サハリン消息/「サーシャ」の影

 着いたら、まず在留届を出しに行く。公的派遣であれば当然です。そのとき総領事館の人から安全上の注意を受けます。
 フランス人がメッタ刺しにされて殺されただの、事例をいくつか聞きましたが、日本人が被害に遭った例として、夜、ドアをうるさく叩きながら「サーシャ、サーシャ!」と呼ぶのだそうです。無視して出ないでいたら、帰っていった。しかししばらくしてまたやってきて、また「サーシャ、サーシャ!」と叩きます。そこでついドアを開け、「違うよ」と言おうとしたら、これが押し込み強盗。ピストルを突きつけられ、台尻で頭を殴られ、手錠で暖房のパイプにつながれたそうです。だから夜心当たりのない者がやってきたら、決してドアを開けないで下さいよ。
 なるほど、そう来るのか。用心はもとより怠るつもりはありません。町を歩いていて物騒だという感じはうけないけども、実際に事件は起きている。そりゃそうだろう、とも思います。石油ガス開発でサハリンは今潤っているが、その恵みを受けるのは一部だけ。外国企業で働くロシア人の中には、初任給で4000ドルもらうなんていう、下手な外国人顔負けの高給取りがいる一方、たとえば教師なんか薄給で、生活するのがやっとか、やっとですらない額。しかし高給取りや外国人が多いためと、自給できない島であるため、物価は本土よりずっと高いのです。貧富の差がこんなに大きくては、そりゃ犯罪は起きるよ。
そしてある土曜の朝、ドアを激しく叩く音。お、来たか。むろん無視をきめこみましたが、しかし、と訝しく思いました。朝だよ。朝から押し込み強盗来るかなあ。でもこんな無作法な叩き方する人は知り合いにいないし。そう考えていたとき、はたと気づきました。こういうのは聞き覚えがあるぞ。下の住人が漏水の苦情を言ってくるときにやる叩き方だ。そこで浴室を見ると、洗濯機のホースが外れていて、床が水浸しでした。そうだったか。また叩くので開けてみると、やはり階下に住むおばあさんでした。
また、ある夕方の7時半ごろ、電話が鳴ります。出るとロシア人で、配達物が着いたのでこれから届けに行くと言う。TNTだそうで、ややたどたどしいが英語も話しました。だがもう夜だから、ドアを開けるつもりはない。明日こちらから取りに行くからと通告して、切りました。実は話している間中、新手で来たな、と思っていたのです。その日、郵便受けにEMSが届いたから取りに来いとの通知が入っていました。一日に二つも速達便が届くとは思えない。きっと郵便受けのその通知を見て、なりすまして押し入ろうとしているんだろう。たいした知能犯だな。英語まで話すぞ。でも電話番号をどうやって知ったんだろう。しかし翌日、大学にその男が配達物を持って現われました。本当にTNTでした。悪かったなあ、疑って。わざわざこっちへ届けてくれたりする人だったのに。
 かくして、まだ被害には遭っていません。用心しすぎなのか、これがふつうなのか、よくわかりませんが、「サーシャ」の手口にだけはたぶん掛からないでしょうね。