フェルガナだより(8)

3月29日は、やや曇りがちでした。朝、右腕の手術を受けて入院中のガニシェル氏の長男ハビビロ君を見舞い、昼には大学の国際部長アザム氏とフェルガナ弁論大会の打ち合わせをしたあと、そのとき歌おうと思っているウズベク民謡ドイラの歌を訳し、午後の授業では、春休みのりこ学級に教えに来ている大学1年生の瀬端なおみさんに来てもらって、学生と話をしてもらいました。なかなか日本語で話そうとしない学生たちも、同年輩の女の子となら積極的に口を開くかと思ってのことでしたが、踊りを教えたり、ドゥトールを持ち出して歌をうたったりのいい時間になりました。
タシケントでの爆弾テロのニュースを聞いたのは夕方でした。そのころにはすっかりいい天気になっていました。春らしい、平和で充実した一日でした。今日訳したドイラの歌のような。私たちの生活は続きます。さす影に際立つ姿や意味を深く感じながら。

ドイラどんどん 季節は春
春が来てほほえむ 花のつぼみ
おいで遊ぼう 花をあつめ
うぐいすはさえずり バラは開く


<実りの春>
3月6日にタシケント経済大学講堂で行なわれた第12回ウズベキスタン日本語弁論大会において、フェルガナ大学外国語学部2年生ナジロフ・ドニヨル君の「踊るドブネズミ」が5位に入賞しました。
昨年12月に行なわれたウズベキスタン日本センターの日本語能力認定試験でハタム君が1級・2級、ドンヨル君が3級、ユルドゥズさん(語学センター)が4級に合格(不合格者なし)、カザフスタンであった交流基金の能力試験でハタム君が2級に合格と、フェルガナ大学は好成績を続けてきましたが、また一つ記録が加わりました。しかし、現在フェルガナ大学に在籍しているといっても、今年度結果を出した彼らはすべてのりこ学級で学んだリシタン出身者たちですから、のりこ学級の成績と考えるべきでしょう。大崎氏のまいた種が、フェルガナで芽を出したわけです。しかしながら、フェルガナ大学日本語開講の必然はありました。好成績をあげるべく用意のあった者たちが、開講に引き寄せられるように集まってきたのですから。今年入賞したドンヨル君は、去年もスピーチしていましたが(のりこ学級代表として)、そのときの成績を考えれば、日本語開講がなければこうはいかなかったでしょう。
フェルガナ大学の真価は、ここで日本語を学びはじめた学生が催しに参加しだす来年度以降に問われます。
実は、今年すでに一つ試みをやりました。弁論大会のアトラクションの部門に学生5人が参加し、ドイラ(手太鼓)とドゥトール(二弦琴)の伴奏でウズベク民謡「ウルタール(胸の痛み)」を日本語で歌ったのです。希望者が非常に多く、歌い手3人を選ぶためにオーディション(!)をやらなければなりませんでした。語学センターのコースに来ている若いフランス語教師を含め、10人もがオーディションに出てきました。タシケントへ行きたいということももちろんありますが、基本的に歌うのが好きなのです。ハタム君は、そこらへんを歩いている女性をつかまえて、ちょっと歌ってくださいと頼めば歌いますよと言うのですが、多少割引いても、真実だと思います。踊るのも好きです。ナウルズの祭りが大学の中庭でありましたが、音楽がかかるとあちこちで踊っています。沖縄みたいです(そういえば、ウズベク民謡には沖縄のによく似た旋律があります)。歌や踊りが生活の基礎教養になっている。いいですねえ。GDPが大きいのが幸せなのか、歌って踊れるのが幸せなのか、これはひとつ考えどころです。
審査休憩の幕間の舞台上、まずウズベク語で歌いはじめ、一歩進み出て日本語の歌詞を歌いだしたら、客席から大きな歓声と拍手が起こりました。うれしかった。ドンヨル君の入賞と同じくらいうれしいものでした。
このタシケント行きがいい刺激になったのでしょう、直後にあった中間試験で、それまでは底辺あたりだった歌い手の学生の一人が、クラスで5番、漢字テストでは2番の成績を取りました。4月17日にのりこ学級と合同で「第1回フェルガナ地方日本語弁論大会」をやりますが、のりこ学級から10人、うちからはまあ3、4人出ればいい、しかし1人や2人では少なすぎるから、そのときは因果を含めて誰かを引っ張り出そうという教師の思案をよそに、7人もが出てきます。手を挙げるのが好きな子たちです。できもしないくせに。1・2年生は「みんなの日本語」10課(います・あります)、語学センターも15課(てもいいです・てはいけません)が終わったばかり、まともなことはまだ何も話せないレベルのはずなのに。こういうのを日本語で「身の程知らず」と言います。でも知らない方が幸せですね。朝赤龍がまだ下のころ、琴光喜を一方的にライバル視していましたが、そのころはどう見ても将来の横綱琴光喜の方で、朝赤龍はよくて大関まで行けるかどうかとしか見えませんでした。勘違いは大切です。外国人はいつもわれわれ哀れな日本人を教えてくれます。
アトラクションの学生の宿泊では、経済大の関係者に一方ならぬお世話になりました。お礼を申すのは、単に一夜の宿りにのみではありません。
フェルガナ大学門出の記念に、「ウルタール」の歌詞を記しておきましょう。17世紀の詩人の作だから、大時代なのはしかたありませんが、いい歌です。

胸の思いを 口に出すならば/心のほむらに 世界は燃える
胸の秘密を 漏らしてしまえば/痛み苦しみに この身はくずれる
恋の病に わがさいなまれ/誰にも訪われず 身は細りゆく
どんな言葉でも いとしい人よ/君のうるわしさ 言おうとすれば
口はまわらず 目はくらむばかり/つぶれる思い 身はこなごなに


<弁論大会への旅>
出場するドンヨル君、アトラクションで歌う5人の学生、随行教師2人に、自費で応援に行く者と菊田さんを加えた一行14人の弁論大会への旅は、楽しいものでした。朝7時集合、10分たったら出発する、遅れた者は待たないぞ、一人で来いと脅しておいたら、7時10分までに全員集合したという「快挙」を成し遂げました(驚く、ウズベク暮らしの長い菊田さん)。パスポートを忘れるなとも念を押しました。州境越えで免許などを調べられるのは全ウズベキスタン共通だけど、フェルガナの場合、峠越えでパスポートも提示させられるので、あまり旅行したことのない彼らには、それも周知徹底しておかなければなりません。みんなしっかり持ってきました。でも、フェルガナって外国なんですかねえ?
ダマスというバン2台に分乗し、一路タシケントをめざします。すっかり遠足気分です。峠の上のまだ雪が残っているところでは、降りて写真を撮ったり、雪玉をぶつけて遊んだり。昼食はみながそれぞれ持参して、車の中で食べます。正統派ウズベク式の旅です。もう1台のダマスを追い越すときには、「やーい、お先に」としぐさや落書き示してこれ見よがし。のりこ学級の子供たちと何らかわりません。ドイラやドゥトールの楽器持参ののど自慢たちだから、もちろん歌もうたいます。やれやれ、にぎやかなことでした。
中にはタシケントに行ったことのない者が2人いたし、行ったといっても子供のころで、実際には初めてに等しい者も何人かいたから、目的地が近づくにつれだんだん静かになって、着いてしまったらおずおず神妙なのがおかしい。地下鉄に乗るのも初めての子が多い。乗降の北駅とウズベキスタン駅にエスカレーターがなかったのが残念でした。やたらに速く長いエスカレーターにおっかなびっくり乗るところを見たかった。
タシケントに着いてみたら非常に暖かく、シャツ1枚で歩いています。こちらは重い冬の革のコートなのに。山からぽっと出てきましたと宣伝するようななりです。これでも半年前はここの住人だったのだが。しかしその後また寒くなり、婦人の日の翌日は雪も降ったので、ひそかに喜びました。これでこのコートを着ていても、山出しに見えません。田舎暮らしは気苦労多いなあ。


<弁論大会、あるいは希望>
弁論大会は青空だ。これが弁論大会をめぐる私の考察の結論です。
たとえば、フェルガナ大学の学生が日本へ行きたいと希望しているとします(いや、仮定するまでもなく、みんな行きたいのですが)。誰か知り合いの日本人に招いてもらうのでなく、自力で行く可能性は、彼にはほとんど閉ざされています。東洋学大学なら、提携校との交換留学があるし、文部科学省の留学プログラムも、日本語を専門とする学生を対象とするか、そういう学生に圧倒的に有利にできているため、得られる可能性が高い。フェルガナ大程度で勉強した者が、ここで競争して東洋学大生に勝てるという想像は、リアリティをあまりに欠きます。民間の数少ないプログラムに応募するか、あるいは勉強して東洋学大に入り直すしかありません。しかし、ここに弁論大会がある。これで勝ち上がってモスクワのCIS大会で優勝すれば(2位もだったか?)、日本へ旅行できます。むろんこれは馬鹿げた夢想で、その可能性は限りなくゼロに近い。仮にできたとしたところで、たかが1週間(か2週間)の旅行だし、プレゼントされる航空券はモスクワ−成田だから、モスクワまでの旅費の工面をしなければなりません。ここはやはり、東洋学大に入って交換留学にもぐりこむ手です。けれども、少なくとも彼はそれを夢見ることができる。「夢見る権利」は基本的人権のひとつです。かつ、その中で最も高い権利です。それに、好成績を収めれば、タシケントへ、中央アジア大会の開催地へ、さらにはモスクワまで行く道がついている。外国へほとんど行ったことのないここの学生にとっては、アルマトィやビシケクでも十分なご褒美だし、ましてやモスクワまで飛行機で行くとでもいうことになれば、近所中の評判になる事件です。たとえ日本へまでは行けずとも。
弁論大会は平民的な催しです。ウズベク大会で入賞するためには、やはり能力試験の3級程度の力は必要ですが、それはそんなに高いハードルではなく、文部省のプログラムのように2級や1級、それ以上の語学力が要求されるわけではありません。多少の才能と考え方の柔軟さ、意志と熱意、そして練習。これさえあれば誰でも加われます。門前払いはされない。「民主的」でオープンだと言えます。
そして、それは「お祭り」です。応援の学生も詰めかけるし、日本語教師のほとんどが集まる上に、現地日本人社会の主だった人も顔を見せる。今年は大使も大臣も来ました。テレビ局の取材もある。幕間に歌や踊りが披露される。そして公の場での表彰。入賞したり優勝したりした学生には何という晴れがましさでしょう。終わればパーティで交歓する。密室で行なわれる孤独で個人主義的な試験とは好対照です。こういう祝祭性こそ、弁論大会の魅力の最たるものになっています。そのため、本来個人戦である弁論大会での好成績が、大学の名誉となります。同輩たちも、次は自分がという気持ちになる。学力が上がる。大学当局も、日本語教育に力を入れてくる。そのような機関には日本からの支援もふえる。諸事整う。上昇スパイラル、「離陸」です。弁論大会をきっかけにして離陸に成功した好例が、サマルカンド外国語大ですね。
弁論大会開催の最初の契機は上から来たかもしれないが、いったん軌道に乗ってからは、教師会その他の現場の、下からのイニシアティヴで運営されています。2、3年ぐらい前までは、CIS大会への出場枠は東洋学大に割り当てられていました。いわば「指定校制度」だったのです。それが国内大会を予選とする形に整えられれた。1、2年前からはほとんどの大学で学内予選が行なわれるようになった。上下へ整備されてきた。審査休憩の間にアトラクションもやりはじめた。自発的で自律的な発展をとげているわけです。
しかし、これだけ隆盛になれば、遠からず弊害も出てくるでしょう。すべての隆盛と同じく。だが弊害がいくら出ようとも、その達成は失われません。
アメリカ嫌いの私ですが、焼け跡の日本に民主主義を紹介してくれたことに対する感謝を忘れることはありません。黒澤明の映画や手塚治虫の漫画に感じるあるものを、私は弁論大会に感じるのです。お望みとあらば、「青い山脈」だって歌いますよ。ウズベクの女の子たちに負けずに。


<終わったとき、少し背丈が伸びているように>
 今年は質問員を務めたので、事前にすべての原稿を読むことができました。その時点で考えた、つまり作文としての良さや完成度による順位予想と、実際の審査結果は大きく違っていました。作文コンクールならきっと経済大から2名の入賞があったと思います。
 昨年も、サマルカンド・経済大・民族大・日本センターで予選を見、質問作成のため東洋学大の原稿を読んでました。その段階で、東洋学大にいい作文が2つあったから、この2人が上位入賞するだろうと思っていた予想が、大きく外れています。発音というのも一つの要素としてあるが、やはりパフォーマンス(日本語での「目立つ行動」という意味でなく、字義通りの意味で)、プレゼンテーション、聴衆へ訴えかける技術や力の部分で、3人入賞させたサマルカンドに一日も二日も長があったと認められます。作文読んだだけでは全然パッとしなかったのに。作文コンテストでも、発音コンテストでもない「スピーチ」コンテストであることを、この結果ははっきりと示しています。
しかし、自分のことを言えば、「スピーチ」の部分では、多少のアドバイスはしますが、基本的に学生に任せ、あまり指導しません。弁論大会は日本語教育の一環であるとして、日本語教育の部分、つまり作文指導や発音指導に領域を限っています。
作文指導というのは、5、6回書き直しを命じること。いいものならそんなに書き直さなくてもいいのだが、ふつうはそれだけやってようやく読めるようなものを書いてきますから。何が言いたいのか学生と話し合いながら、不要な部分を削り、もっと書き込むべきところを指示し、誤りには手を入れる。これを繰り返して、やっと暗誦するに足るテキストになります。彼はこれを暗記するのです。大会のあとは、このテキストにある言い回しを使って話すでしょう。だから文法的な誤りはもちろん、語句や表現においても間違いがないのみならず、適確でなければならない。スピーチの練習を通じて日本語力を向上させるのがねらいなのに、この部分に誤りや不適当な表現があれば、時間をかけてそれを暗記した学生は、大会後かえって誤用が定着してしまうことになる。それは犯罪です。だいたい暗誦テキストというものは、「枕草子」にせよ「太平記」にせよ、プーシキンにせよゲーテにせよ、すぐれた規範となる文章です。弁論大会の場合は、まだろくにしゃべれない自分自身の書いたものを暗誦するのだが、レベルの格段の違いはあれ、本質は同じです。暗誦し、血肉となっていいテキストであること、そのようなものに仕上げることは教師の義務です(誤解のないように。手を入れるのは文章と構成、表現であって、思想は学生自身のもの。それは越えてはならぬ一線です)。
そして発音指導。いい機会です。大勢がいる教室では、どうしてもそこまで手が回りませんから。ウズベク人の発音は決して悪くないし、日本語の発音自体難しいものではない。それでもやはり、おかしな部分はいくつかあります。長音が特に。「おじさん」の話だか「おじいさん」だか、よく聞きたださないとわからない。促音にも問題ある者がいます。それからアクセント。要するに拍ができないのです。あとウズベク人で気になるのは、語頭の「ツ」の音(「ス」になってしまう)、母音「ア」「オ」の区別、連声、「でしょう」「でしょうか」のイントネーション。発音ではないが、助詞の「は」「が」「を」を落したがる癖。かなり根気よく直しますが、それでもまだまだ。ときどき耳元で、お前の「r」と「l」の発音はどうなんだ、とささやく声が聞こえますが、素知らぬ顔で無視します。
大会では、スピーチのあと質問に対する応答があり、これも評価の対象になります。だから質疑応答の練習もします。本来、作文暗誦にとどまらない、学生の日本語力を見るための質問なのに、想定問答の練習をするのは本末転倒のそしりを免れませんが、これがよい練習になるのです。自分で書いた作文だから、内容は当然理解しているはずなのだが、質問を次々にぶつけてみると、スピーチ自体がぐんぐんよくなっていく。質問されることで、内容理解が深くなっていくのですね。質問されるまでわかっていなかったのかと言いたくなるが、そこが人間というもののお粗末なところです。また、一度はクラスの前でスピーチさせ、他の者に質問をさせてみる。練習としてもいいし、出場者は自分たちの代表だという意識も強くなるだろう。
弁論大会の練習は、要するに「一名限定短期集中コース」です。これを通じて当人の日本語力は確実に上がります。問題は人数限定であるところですが、前にも書いた通り学生は同質者集団だから、一人のレベルを上げることによるクラス全体への波及効果はあると思います。刺激にもなります。だが、その費用対効果比は? 低くない、と敢えて言いましょう。


<審査は可能か>
大会後、審査員は非難されることになっています。どんな大会であろうと。気の毒ですが、いたしかたありません。判定の宿命のようなものです。
審判はサッカーファンの構造的な敵です。審判の疑惑の判定でひいきチームが負けた経験のないファンはいませんから。先のワールドカップで、敗戦の責任をすべて審判になすりつけたイタリアが好例です。
世に採点競技と言われるものがあります。体操やフィギュアスケートなどですね。子供のころは人並みに好んで見ていましたが(弟は体操の国体選手だったし)、あるときを境にふっつり見なくなりました。ロサンゼルス五輪の女子体操で、明らかにサボーのほうがいい演技をしているのに、何とかいうアメリカの選手が優勝をさらってしまったことに憤って。しかしこれらの競技の採点は、国際審判として訓練を積んだ人々が、この技はこの難度でこんな点と定められたマニュアルに従って、かなりの客観性をもってつけるのだし、審判の研修も定期的に行なわれています。それでも、これはおかしいのではないかと非難をあびる採点はあとを絶ちません。まして、われらが弁論大会のそのときだけの素人審査員が、非の打ちどころのない採点をするわけがありません。
とは言っても、一応社会的に地位もあり経験もあり、見識もあるであろう人々が集まって採点するのですから、一部の判定に一部の人が、別の一部に他の一部の人が不満だとしても、大勢としては妥当な結果になっているでしょう。審査が根本的に不可能ならば、そもそも大会がこんなに続いているはずはありません。
では、根本的な可能性と、同じく根本的な不可能性の間で、どのような審査方法を取ればいいのか。どのようなものでもいい、というのも一つの(見識ある)結論です。結局最善の方法は存在しないのだし、どんなものでも一定の結論は出るのだから。しかし、最善がない中で限りなく次善に近い方法を見つけようというのも、弁論大会を運営する者に課された義務です。それに参加しようと準備し練習する多くの学生を目の前にしている限り、多くの人が納得できる審査方法の模索は続くはずです。本大会に学内予選、中央アジアやモスクワの各大会と、選抜の上昇階梯ができている以上、選抜方法の公正さと妥当性は追求されねばなりません。
ウズベキスタン大会の1週間後に開かれたカザフスタン大会に審査員として行ってきました。そこでは、内容15点・発音10点・表現力5点・質問10点の40点満点でつける方式でした。こういうやり方をするところはきっとたくさんあると思いますが、この方式には本質的な疑義があります。スピーチは全体としてひとつのものなのに、パーツに分解して評価できるのかどうか。部分ごとに採点して合計を出してみると、あれ、このスピーチはこんなに点が高いの? これはこんなに低いの? と、もう一度計算しなおしてみることがままありました。たとえば小説をこのように部分に分割して評価するという場面を想像してみたら、そりゃ変じゃないかと思うでしょう。客観的なように装っているが、そもそもスピーチを客観的に評価できるものなのか? 発音はできます。だがそれ以外は無理だ。似而非客観性と言わねばなりません。
審査についていろいろ考えた末の結論は、結局スピーチの評価は主観的にしかできない。芥川賞の選考と同じです。審査員が、これがいいと思ったものを推す。それ以外にありません(その結果、村上春樹が受賞しないというところまで含めて)。つまり、それぞれの分野で識見高いと思われる日本人および(最低でも1級以上の日本語力のある)現地人を一定数選び、審査を委嘱する。その審査は、基本的には協議による。今考えているのは、それぞれのスピーチについて、とてもよい(5点)・よい(4点)・ふつう(3点)・わるい(2点)・とてもわるい(1点)という単純な5段階評価をし(アンケート方式)、自分がいいと思うスピーチ5つを選び、1位5点、2位4点、以下5位1点までの順位点をつける(ベストテン方式)。審査員には、まず内容・発音・表現力等でどれがよかったかを話し合ってもらう。区切りがついたところで、5段階評価と順位点を合計したものを呈示する。そして予備の協議と数字を突き合わせ、入賞者を決めていく。いわば文学賞方式です(5段階評価と順位点の部分を編集者の下読みによる最終候補選びと見なして)。これとて問題はあろう。だが、ものはすべて試しです。結果を数字で出したいという要望は強いだろうけれども。


<弁論大会の楽しみ>
私は弁論大会が好きです。楽しみにしています。しかし本音を言えば、いい子ちゃんのスピーチは好きじゃありませんね。けれど入賞するのはたいていそんなスピーチです。個人的には、私はもっと違ったスピーチに楽しみを見出しています。そしてどんな大会でも、私を楽しませてくれるものが一つや二つは必ずあります。
 たとえば、一昨年のウズベキスタン大会の「ぶどう畑の戦争」。夏休みをほとんど葡萄畑の鳥追い小屋で過すという彼の生活の風景がまず面白い。鳥追いの声も実演してみせましたが、それは愛嬌としても、葡萄の花が咲いているときのいい匂いについて彼のお母さんが言った言葉、「天国はきっとこんなにおいだろう」を聞いて、私は葡萄の花の匂いを知りませんが、そうもあろうと感じました。スイスの小説「ウーリ物語」の巻頭で、よく晴れた日曜日、みごとに育った自分の畑を見回って帰ってきた農夫が、妻にどこへ行っていたの、誰と話してきたのと問われ、「神様とだよ」と答えていたのが思い出されました。歴史家やジャーナリストたちは「事件」に群がりますが、こんな「無事件」の中に私たちは生きているのだ。その輝きをいとおしむことに人生の目的の大半はあるのだ、とまで言ったら言い過ぎでしょうか。彼はこれで特別賞をもらいました。スピーチとしては未熟だったこういうもののために、特別賞はあります。
昨年の「マハリャは平和、あなたの家族も平和です」、これも同じ学生のスピーチでしたが、前の号でハタム君も書いていたあのマハリャ(町内会)について、また面白い話を聞かせてくれました。水道もガスもなかった彼のマハリャに、マハリャでいちばんの金持ちがガスと水道を引いてくれ、年寄りたちは彼がいつまでも健康で長生きするように、今よりもっと金持ちになりますようにと神様に祈っているというのです。これを聞いて考えさせられました。人間は平等ではない。生まれながらにその能力や資質に違いがあるのだから。才覚あって金持ちになる者もいれば、世俗的特技なく貧乏な暮らしをする者もいる。重要なのは富の再分配のシステムであり、観念的で実在しない平等の妄想に取り憑かれた社会より、伝統的に富の再分配システムを内蔵し機能させている(前者が「遅れた」と評したがる)社会のほうが、よっぽど健全なのではないかと。
去年の経済大の学内予選に出た「私の天使」というスピーチでは、「私にも天使がいます。彼らはいつも私の隣りにいます。ここにもいます」などと言い出します。「天使はみなさんの間にいます。みんな天使になることができます。はい、私たちは大勢の人が待っている天使なのです」。「みんなの日本語」Ⅰで足りる初級文法で語られたこれらの言葉が、「美しい日本語」でなくて何でしょう。しかし当の、日本語を母語とするわれわれには、こんな日本語が話せるだろうか。「みなさんはアダムとイブの子孫だから、みんな親類です。だから一緒に暮らさなければなりません。その暮らしを楽しみましょう」。素晴らしい論理です。しかしそれが頭に浮かぶことなどついぞなかった。こんなスピーチが、本大会に出ることなく話されているのです。出られないのには相応の理由があるのだが、少なくとも予選をやっていてよかったと思います。
別の意味の楽しさもあります。今年の大会の「自信」で、レーニンが子供の頃羊飼いで、羊の群れの前で演説の練習をしていたという例が引かれているのを聞き、貴族の称号を受けた者の息子であるレーニンについて、民衆レベルではそんな伝説が語られていたのだと知って、伝説愛好家として喜んだというような。
本を読むのと同じです。所詮有限を運命づけられた一人の人間の経験や考え方など知れています。本を通じて自分のとは違う世界に触れること、これが読書の悦びの最たるものです。全然違う環境で、非常に異なる感覚で、同様に真摯に生きている彼らの話を聞いて、かしこくなりたいと念願しています。いや、大真面目ですよ。
しかし、どうも私に愛されるスピーチをしたら入賞できないということのようですね、ここまでの例を見ると。ファム・ファタールか、私は?


<踊るドブネズミ/ナジロフ・ドニヨル>
私はある夏の日、一時ごろとなりの家へものをかりに行きました。そこの主人がものおきに取りに行っているあいだ、中庭でぼんやりしていました。すると、えんだいにのこった食べ物のそばにドブネズミがいるのが見えました。そのドブネズミは二本の足で立って、人間のように食べ物をつかんで食べていました。そして食べおわると、体をひろげて踊るような動きをしました。私はびっくりしました。そのときはじめてドブネズミの踊りを見ました。
またある日、ともだちの女性がハンカチで耳をかくしているのを見ました。どうしたのかと聞いたら、大学の寮で寝ているとき、ドブネズミに耳をかじられたということでした。その後四十回も病院へ注射にかようことになりました。
ある夏の夜、近所の人がよっぱらってうちに帰ってきて、そのままえんだいで寝てしまいました。するとドブネズミがズボンの下からはいってきました。その人はねむったまま、もものかゆいところをたたきました。朝おきてみると、そこに死んだドブネズミがいました。もしたたいてころしていなかったら、男性のいちばん大事なところをかじられていたかもしれません。
このごろドブネズミはウズベキスタンの多くの町や村でふえています。リシタンやフェルガナの町を歩くと、ドブネズミをたくさん見ます。ドブネズミは私たちの家の家畜のようになりました。でも悪い、害をあたえる家畜です。人々は食べ物をいれる箱を作って、てんじょうからつるしておきます。でもドブネズミはそこにものぼって、食べ物を食べて しまいます。にわとりのたまごをぬすんだり、羊の子のおなかをかじってころしたり、メロンやすいかにあなをあけて中を食べてしまい、切ってみるとからっぽだったということもあります。人々はドブネズミから家をまもるためにいろいろなことをしています。それは人間とドブネズミの戦争ですが、いつになっても平和になりません。人間がいくら戦っても、ドブネズミが勝ってしまいます。
ドブネズミはウズベキスタンでふえているだけではなく、世界のいろいろな国でもふえているそうです。アメリカのある小さな町の空港にたくさんいて、飛行機の配線やいろいろな部品をかじって、飛行機を何回もこわしたことがあります。いくら退治しようとしても成果がなくて、空港をほかのところにうつすことになりました。
今のドブネズミは大きくて、ネコも退治することができません。いちばん大きいドブネズミの体長は25から30センチ、ふとさは10センチです。一回に15匹から22匹の子どもをうみます。一年に5回うみます。だから一匹のドブネズミは一年で100匹以上の子どもをうむことになります。一か月たったらその子どもも子どもをうむことができます。いちばん長生きするドブネズミは、5年から7年生きます。日本語にネズミ算ということばがあるそうですが、今世界のドブネズミの数はいったいどのくらいでしょうか。
でもどうして今ドブネズミがふえたと思いますか。10年前とても少なかったです。そのころは畑でしかドブネズミを見ませんでした。それにはいろいろな理由があると思います。ひとつには、畑がへって人が住むところにうつったからだと思います。また多くの人の話によると、外国からたくさんはいってきたんだそうです。でもそれだけではないと思います。ドブネズミはきたないところやごみがあるところにたくさんいます。今、私たちの町やいなかの道や池などいろいろなところにごみをたくさん見ます。今のウズベキスタンソ連時代とくらべてみたら、ソ連のころはドブネズミが少なかったです。なぜならそのころは衛生によく注意していたからです。今のウズベキスタンでは衛生にあまり気をつけていません。多くの人は、これはテロリズム核兵器のような大きな問題ではないと言っています。そのとおりです。でもいつかそのような問題になるかもしれません。
しかし、どうしたらこの問題を解決することができるでしょうか。私の考えでは、衛生によく注意なければなりません。私たちがごみをきちんとごみばこにすてて、安心して生活できるように町をきれいにしておけば、ドブネズミが少なくなるでしょう。小さな問題でも解決しようとしなければ、それはいつか大きな問題となって、私たちの生活や国の経済などに悪い影響をあたえるかもしれません。ネズミは小さいですが、問題は大きいです。
(2004.4.5.)