サハリン消息/冬、時間の復帰

 10月30日、夏時間から冬時間、つまり本来の時間に移行しました。サハリンは北海道の真上にあって、経度がまったく違わないのに、これまで2時間も時差がありました。それが1時間になった。たかが1時間ですが、やはりありがたい。ここに暮らしていても、時差がこの程度だと、体内時計は日本時間のままなのです。だからサハリン夏時間の7時に起きるのは、つまり5時に起きるということで、なんとなく疲れた感じがあったのですが、今は6時起きだから、問題ない。
 時差そのものには、何かしら心楽しいものがあります。国境というのは人為的な制度で、そんなものに意味はない、やがて消滅してしまうべきものだと主張する人があれば、それにある程度は同意します。だが、境界というものは決してなくならない。それを一歩越えるだけでさまざまなことが一変する線というのは、あっていいし、あってほしいと思います。それとは別に、地球が球形である以上、どうしても処理しなければならない時間のずれは、どのようにか取り決めて適当に納めなければなりません。その際、国境線に時間の移行線が重なるのは、さもあるべきことです。ロシアのような大きな国だと、合理的に解決を進めていったにもかかわらず、末端で周辺の国との食い違いが出てきてしまうことそれ自体は、大きさの眩暈のようで、むしろ微笑ましくさえ思います。ほぼ同時に夜が明けているはずの稚内コルサコフ(大泊)で、1時間も時間が違う。なるほど、ここは異国の法の下なのだ。時計を進めるのは、境界越えのひとつのシンボリックな儀式です。
だが、夏時間については話が別です。これは許せない。自分たちが勝手に決めたある時点で、時間を勝手に進めたり遅らせたりするなんて。人間の一方的な都合で。そしてその人間というのが、時間の切り売りをする人間のことでしょう? 役所にか、会社にか、工場にか、自分の時間を単位刻みで売り渡し、その代価を俸給という形で受け取る人たち。だがね、自然は彼らの裏取引まがいの申し合わせにはまるで関与していません。動物たちは夜が明け日が暮れる自然のリズムに従って生きており、人間どもの内輪の協定など知ったことではない。大潮の時刻を変えることなどできません。漁師のほうが、俸給生活者たちが彼らに相談なく決めた時間変更に自分を合わせなければならない。違うだろ、と思います。時間の切り売り人種が圧倒的な多数になっているからといって(特に先進国では)、全的に生きる人々に不利益を押しつけてはいけない。それはとんでもなく不道徳だ。先の大戦で、馬は兵隊より貴重だったと言いますね。兵隊のほうは一銭五厘召集令状で集められるが、馬はそうはいかない。夏時間の「思想的根拠」は、これと同じです。日本は先進国中数少ない夏時間を採用しない「正しい」国のひとつです。「正しく」ありつづけてほしいと思います。