備忘録/人みなスミスにあらず

日本語教育でおもしろいのは、いろいろな経歴の人が教師となっていることだ。制度化が進みきった学校教育とはそこがちがい、その点は塾などに似ているが、しかし塾は日本国内で日本人を相手にし、受験合格という大目標があって、学校に寄り添い補完するものであるから、外国での日本語教育ほどにハズれてはいない。
一応日本語教師にも日本語教育能力検定試験合格とか日本語教師養成講座修了とかの資格基準はあるけれど、それを満たしていなければ教えられないというわけではない。これらの制度ができる前から教えている人は、そもそもそんなの持っていないわけだし。「日本人であること」を唯一の資格に教えている人は今もかなりいるだろう。ふつうのサラリーマンだったり主婦だったりした人が、退職後や子どもの独立後に日本語教師になるという例も非常に多い。ヴァラエティがあるという点ではけっこうだが、問題や混乱も起きやすい。教師個人の裁量範囲が大きいので。だいぶ固まってきてはいるが、まだまだよって立つ地面の柔らかい職種である。
養成講座を終わった人となら、最低限の共通理解はできる。しかし一歩踏み込むと、指針のない領域が広いことに気づく。クラスは引き継がれていくものだから、前任と後任で基準や方法が大きくちがっていてはならず、誰が教えても変わらない一定の規格や標準は必要なのだが、なかなかそうはなっていない。
たとえば、流行なのかもしれないが、外国人の姓と名の間を1字空けで書く教師がいる。そう教えられれば、外国人学習者にとっては母語でいつもしていることだから、何の疑問もなくそうする。最初についた癖はそうでなくても抜けにくいのに、彼らの習慣にも合っているとなると、なかなか直らない。だが、分かち書きすることばと違い、ベタ書きする日本語では切れ目に中黒をうたなければならないのである。1字空けだと、全角では間が抜けるので半角空けにすることになるが、そうすると見落としやすくなる。でなくとも、その空白の部分が行末に来たら、切れ目がまったく表示されないことになってしまう。それではどう切れるかわからない。「ジョンスミス」なら2語だとわかるし、切れ目もわかる。「ン」と「ジ」の間だ。しかし、なじみのない名、たとえば「バカヤノー」という名前があったとしたらどうだろう。切れ目なし? あり? あるならどこで? バ・カヤノー? バカ・ヤノー? バカヤ・ノー? 中点がなきゃわからないでしょ。
カタカナ姓名の間に中黒をうたない人は、原稿用紙の使い方を教えない人なのだろう。原稿用紙に書く場合は、まるまる1マスが空白になったら落ち着きが悪いし、行末にそれが来たときの処理にとまどうはずだ。今の時代、原稿用紙に書くなどというのは昭和の遺風のように思われるかもしれないが、どうして、かなの場合1マスが1拍になるのだから(拗音を除いて)、原稿用紙というのは日本語を教えるのに非常に有用なツールである。原稿用紙に書く場合は中点をうち、そうでなければ半角空きをいれるというのでは、ダブルスタンダードで混乱するだけだ。分かち書きをしないという大原則があるところに、外国の固有名詞の場合だけ分かち書きをするという相容れない原則を局部的に持ちこむことは、無用な混乱の種なのである。