サハリン消息/犬の風景

寅さんがうちの町でロケした映画が、このあいだNHK・BS2で放映されました。当時映画館で見て以来、久しぶりの再見です。70年代初期(1973年?)の製作ですから、もう30年以上も昔です。寅さんやさくらが降りてくる駅のホームに蒸気機関車が止まっているのに驚きました。そのころはもう客車は牽いていなかった、貨物列車を牽いていたんだと思いますが、しかしまだ立派に走っていたのだ。ホームには転轍機があった。ホームの向こう側は小学校ですが、まだ木造校舎だった。では便所もあのおつりのくる便所だったんだ。ついこないだのような気さえするのだが、もうとんでもない大昔、甥っ子にそんな話をすれば、おじちゃんじゃなくておじいちゃん扱いされたりするかもしれないなあ、長音がうまく発音できないロシア人の学生みたいに。
そのころ野良犬はまだいただろうか? もううちの町でも姿を消していたかもしれないし、いたとしても最末期で、「絶滅」寸前だったに違いありません。子供のころはもちろんいました。それどころか、そのころは飼い犬だって放し飼いだった。両者の外見上の区別は首輪の有無に過ぎなかった。もちろん飼い犬は人馴れして、ノラは警戒心が強く、首輪を見るまでもなく違いがわかる。いや、それも正確な言い方でなく、子供たちは(大人も)一目見たら、これはあのうちの犬、これはあのノラと、個体識別ができました。飼い犬はもちろんだが、ノラのほうも共同体の周縁の一員ではあったのです。さらに言えば、子供も「放し飼い」にされていましたね。子供も、あれはどこの子と「個体識別」されていました。今の子供はきっと「放し飼い」ではありますまい。
日本では「野良犬」という種はほぼ「絶滅」に近い状態です。だが国境を越えると(よきかな国境)、野良犬はしっかりたくましく生きています。野良犬は危険だ。うん、それはそう、危険ではもちろんあるけれど、道にはもっと危険なものが我が物顔に往来してますね。結局認識とはどこに線を引くかという問題で、車はあんなに危険であるにもかかわらず、世界中どこでも線のこっち側。野良犬はまさに境界線上にあって、人により社会によって、線のこっちにもあっちにも置かれます。
人間が社会的であるのと同様に、あるいはそれ以上に、犬は社会的な存在です。犬自身に社会があるのに加え、人間社会との関わりの中で存在しているという意味で。犬は人を映す鏡、わけても野良犬は人間を映す鏡です。野良犬が警戒心強く攻撃的なら、その町の住民もおそらくいやな人たちだ。野良犬がおっとりのほほんとしていたら、そこの住民も鷹揚なんだろう、という推測ができます。ユジノサハリンスクには、ホームレス犬の段ボールハウスがあります。市場の片隅に、小さい段ボール箱がすのこ板の上に置かれていて、中には犬が丸まって寝ています。これで寒さがしのげるのだろう。心やさしいどこかの店主のはからいです。エサまでやっていれば立派な放し飼いだが、食い分はおそらく市場で自分で調達しているのでしょう。こんなのを見ると、人気の悪いところではなさそうです。
この町の鳩も、なかなか飛び立ちません。近づいていっても、飛ばずにちょこちょこ逃げるだけ。危害を加えられた覚えがないのだな。いい土地なのかもしれない、と思います。
しかし一方で、フリーペーパーというのか、広告で成り立っている新聞が毎週郵便受けに投げ込まれているのですが、その裏から2枚目は、全面娼婦の広告です。家庭で子供の目にも触れように。ロシア語で、一般家庭に配られているのだから、外国人向けでも旅行者向けでもありません。ロシア人にも一人者の渡り者が多いのか。まだその例にぶつかってはいないけれど、新開地の殺伐さもまたこの町の一面ではあるのでしょう。犯罪も多いというし。小鳥を愛する殺し屋、というわけでもなかろうが。