられた。暖炉の側で彼等は衣裳をととのえ、袋を下に置いた。衣裳といっても簡単なもので、処女ドロテアは兄の靴をはき、スカートの上にマンチンカから借りた白いキャラコの上衣を着こみ、首にサンゴのネックレスをつけ、母親の白いネッカチーフをヴェール代りにし、その上に紙の王冠をかぶっていた。少年たちは服の上に白いワイシャツを着こみ、腰のあたりに多彩な布をまとい、白い帽子をかぶっていた。ディオクレチアヌスも王冠をかぶり、マントを羽織っていたが、それは母親が日曜につける花模様のエプロンだった。彼女が特に熱を入れて貸してくれたのである。
 少し体が暖まると、彼等は部屋の中央に立って芝居をしはじめた。子どもたちは毎年同じセリフを聞いたわけだが、この芝居はいつでもたいへん気に入った。異教徒であるディオクレチアヌス王がクリスチャンの処女ドロテアに斬首の刑を宣告すると、首斬り役人の助手たちは彼女の両脇を取って刑場に連れて行く。刑場では首斬り役人が剣を振り上げて待っていて、感情のこもった恐ろしい声で彼女に向って言う。「処女ドロテアよ。ひざまずけ。わが剣を恐れるな。悪びれず首をさしのべよ。汝の首を見事に刎ねてつかわすほどに!」
 処女ドロテアはひざまずき、うつむく。首斬り役人が王冠を彼女の頭上から斬り落とすと、助手たちが王冠を拾い上げる。それから一同が頭をさげる。処女ドロテアはふたたび王冠を頭にいただくと、部屋の隅のドアのところへ行って立つ。
 ・・・
 プロシェク家の子どもたちは、それから数日間劇中の名セリフを何度もくりかえして言ったり、ドロテアの劇を演じたりした」(栗栖継訳、岩波文庫、1971、p.270ff.)。
 毎年毎年見ているのに、筋も単純きわまるのに、子供たちが、いや大人たちも含め、いかにそれを楽しみにしているかがわかるだろう。それはちょうど、同じメルヘンを何度も繰り返し聞いて飽きないのと同じである。また役者たちの衣裳は、狭義の降誕祭劇でもそうだが、白が基調である。
 ルーマニアに住むハンガリー人作家シュテー・アンドラーシュ(ハンガリー人の名前は姓・名の順、以下同じ)は、少年時代の回想の中で、天使の役を演じたときのことを書いている。第二次大戦中のことだった。この村の彼らの演じた降誕祭劇は、ある民俗学者によってモノグラフにまとめられている(ファラゴー「プスタカマラーシュ村のベトレヘム役者と歌い手」、1947)。つまり外側からも記録されているのだが、演じる子供たちの内側をのぞかせてくれるものとして、彼の語りを聞こう。王様の衣裳は、いろいろなところから借り集めて工夫している。

 「私に与えられた役目はこうだった。
 「おまえは天使だ!」
 ヨナは神の与えた役割に抗ったが、私は喜んで受け入れた。ヨナに主は、パリパリしたブレッツェルも、罌粟の実パンも菓子も約束しなかったもの。村の教師は、にょっきり生えた翼のひらめいている私の肩を叩いた。
 ・・・
 「おまえはまるでこの世に生まれたんじゃないみたいだねえ!」母は天を仰ぎながらそう言った。私の住む場所と、ついでに楽園の一かけらをそこに捜しているみたいに。
 こんな大層な感想が表明されて、私は唾で湿した色紙で顔を赤く塗りながら、準備のうちに、のちに上演が与えてくれたよりもっと大きな喜びを感じた。
 私の翼は午後、村でただ一人の靴屋のところからもらってきた糊でしっかり付けられた。外には、あたかも測り知れない高みから、飛び立とうとする魂のために白い飛行場を広げてやろうとしているかのように、静かに雪が降っていた。
 ・・・
 灯ともし頃になるとすぐ、ベトレヘムの一隊は出発した。
 私たちは彩り豊かな一行で、職業をみてもいい絵模様をなしていた。王様、家来、天使、羊飼い、それから心配事の多い父親、つまり聖ヨセフ。
 私はふとピロシュカのことを思った。こっそりベトレヘムの箱の中をのぞいたとたん、ぼんやりした蝋燭の光の中に、聖母マリアの顔のうちから彼女の表情が輝きだして、私を心地よい胸騒ぎで満たした。
 私たちは進んだ。いつもは穏やかでものうげな村の犬が、狂ったように鳴きながらあとをついてきた。我々の行列が刺激するのだ。ヘロデ王――ルカーチ・ヨーシュカ――は、尊敬すべき牧師夫人のボロボロに使い古された青いガウンをだらりとぞびかせ、ガーシュパール王――口八丁のロージャ・ミクローシュ――は、旦那方のところの小間使いのスカートが気になって、いやらしげにニヤニヤ笑った。スカートを振り回して、我々に不作法な言葉を撒き散らした。「カティのいい匂いがするぜ!」と叫び、天使の一人をひっつかまえて雪の中でワルツを踊った。悩み多き父親――ウーイファルシ・ヨージェフ――は普通の白布を体に巻き、羊飼いは羊の毛皮の強い匂いをぷんぷんさせ、触れ役の司教帽は遠くまで照らした。私たちの衣裳は貧弱だった。両名の王の頭上には、紙で作ったきれいな王冠がきらめいていた。
 「出発だ!」 幼児殺しの王が命令を下した。「男爵のところへ急ごう、夕食の前に着けるように。大いなるお告げをもっていくんだ」
 大いなるお告げとは、イエスが生まれたということだ」(「母の約束する安らかな夢」、1974)。

 これらの劇を演じるのは、10−15才くらいの少年の場合が多い。村によってはもっと年上の青年たちが行なうこともあるし、劇が大がかりになれば、役者もそれだけ年長になっていくのだけども。子供はよき伝承者である。年が小さければ小さいほど、与えられた任務を重大に考えて、きわめて真面目に役割を果たそうとする。子供鉄道の大真面目な車掌や駅員がそうだ。そんなときの子供たちの顔はりりしい。雪をザクザク踏みしめて、家から家へ歩いていく。夜道をわたる鈴の音が美しい。
 迎え入れる家の人も、年が寄っていればいるほど、子供たちの芝居を心から楽しんでいる。世俗的な年齢から両方向へ離れ、演者も観衆も彼岸により近い人たちであるとき、詩的な世界の姿がよく見える。ふだんは一瞬のきらめきであるものが、もっと持続的に。からかいの言葉も揶揄も賛辞だ。銀紙を貼りつけた筒形の帽子が当を得て、色紙で飾り立てた奇妙な「ベトレヘム」が存在感を増す。台詞の中の「天」や「星」が粒だって輝く。降誕祭劇の魅力が沁みとおる。

<コリンダ>
 キリストの降誕や受難を題材にした芝居は、中世に盛んに行なわれた。農村の降誕祭劇の起こりは、近世の学校劇、地方のラテン語学校で学生たちがラテン語で演じていた劇にさぐることができる。十七・八世紀ごろ、それがその土地の言葉に移されて、周囲の村々に広まっていったのであろう。上層の文化が下層・農民庶民層に受容されて広がった、いわゆる沈降文化財(gesunkenes Kulturgut)の典型的な例である。
 だが何にもせよ、ただやみくもに受容されるわけではない。受容にいたる理由もあれば回路もある。そして受け入れられれば民衆のドラマトゥルギーにしたがって改編がほどこされ、変容もするわけだ。
 クリスマスをはさむ時期、降誕祭から大晦日をへて公顕節までのいわゆる十二夜待降節の間には、さまざまな夜の行進が行なわれる。騒々しい音を立てるもの、山羊や熊などの動物に扮したり、顔を黒く塗りボロを着たり女装したりした仮面仮装の者どもの群行など。これらは若い男たちの習俗だ。
 そのほかに、特に降誕祭の前夜、しかし大晦日にも公顕節前夜にも、クリスマスや新年の歌をうたって近隣の家々をめぐる習わしがある。ルーマニアでコリンダ、スラヴ諸国でコレダ、コリャーダといわれるものがそれだ。ゴーコリ(「降誕祭の前夜」、1832)の説明を借りると、「われわれの地方で「コリャダを流す」というのは、キリスト降誕祭の前夜、コリャートカと呼ばれる歌を窓の下で歌うことである。コリャダを流す者には、家の主婦、あるいは主人、あるには誰か家に残っている者が、腸詰、パン、銅貨など、あり合わせのものを窓から袋の中へ投げてやる。・・・大部分の歌はキリストの降誕を祝い、最後に家の主、主婦、子供たち、さらにその家の者全体の健康を願うものである」(青山太郎訳、「ゴーゴリ全集」1、河出書房新社、1977、p.241)。
 コリンダ、コリャーダというのはラテン語の calendae に由来し、新しい年の始まりを祝う習俗ということである。スイスのレト・ロマンス人の間には、三月一日に行なわれる chalandamarz という行事があるが、これはユリウス暦以前の古代ローマで三月が一年の始まりだった名残りである。
 コリンダの様子を、ルーマニアの作家レブリャーヌ(「大地への祈り」、1920)の描く村の教師の家のクリスマス情景にのぞいてみよう。

 「ヘルデーリャ家のクリスマスはいつもより浮き浮きしていた。教師はラキーユをたっぷりと調達するし、夫人は黄金のようなコゾナクを作り、・・・針金で繕った古い二つの大鍋にいっぱいのサルマーレ(肉入りロールキャベツ)が炉でぐつぐつ煮えている。そのほか、コリンダを歌う子供たちや来客が来てもいいように、ルーマニア風のクリスマスの食物なにからなにまで。
 最初に来たのはイオンだ。窓の明かりの下で美しいコリンダを一曲歌い、それから、酒をふるまわれ、しきたりによって数枚のもらったあと、家の中でもう一曲歌った。グラネタッシュの息子が中にいるとき、娘たちの一団が『主よハレルヤ』を歌い出した。ヘルデーリャがみんなお入りと言ったが、娘たちは恥ずかしがり、まして、中にイオンがいるので、逃げていってしまった。それから一晩じゅう、コリンダの列がつづいて、夫人の心をせつなくかき立てた。この聖なる行事の折に、夫人はいつもあの若き日を思い起こして涙ぐむのである」(住谷春也訳、恒文社、1985、p.153f.)。

 仮面仮装の者どもの群行も、しばしばコリンダと呼ばれる。コリンダはたびたび教会の禁令を受けているが、それはこちらの方が念頭に置かれている。コリンダがおおよそクリスマス歌唱行を意味するようになるまでには、キリスト教会による飼い馴らしのたゆまぬ努力があったにちがいない。コリンダの歌も、キリスト教的な内容ばかりではない。ハンガリーのレゲレーシュという、クリスマスの頃に毛皮を着た若者が家々をめぐり、鎖をまいた杖やルンメルポットなどの伴奏で歌唱するコリンダに似た習俗では、たとえば次のような、切れ切れではあるが不思議な美しさを湛えた詩句を歌う。

 「よき夕べを神より賜わらん!/レゲシュの衆が参上つかまつる/
 迸る流れのみなもと/私は飼っていた、不思議な鹿を/素晴らしい鹿/千の枝角/千の蝋燭/上に輝き/失せるが如く消え去りぬ/
 ヘイ、レゲレイテン/レゲ、レゲ、レゲ、レイテン/
 ここな一人の/麗しき娘/その名といえば/ネーメト・フランチスカ/
 ヘイ、レゲレイテン・・・(繰返し)
 そこな一人の/美々しき若者/その名といえば/ヴァルガ・ミハーイ/
 ヘイ、レゲレイテン・・・
 レゲシュの歌で挨拶申す/主殿に/女房殿に/
 ヘイ、レゲレイテン・・・
 隅には袋/黄金がどっさり/半分は主殿/半分はレゲシュの衆に/
 ヘイ、レゲレイテン・・・
 樫の木の服、常盤木の靴/けれども道を続けにゃならぬ/煙草をも少し買わねばならぬ/では家の衆、おやすみなされ」

 このような一括してコリンダとまとめられる降誕祭前後の仮面仮装群行習俗、祝福歌唱習俗がまずあって、そこに降誕祭劇が受け入れられる土壌ないし水路ができたのだろう。カルパチア山中の劇に出てくる羊飼いは、仮面をつけてムクムクした毛皮にくるまり、太い棒をついていることが多いが、これなど仮装群行の形姿のひとつである。祝福の訪問行は物乞いをともなう。演者は祝福をうけた家の人から贈り物をもらう。このような門付けの行事は、何かシンボルとなるものを引きまわすことが多い。たとえば星の歌唱で三人の博士が持ち歩く星がそうだし、聖霊降臨祭の娘たちの訪問行では、ヴェールをかぶった女の子の扮する「女王」を連れ歩く。「ベトレヘム」もそのような行列の中心・焦点となるシンボルのひとつであろう。
 パラジャーノフの映画「火の馬」(1964)を見た人は、このカルパチア山中に暮らすウクライナ人(フツール人)の若者の物語を、様式的な映像美で捉えられたフォークロアの風景のうちに描いた作品に、仮面仮装の者どもの群行や、天使の姿の少年のクリスマス歌唱が印象的に使われていたことを思い出すかもしれない。これらは、この映画の中のすべてのフォークロアと同じく、いでたちも挙措も事実からは遠いが、民俗の真実には近い、と思う。

<降誕祭劇のトピック>
 「降誕祭劇」に仕組まれるエピソードには、次のようなものがある。
1.天使のマリアへの受胎告知。
2.ヨセフとマリアの宿さがし。
3.羊飼い劇。天使が羊飼いにお告げをし、羊飼いは幼児イエスのもとに駆けつける。
4.マリアとヨセフが揺りかごをゆらす。
5.三王劇。東方の三博士が星の導きで「新しく生まれた王」を探しに行き、イエスに礼拝する。二つの部分から成る。
 a)探索の途上、三博士がヘロデ王に会う。
 b)ベトレヘムに着いた三博士の礼拝。
6.ヘロデ劇。暴君ヘロデは新しく生まれた王を殺すため、新生児すべての殺戮を命じる。その蛮行の後、死神に首をはねられ、悪魔に地獄へ連れ去られる。この部分には道化役としてユダヤ人ラビの出ることもある。
 これらのエピソードすべてを含む大がかりな劇も存在するが、ふつうはこれらのうちのいくつか(あるいは一つのみ)を取り上げるだけである。たとえばさきほどの西ハンガリー羊飼い劇は3のみを演じる。
 「ベトレヘム人形劇」というのもある。「ベトレヘム」を舞台にして、単純な棒人形で演じるものだ。ポーランドでショプカ、ウクライナでヴェルテープと呼ばれ、スロヴァキアやハンガリーにもある。いくつかの場面をレビューのように構成するが、ヘロデ王が首を斬られる場面が興味の中心になっている。
 狭義の降誕祭劇はこういうものだが、降誕祭の季節(待降節から公顕節まで)に演じられる民俗劇も、合わせて考えることができよう。たとえば子供たちに贈り物を持ってくる一方、恐ろしげな魔物たちをお供にひきつれた聖ニコラウス(十二月六日が祭日)が、訪れた先の子供がいい子だったか悪い子だったか問い、いい子ならプレゼントをやるが、悪い子は魔物じみた連れの者がさらっていく、という場面を中心にした聖ニコラウス劇などがそうだし、そのほか、アダムとイヴの楽園追放の劇や、聖ドロテア、聖セバスチャンの殉教を扱った芝居、イギリスのママーズ・プレイのような剣闘劇、あるいは盗賊を主人公にした劇も主にこの時期に演じられる。プリミティブな山羊の芝居もある。男が山羊を売りつけに来るが、踊っている最中に突然死んでしまう。息を吹き込まれ、山羊は生き返ってまた跳ね回る、というようなものだ。
 これらの劇の重要なモーメントとして、「処刑」(殉教者劇、ヘロデと死神など)や 「死と再生」(ママーズ・プレイや山羊劇など)があり、民俗学者はそこに古い季節の死と新たな年の蘇りを見ようとする。登場人物を次々に呼び入れる、または場面が次々に交代する形式や、衣裳におけめ白衣の卓越、劇の最後に必ず家の人たちを祝福を祈ることなどが、民俗劇のドラマトゥルギーを成している。

<担い手層>
 降誕祭劇は中欧の習俗だと言える。カトリック圏を中心に、ドイツ、ポーランドと旧ハプスブルク帝国領に分布する。オーストリアハンガリーにおいては、ユダヤ人を除くすべてのキリスト教徒の民族のもとにあった。
 その分布のありさまを見よう。分布には垂直分布、つまり担い手の社会的位置による社会的分布と、水平・地理的分布のふたつが考えられる。降誕祭劇習俗の担い手たちの垂直分布はというと、
A.演じ手たちの年齢層と性別で見れば、少年ないし青年男子である場合が、民族を問わず非常に多い。その点で仮面仮装習俗の担い手と一致する。マリアなどの女性の役も、古風な劇では男が女装して演じる。しかしこういう役は女の子が演じるようにしている村も多い(「おばあさん」のドロテア劇のように)。また劇そのものが娘たちに任されているところもある。その場合はヨセフを男の子がやる。つまり演じ手は、①男のみ、②ほとんど男、マリアなど女の役だけ娘、③娘のみ(典型的な男の役は男が演じることもある)、④男女混合、のいずれかだが、①②が多く、動作や台詞の節回しなどに古風さを示すのもそういう村の劇だ。逆に④にはそのような「演技演出のアルカイズム」はほとんど見られない。性別と年齢に関しては、男子結社的である、とさえ言えるかもしれない。
B.貧富ということでは、特に伝統のある長大な劇の場合、演じる家が代々決まっていたり、また劇に参加するのを名誉と考え、裕福な家の子が演じるという村もあるが、だいたいが門付け的な性格で結果として謝礼を貰い集める行事であるため、貧しい家の子供が行なうことが多いというのが傾向である。冬の行事だから、農家では収穫も終わり、クリスマスの前には豚を屠殺してソーセージなどもこしらえていて、自然と気前もよくなろうというもの。貧富が演者層に反映している場合、村内の相互扶助機能も果たしていると言えよう。村内あるいは近隣に住むジプシーが、隣人の農家を回って演じることもあるのだが、この場合はとりわけ門付け芸の一面が強調されてくる。
C.また、ある職業集団が劇の担い手となることもある。ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスター」にも劇を演じる鉱夫の姿が出てくるが、この地域の鉱夫たちは芝居や踊りなど、集団で行なうパフォーマンスを好む。バイエルン地方では、冬の間仕事がなくなる漁師たちが劇団を作り、近隣の村々で演じてまわるという例もあったそうだ。
 男子結社などという大層なことを口にしたが、若者たちが徒党を組めば戦闘的になるのは必然かもしれない。劇を演じる二つのグループが出会ったら、しばしばけんかが起こる。古風な村では一般に、道を行くときも触れ役を先頭に決まった隊列を組んで進む。ある村では、別の隊列と遭遇したとき、先導者たちが謎掛けをしあい、答えられなかったほうのグループが道を譲るという。祝福を与えるという性格のためであろう、村内のすべての家を巡ることが義務づけられている村もある。贈り物が少なすぎたり貰えなかったりした場合、「この家に幸いあれ」ではなく「禍いあれ」と呪咀の歌をうたうというのも、祝福行事の裏返しである。

<分布図から見えるもの>
 水平、つまり地理的な分布のさまを見ていると、宗教による濃淡にすぐ気がつく。イエス生誕をめぐる話だから当然のことながら、ユダヤ人(ユダヤ教徒)のもとにはない。クリスチャンでも、カトリックに濃く、プロテスタントではそれより薄い。ギリシア正教徒のところにはない、というのが基本だが、旧ハプスブルク帝国領内のセルビア人・ルーマニア人・ウクライナ人は演じている。ルーマニア人・ウクライナ人の場合、いわゆるギリシアカトリック典礼の方式は正教のまま、ローマ法王を首長と認めて十七世紀に成立した東方帰一教会を通じてこの習俗を受け入れるようになったのだろう。そして領外の同族にも広がっている。
 正教のセルビア(旧ハプスブルク領のヴォイヴォディナを除く)やブルガリアはこの習俗の空白地帯だが、バナート地方(ルーマニア)にはトルコ支配から逃れてきたブルガリア人の村がいくつかあり、そこでは周囲の民族の影響で降誕祭劇をやっていた。ブルガリアの独立後、故国に帰住して築いた村で、彼らは持ち帰った芝居を演じていたという。
 ハプスブルク帝国に帰属し、カトリックでもあったクロアチア人は、もちろん降誕祭劇を知っている。しかし、アドリア海沿岸のダルマチアハンガリーに接する内陸のスラヴォニア、その中間のザグレブのあるあたりというクロアチアの三地方のうち、スラヴォニアには色濃く分布する一方、ダルマチアにはない。今でこそ同じクロアチア人の住む地域だが、地中海文化圏に属するダルマチアと内陸のスラヴォニアは、風土も歴史も文化も異なるし、クロアチア人と共生してきた民族も違う(ダルマチアではイタリア人、スラヴォニアではハンガリー人・ドイツ人等々)。そういう違いがここにも反映されているわけだ。
 前に挙げたようなトピックの組合せにより、降誕祭劇にもいろいろなタイプがある。そして民族ごとに見てみると、それぞれの民族のもとにさまざまなタイプが存在するが、その中でもそれぞれドミナントなタイプがあるようだ。つまり民族による好みが現われてくるのである。
Ⅰ.スロヴァキアとハンガリーでは羊飼い劇が好まれる。ハンガリーの劇の台本は前に見た。トピック3を劇化したものである。
Ⅱ.ポーランドからウクライナにかけては、ヘロデ劇に人気がある。死神と悪魔の出るものだ。トピックで言えば三王劇5と6、羊飼い(3)も登場する。
Ⅲ.ルーマニア人やセルビア人は、ヘロデと三博士の出るものを多く演じる。5a)であるが、羊飼いの場面(3)が加わることもある。
 これに加えて、東欧ドイツ人についても触れておきたい。第二次大戦後ほとんどがドイツ本国へ追放されてしまったが、戦前東欧には多数のドイツ農民が暮らしていた。中世以来住んでいるトランシルヴァニア・ザクセン人のような人々もいるが、その多くは「シュヴァーベン人」と総称される、マリア・テレジア女帝時代に移住植民してきた人たちで、シュヴァーベン地方よりフランケン地方出身者のほうが多いのだけれども、なぜかこう呼ばれる(ドイツのシュヴァーベン地方人と区別するために、ドナウ・シュヴァーベン人と言われることもある)。西ハンガリーユーゴスラヴィアのヴォイヴォディナ地方、ルーマニアのバナート地方に多く居住したが、それ以外の土地、たとえばブコヴィナやガリツィア地方にも住んでいた。現在ではハンガリールーマニアにわずかに残っているに過ぎない。
Ⅳ.そのシュヴァーベン人は芝居を好み、村によってヘロデ劇や三王劇、アダムとイヴの楽園劇など、いろいろなタイプの芝居が演じられていたけれど、最もポピュラーだったのは幼児キリスト劇である。マリアとヨセフがイエスの人形の載った揺りかごをゆすり(4)、幼児キリスト役(白いヴェールを被った娘が扮する)が子供たちにプレゼントをするというもので、宿さがし(2)や羊飼いの場面(3)が加わることもある。演者たちは「ベトレヘム」ではなく、揺りかごや小さなクリスマスツリーを持ち歩く。
 その一方でこんなこともある。ガリツィアやブコヴィナはポーランド人・ウクライナ人の居住地で、彼らは好んでヘロデ劇を演じていた。その中に混じって住むシュヴァーベン人の間でも、他地域での幼児キリスト劇よりも、ヘロデ劇に人気があった。だがテキストの系統で見ると、それはポーランド人やウクライナ人の劇ではなく、ドイツ人固有のヘロデ=三王劇(ハンガリーのシュヴァーベン人のもとにもあるが、さほど多く演じられているわけではない)なのである。周囲の影響によるとはいっても、それは劇そのものを受け入れるという形でなく、もともと持っていたが他地域ではあまり前面に出ることのなかったものを大きくクローズアップさせた、つまりある環境がよそでは目立たなかった潜在的な素質を開花させるように働いた、というわけだ。こういう共同体のいささか特殊な習俗の場合にも、そんなことが起こる。
 ハンガリーで羊飼い劇が支配的なことは上に述べたが、そのほかに、トランシルヴァニアのセーケイ人と呼ばれる人々の間にもっと大がかりな降誕祭劇のタイプがある。マリアとヨセフの宿さがし(2)、羊飼い(3)、三博士(5)の場面から成る。単に場面構成だけでなく、様式的な演技や羊飼いの異装などで、基本的に単純なハンガリーの羊飼い劇(マジャール・タイプと呼ぶことにしよう)とはきわだった違いを見せる。トランシルヴァニアハンガリー人の間には、セーケイの劇を簡略にしたようなものがあって、両者の中間形・移行形をなしている。
 ハンガリー降誕祭劇の大半を占めるマジャール・タイプとカルパチア山中のセーケイ・タイプ、および「ベトレヘム人形劇」の他にも、西ハンガリーのいくつかの村に揺りかご劇がある。もう演じられていないが、北東ハンガリーのスロヴァキアに接する地域には、「星の劇」と言われるものがあった。簡単な羊飼いの場、ヨセフの宿さがしのあと、ヘロデと三博士(5a)、ヘロデがラビに幼児殺しを命じる場面(6)が続く。「ベトレヘム」は携えず、星形を持ち歩くのでこの名がある。一見してわかるとおり、揺りかご劇はシュヴァーベン人の幼児キリスト劇に酷似し、「星の劇」はポーランドウクライナのヘロデ劇に似ている。揺りかご劇を演じるハンガリー人の村は実際シュヴァーベン人の村に隣接していて、彼らの影響であることは明白だし、「星の劇」にしても、マジャール化したウクライナ人の村などで行なわれていたことから、その影響関係は自ずと知れてくる。つまり降誕祭劇のある特定のタイプを好む民族ごとの性向があり、ハンガリー人の場合は羊飼い劇である。それと異なるタイプの劇も存在するが、それは近隣のそのタイプを好む民族の影響を受けたものだ。一方で、同じ村に住んでいながらハンガリー人は自分たちの劇を、ルーマニア人ならルーマニア人はやはり自分たちの伝承のタイプの劇を演じていて交わらないというのも普通だ。民俗劇には言葉や宗派の違いがあるため、舞踊や音楽などより民族間の敷居が高くなるのは自然なことではある。その敷居を乗り越え、隣人から受け入れた場合も、その出自はすぐ知れる。このように、降誕祭劇は一種の民族の識別記号の役割を果たしうるらしい。少なくともハンガリーの例はそう教えてくれる。
 ではハンガリーのもう一つのタイプ、セーケイ人の劇はどうなのだろうか。セーケイ人というのはカルパチア山地の東部に住んでいて、国境を守る防人の役割を当てられていた人々だ。彼らの由来ははっきりせず、古くにマジャール化したテュルク系の民族だとも、マジャール人の一派で、特殊な役割や特権を与えられたために独自の歴史を歩んだにすぎないとも言われている。彼らは分かっているかぎり、ずっとハンガリー語を話してきた。現在ではハンガリー文化を構成する一員だという意識を強く持っている。だが降誕祭劇が成立し発展した十八・九世紀の段階でいえば、彼らはやはりひとつの「民族」だったのである。それは近代民族主義の成立以前の「民族」で、たとえばコサックが「民族」でありえたのと同様の意味で言うのだが。「言語」のような自然科学的基準より、「法(権利)」や「宗教」がより重要な帰属意識の決定要因であった時代の話である。

 降誕祭劇というのは、近世以降というかなり新しい時代に成立した、出自のはっきりした地方的な習俗である。したがって起源論の危険な陥穽におちいることはない。けれどもそんな習俗の中にも、それぞれの民族の性向がうかがえる。民族ごとに好む芝居のタイプが異なるという大きな傾向を示しつつ、局地的にはブコヴィナのシュヴァーベン人やバナートのブルガリア人のように、周囲の共生民族からの影響を取り入れて、豊かな交感の様子もまたうかがわせる。新しい起こりである一方で、たとえばクロアチアに見られるように、そのあるなしに古い時代の文化圏のありようが透けて見えることもある。言ってみれば現在は平坦でのっぺりした地形の下にある古い地形が、表層の植生や、降った雪の溶け残りかたで知られるようなものである。
 諸民族混淆の地であった中欧、中でも旧ハプスブルク帝国領を主なフィールドに、降誕祭劇というテーマで眺めてみた。民族による違いを地塗りの模様に、民族の混在ぶりがその模様を複雑に入り組ませ、違うがゆえに起こる交換の働きが隣接異民族の間を結んで、彩り美しい点描をそこここに加え、目にもあやな織物が織りあがっているのが認められる。降誕祭劇という比較的取るにたらぬ題材でもってもそうなのだ。銀紙をふんだんに使った稚拙な王冠や「ベトレヘム」ではないが、どんなものでも何かもっと大きなものを映す鏡あになる。東欧はだからおもしろい。
(2000/3/25)