始原の風景

伝説は、すぐれて「起源の物語」である。「歴史」の語を使うなら、口承の歴史と言っていい。しかしそれは書かれた歴史、「歴史学者の歴史」とは全く異なる。「信じられた歴史」なのである。それはさまざまな出来事を語り、そして「歴史」の当然の任務として、「世界の始まり」も語る。


いわゆる「潜水神話」、神が水鳥ないし悪魔を原初の海に潜らせ、底から取ってきた土から陸地を造るという神話は、東欧・シベリアからアメリカまで分布しているが(ハルヴァ「シャマニズム」78ff.)、トランシルヴァニアルーマニア人の間にもある。「始め にはただ水ばかりがあった。そこで神は天使ガブリエルを水に潜らせ、底から砂を取ってこさせた。しかしガブリエルが水面に戻ってくるまでに、砂は手から流れ落ちてしまい、爪の中にわずかばかり残っているだけだった。この乏しい材料を神は大きくし、大地はお菓子のように水の上に広がった。茂みの中にいた針鼠がそれをふさわしく厚くするように助言し、神がそうしたので、今あるようなわれわれの大地ができあがった」(SS 250)。
この話では天使が潜っているが、潜るのを悪魔とする話のほうが多い。「大地のできる前は、限りなく測りがたい海が広がっているばかりで、ただ神のみが悪魔とともにさまよっていたが、疲れて、休む場所がほしくなった。神は悪魔を海の底に潜らせ、神の名において大地の種を取ってこさせた。悪魔は二度潜ったが、神の名ではなく自分の名において大地の種を取ってこようとした。拳にいっぱい取ったけれど、上に浮かんできたら、手の中には何も残っていなかった。三度目には神と悪魔の名において取った。それで爪の中にいくらかが残った。神はそのくらいでもよしとし、それで地面を形づくり、その上にのって、眠った。悪魔はそれを見て、神を水の中に落とそうと考えた。しかし地面を持ち上げると、それは大きく広がり、四つの角すべてでやってみたが、そのどこからも大地は広がって、水のための場所もなくなってしまうほどだった。神は目を覚ました。何をしたものだろう。そのころ神と悪魔の外に蜜蜂と針鼠がこの世にいた。そのころの針鼠は見栄えのいい姿をしており、とても賢かった。神は助言を求めに蜜蜂を針鼠のもとへ遣わした。蜜蜂が来て問うと、針鼠は言った。「神は全智だろう。どうして自分のような哀れな生き物に聞くのだい?」 蜜蜂は針鼠が言おうとしないのを見て、きっとあとで女房には言うだろうと思ったので、針鼠の家の敷居にとまり、そこから実際知りたいと思っていたことを女房に言うのを聞いた。「何だ、神は山や谷、川や湖を造るってことを知らないのか。そうすりゃ水を入れる場所は十分あるのにさ!」 蜜蜂はそれを聞いて喜び、神のもとへ急ぎ帰ってそのことを告げた。針鼠は怒り、蜜蜂が泥や汚物で生きるよう呪った。神はしかし蜜蜂の善行を嘉し、汚物を蜜に変え、人がそれを味わえるようにした」(SS 177f.)。
後段の針鼠と蜜蜂の件りは、別のモチーフが添加されたのだろう。神と悪魔しかいなかったと言っておきながら、その話の終わらぬうちに蜜蜂と針鼠もいたなどと言うのだから。この二つは他の創造神話にも同じように登場する。大地を造るとき、神は針鼠に糸玉を与え、測らせた。大地を押し縮めて山を造ればよいことを息子に漏らし、蜜蜂がそれを隠れて聞いて神に教えることは同じである。針鼠はそのあと糸玉のような姿をとることになった(SS 177)。また、世界を創るとき、神は蜜蜂を悪魔のもとに遣わして、太陽を一つにしたらいいか、いくつも造ったほうがいいか質問させた。蜜蜂は隠れて悪魔の本当の考えを聞いた。気づいた悪魔に鞭で打たれ、蜜蜂は今のような黒くくびれた形になった(RS 104)という話もある。
ルーマニア人はまた、この大地は魚に支えられていると考えていた。「大地はもと四匹の魚の上に載っていた。大洪水のとき一匹が死んでしまったので、その場所で地は水の中に落ち、このようにして海ができた」(SS 250)。ハンガリー人も、大地は鯨の背に載っていると考えていた。これが動くと地面が揺れる。ロシア人や北方ユーラシアの諸民族の間にも「大地の支え手としての魚」の観念が見られる(ハルヴァ「シャマニズム」23)。アイヌもそうだ(バチラー「アイヌの伝承と民俗」63)。
ルーマニア人の神話や習俗は往々にして、どうかすると先祖が明らかなユーラシアの遊牧民であったマジャール人よりも強く、「中央ユーラシアの西端」の観を呈する。そこに紛れもない西方由来のザクセン人を配すれば、トランシルヴァニアの魅力は一層の深みを帯びる。いかにもゲルマン人らしい終末のイメージを、彼らは伝える。「人々が豪奢な衣裳に着飾り歩き、罪悪がまるで恥でも何でもなくなって、世がただに富み栄えるとき、そのとき世界の終わりは遠くない。このとき、地の実りは馬も乗り手も姿が見えぬほど高くなるような、度外れた豊穣の恵みの年があるだろう。しかしそれを刈り取る者は誰もいない。すべての王たちが互いに戦い、馬は鞍を腹の下にして、くるぶしの上までの血の中を、クローンシュタット(ブラショヴ)からブロース(オレシュティエ)まで止められず走り抜く、そんな恐ろしい大戦争が始まるからだ。最後に東方から偉大な君主がやってきて、戦いを鎮める。けれどもそのときには、大きな樫の木の木陰に集まることができるほどにしか、人は残っていないだろう」(SS 4)。


ザクセン人やハンガリー人の伝説によると、太古には巨人族が闊歩していたらしい。グリムの「ドイツ伝説集」中の巨人譚、たとえば「巨人の玩具」と全く同じ話が、ザクセン人の間にもある。「タルメシュ村のそばのランズクローン城は巨人によって作られ、かつては彼らの住まいもあった。そこの古い住人の一人は名をトレシェングといった。その娘はあるとき、山の麓で一人の農夫が畑を耕しているのを見て、ちょうどよいおもちゃだと思い、犂や牛もろとも前掛けの中へ入れ、城へと持っていった。だが父親はそれを叱り、元のところへ戻すように言った」(SS 8)。
ムレシュ川のほとり、デヴァの町を見下ろす山の上に立つデーヴァ城も、巨人が作ったという。見るからに、誰でもその上に城を築きたくなるような聳え方の山である。近くのやはり円錐形の旧火山アラニュ(ウロイ)山の上にも城の廃墟があり、また岩に匙形に深く窪んだところに湧くキシュ・カラーン(カラヌ・ミク)の温泉、この三つは三人の巨人の女が同時に作りはじめた。デーヴァ城を築いた女は、「神が望みたまうなら、一日のうちに終えられるだろう」と言ったが、アラニュの女は、「神が助けようが助けまいが、あたしゃ作るよ」と言った。その城は完成したが、その夜のうちに崩れてしまった。あとの二つは今でもなお残っている(SS 232)。別伝によると、三人の乙女が三つの城を築こうとした。一人は「神がお望みなら」と言って、三週間で鉄の城を作った。フニャド(フネドアラ)城である。一人は「神のご加護で」と言って、三日で銀の城を作った。デーヴァ城である。もう一人は「神の助けなんか」と言って、一瞬のうちに金の城を作ろうとしたが、始めようとしたときに、嵐に城を崩されて、跡形もなくなった(SS 233f.)。
ここでは「鉄の城」とされ、幻の黄金の城やデーヴァ城の下風に立たされているが、ヤンク・デ・フネドアラとマーチャーシュ王の居城フネドアラ城は、疑いなくトランシルヴァニアで最も美しい城である。フネドアラから山の方に入ったハツェグ地方には、ローマ時代の遺蹟の残るサルミゼゲトゥーサがあるが、ローマ帝国ダキア属州の首都であったところで、その名は彼らが滅ぼしたダキア人の首都に負っている。ダキア人のサルミゼゲトゥーサは、オレシュティエ南方の深い山中にあった。今は人影のない山の中のその遺構は、物思わせる静けさに満ちている。
ルーマニア人がダキア人の直接の先祖であるかどうかについては議論があるけれども、ルーマニア人が山の民であるのは間違いない。彼らの文化的な拠点は、この地方にせよ、フォガラシュ、モーツ、マラムレシュ地方にせよ、山間の土地である。マジャール人が平原の民であるのと好対照をなす。もともとカルパチア山脈の内側のパンノニア平原、南のドナウ下流平原はほとんどステップの気候で、フン族アヴァール族、またブルガール族、ペチェネグ族、クマン族などがあいついで東方からやってきて、それぞれパンノニアとドナウ平原を占拠するというのが、この地方の中世史だった。マジャール人もその歴史のしんがりあたりに登場するし、モンゴル人もそうだった。自分たちの事情で、占拠することなく踵を返してしまったが。そんな遊牧民たちが平原をわがものとしている間、ルーマニア人の祖先は山に暮らしていたのである。
ところで、デーヴァ城にはまた人身御供の伝説もある。十二人の親方がデーヴァの城を作っていた。けれども朝のあいだに作ったものは夕方までに崩れ、夕方までに作ったものは次の朝には崩れ去っていた。そこで親方たちは、彼らの女房のうち最初にここへ来た者を焼き殺し、その灰を漆喰に混ぜて塗ろうと決めた。嵐を押して、悪い夢を見たからと止める御者の忠告を聞かず、夫のもとへ急いだケレメン親方の妻が、こうして築城の犠牲になった(SS 232f.)。どうしても成らぬ工事を完成するために人柱を立てる話は、ギリシアのアルタの橋のものが有名だが、カルパチアの水が流れ下るところ、ワラキアのアルジェシ修道院についても語られる。ここでは棟梁マノーレ親方の妻が壁に塗り込められる。
東方からカルパチア山脈を越えパンノニア平原を手に入れたマジャール族は、やがてトランシルヴァニアをも征服した。マジャール族の七族長の一人でトランシルヴァニアの大守となった(と語られる)ジュラは、森で狩りをしていて、茨に覆われた古えのローマの町を発見し、そこに再び都市を築いた。それがアルバ・ユリアである(SS 281)。ここはローマのカストルム・アプルム城砦のあったところで、スラヴ人ベルグラード(白い町)と呼び、のちザクセン人は同じ意味のドイツ語でヴァイセンブルクと、ハンガリー人はジュラフェヘールヴァール(「ジュラの白い町」)と呼んだ。ルーマニア名アルバ・ユリアも、アルバは「白」、ユリアは「ジュラ」に由来する。ここにも巨人伝説がある。昔はここに別の城があった。それは巨人たちの作ったものであった。今の人間たちが栄えてくると、巨人たちは滅亡した。彼らのいくらかは城に引き篭ったが、時とともにそれは地中に没していった。のちに新しい町が広がり、新たに堀をほったとき、地下の蔵に行き当たった。その中に巨人たちが坐っていた。毎日一杯の葡萄酒を飲んで生きていたのである。けれども日の光が地下に差し込むと、巨人は塵となって崩れ落ちた(SS 7)。


伝説は国の始まりも伝える。モルドヴァ侯国はマラムレシュ地方の大守の息子によって建国されたという。カンテミールの「モルドヴァ誌」によると、「その土地の近づきがたさに守られ、数百年の間自らの掟と王の下に暮らしてきたマラムレシュは、人が多すぎるようになったので、ついに**年、ボグダン王の息子ドラゴシュは、まずわずか300人の男どもを連れて、狩人の姿で東方へ山を越えて進んでいくことにした。その山中、偶々モルドヴァ人がジンブルと呼ぶ野牛に出くわし、それを追って山の麓に来た。彼がたいへん可愛がっていたモルダという名の猟犬が獲物に向かって猛然と飛びかかると、牡牛は川の中に駆け入り、矢を射かけられてそこで死んだ。だが、逃げる牡牛を水の中に追っていった牝犬は、速い水の流れに運び去られてしまった。この出来事を記念して、ドラゴシュはまず川をモルドヴァと名づけ、このことがあった場所には自分の民からロマンの名を与え、彼の新しい侯国の紋章には野牛の頭を取り入れた。・・・その国はのちに、外国人からもそこの住人からも、モルダの川からモルドヴァと呼ばれるようになった」(RS 116)。
狩りの獲物を追って新しい美地を発見するという伝説はよくあり、マジャール人の間にも「フノールとマゴール」の話が古書に記されている。フノールとマゴールの兄弟は、ある日狩りで雌鹿を見つけたが、追っているうちに消え失せてしまった。メオティスの沼地をさがしていたら、その中のすばらしい牧草地に至った。そこに五年暮らし、六年目に外へ出ると、ベラール王の子女たちを見つけて、これを攫った。その中にアラン族の王ドゥラの娘が二人いて、兄弟はそれぞれ一人を娶り、ここからフン族マジャール族が生まれた(ケーザのシモン「ゲスタ・フンガロルム」)。台湾の高砂族(ツォー族)の間にも、白鹿を追ってさまよううちに日月潭を発見し、のちそこへ移住したという口碑がある(前嶋信次日月潭の珠仔嶼」)。
ワラキアは、トランシルヴァニア南部の山地に住んでいた若者、色が黒いためにネグル(黒の意)と仇名されていた馬飼い、のちのネグル・ヴォーダによって建てられたと伝える。彼は孤児で、非常に貧しく、金持ちに雇われ馬の群れの世話をしていた。馬とともに山の草地にあったとき、日が暮れ野宿をした。明け方ごろ、山の頂に谷川や丘や野の川が突然逆流し、彼の口の中に注ぎ込む夢を見た。そののち彼は侯となり、馬を飼うように国や城をよく守った(RS 134)。彼の名「ネグル」は、モンゴル襲来時の「カラ(黒い)・ウラグ」、トルコ人がドナウの北のワラキア人(ルーマニア人)をマケドニアあたりにいるヴラフ人(アロムン人)と区別して呼んだ「カラ・イフラク(黒いヴラフ)」と関係があるだろうという説があるが、当たっていよう。


始原への想念は、必然的に天空へ目を向ける。ザクセン人の語るところでは、神はあるとき数人の天使を連れて地上へやってきた。天使たちはこの世界がたいへん気に入って、天上へ帰りたがらなかった。わけてもある一人の天使は羊飼いの娘に恋してしまい、天使であることを捨ててもいいとまで言った。神は、これらの者を連れて帰れば、天上の他の天使も地上に来たがるだろうと思い、彼らを天に投げ上げた。彼らは夜空を飾る星になった。しかし恋に落ちた天使の星は燃えさかり、他の星に火花を散らすので、神は諍いにならぬようそれを地上に投げ落とした。それは火花と砕け散り、蛍になったという(SS 2f.)。
ルーマニア人の間には、太陽の兄妹婚のバラードがある。太陽は九頭の馬と九年の間嫁を探しまわったが、妹のイリアーナ・コシンザーナよりふさわしい娘を見つけることができなかった。そこで太陽は彼女に求婚した。イリアーナは拒み逃れたが、最後にはやむをえず諾った。けれども婚礼のとき天から手が現われて、彼女を掴み海へ投げ落とした。そして彼女は神によって天に投げ上げられ、美しい月となった (Schuller 4ff.)。またこんな話もある。昔は二つの月があり、姉妹だった。太陽と月は夫婦で、一人は太陽の伴をし、一人は夜を照らしていた。あるとき一人が時間になっても交代せず、太陽のもとにとどまっていた。もう一人は嫉妬して、やっと戻ってきた相手を鎌で切り刻み、天に撒いた。それが星になったと(RS 20)。


伝説は信じられなければならず、信じられなくなった伝説はもはや伝説の資格を失っているのだけれど、その美しさは、「伝説以後」にもなお残る。


参考文献:
エリアーデ、ミルチャ「ザルモクシスからジンギスカンへ」第1巻 斎藤正二訳 せりか書房 1976/ 第2巻 斎藤正二・林 隆訳 同 1977
KARLINGER, Felix/Emanuel TURCZYNSKI. Rumänishe Sagen und Sagen aus Rumänien. Berlin. 1982.
MÜLLER, Friedrich/ Misch OREND. Siebenbürgische Sagen. Göttingen. 1972.
SCHULLER, Johann Carl. Ueber einige merkwürdige Volkssagen der Romanen. Hermannstadt. 1857.
(2004.9.)