フェルガナだより(7)

2月の後半から、もう春だと思わせる天気がしばしばでしたが、3月になって、いよいよ春の訪れを感じます。冬の重い革のコートをいつ脱ごうか、もう学生たちは大半が脱ぎ捨てているが、また寒くなることもあるかしらんと、衣更えの時期をさぐってぐずぐずするのも、何か楽しいこのごろです。やれやれきょうも暑い暑いとこぼす日も、そう遠くないかもしれません。
 明日早朝、明後日に行われるウズベキスタン日本語弁論大会に参加するため、学生を引き連れてタシケントへ出発します。スピーチに1人が出るほか、幕間のアトラクションに5人がウズベク民謡を日本語で歌います。フェルガナ大学の初陣、デビュー戦です。結果は問わず、このひよっこたちを連れてタシケントへ行けるのはうれしいことです。今背丈を測っておこう、そして来年その伸びを知ろう。まだ形容詞を習ったばかりの連中が、来年はどうなっているか、再来年には羽織の紐の丈となるか。新設校の楽しみです。


<木を植える>
以前、国際交流基金日本外交協会を通じて行なったCIS諸国の日本語教育機関調査に加わったことがあります。いろいろな地域の事情がわかって、非常に面白く、ためになりました。
どんな機関も大なり小なり問題を抱えており、そしてそれらにはあるパターンがあることにも気づきました。ひとつは、日本とのパイプを一手に握る人物がいて、日本の支援はそこを通ってしかその地域・機関に届かないものだから、彼/彼女が当該地域や機関の日本語教育を壟断しているというケース。もうひとつは、ソ連時代日本語はごく限られた機関でしか教えられていないマイナーな言語で、そういうマイナー言語を好んで学ぶ人には、性格にやや奇矯な面がある場合が往々にして見られます。また、独学で日本語を学んだという人もけっこういます。当時は生活の苦労が少なく、時間に余裕があったから、日本語のような言葉を独学しようという人はままあったし、それは趣味としては非常によい趣味だと思います。ただここでも、日本語にひきつけられる人には少し変わった人が多いという傾向はあると思いますが(日本語と変人の間にはある種の親和力が働くようです、先進地域では)。日本語が盛んになって、各地に日本語教育機関ができると、正規に教育を受けた人はもちろん、独学者にも教師の声がかかります。「超大国ソ連の頃と違い、その崩壊後に日本語教育機関が族生しているのは、ひとつには日本語に商品価値が出てきたためなのですが、そこに「親和力」タイプの教師が不適合な場合は当然あります。
私が見聞した問題の多くは、このふたつの原因(複合しているケースもあります)の諸ヴァリアントであることが多かったように思います。
第一の原因は、日本の当局にも大いに責任があります。日本人はチェックしませんね。カネだけ出して、それがどのように使われたかを調査しない。それがこのような日本の援助を威に借る人物をはびこらせます。ときどき査察すればいいのに。また、オートマチズムも問題です。一度水路がつけられると、援助はほとんど自動的にそのルートを通って流れることになります。これは官僚性の怠惰と言うべきでしょう。
一方で、ソ連崩壊という大事件は、日本語教育に非常に面白いテストケースを提供してくれました。本来ロシアは日本の隣国でもあり、あのような体制でなければ、日本語の需要は以前からあったはずなのだが、凍結されていた。その崩壊後に需要が突然表に現われ、日本語教育機会の爆発的増大を招いたのは理の当然ではあります。各地の要請に答え、個人レベル、民間団体レベル、公的機関レベルで日本人日本語教師の派遣が盛んに行なわれるようになりました。そのため、日本人によって日本語教育が始められるという機関がいくつもあります。われらがウズベキスタンなどは、ほとんど例外なくそうでしょう。むろん、そもそも日本人漂流者を教師にして始まったのがロシアの日本語教育で、それ自体は歴史的に自然なことではありますが、しかしもうすぐ21世紀という時代に、これだけ進んだ国でこういう始まり方をするのは、珍しいと言えるでしょう。日本人が始め、その教え子から現地人教師が現われ、引き継がれていくという発展の道を歩むわけです。日本語教育の側から見れば、これまで常に状況の後追いだった日本語教育学界も業界も隆盛しているまさに今、その眼前で進行している事態には、もっと注意が払われていいし、できるだけ力を添えてやるべきだと思います。後追いでない、主体的で主導的な日本語教育育成のモデルケースになりえます。
初期の開墾時代は日本人が一生懸命働いて、後を任せる現地人教師の育成も考えつつ教鞭を取る。卒業生を出し、彼らに引き継いでのち、現地人教師の手に教育の主務が引き渡されてからは、日本人はお手伝いとして、会話の練習台ぐらいの位置づけで楽隠居する。精励する壮年と、学ぶ若者と、両者に折々アドバイスする客人と。こういう関係に最終的に落着したい。行き当たりばったりでなく、しっかりした見通しをもって計画的に進められ、日本からの援助も、適当なものが適時に適量与えられて。そのようなプランを夢想しています。コースデザインならぬ講座デザインですね。
それを実現させるのにいちばん必要なものは、仕事を任せるに足るよい後任現地人教師です。そして後継の初代教師を選ぶ際に最優先されるのは、性格のよさです。上述の問題原因1・2を切実な教訓として。日本語力のほうには多少目をつぶっても、学生を愛し、向上心を持ち、欲心少なく、恥を知る人に後任になってほしい。日本語力は、交流基金の研修もあることだし、そういうものが受けられればそのうち上がってきます。だが性格は、20歳越えてはもう変わるものじゃない。日本人教師なら2、3年たてばいなくなるけれど(その短期間に講座をガタガタにしてしまう人もいますけどね)、現地人教師の場合はスパンが2、30年で、それこそ一生の不作になってしまいます。
この計画の最大の障害は、ちょっと度を越えた教師の薄給です。人材は金のあるところに集まります。バブル期の日本に泰西名画が流入したように。ぜひ教師になってほしいとこちらが思うような者は、もっと給料のいい他の職種に流れていくし、それに対して当人に苦情を言うわけにはいきません。当たり前ですから。特に一家を養わなければならない男の場合はなおさらです。現在の教師の給料では、アルバイトをし、副収入を得なければ生活できません。教師の場合、ふつうには知識を売る家庭教師やガイドの仕事が副収入源になります。ほかのもの、たとえば成績を売ることもあるが、それはあってはなりません。
しかし一面で、時間に余裕があり融通がきく職業でもあるので、女性には向いていると言えます。ステータスも高い。大学教師ならなおのこと。日本とのコンタクトも常時あるので、日本に行く機会も出てくるかもしれないし、思わぬ余得がないことはないでしょう。とりわけ、首都以外の、日本語を教える以外に習った日本語を活かす道がない地域では、日本語教師はそれなりに魅力的な進路であるはずです。
だが、若い女性は結婚というジョーカーを持っています。後継者に、と育成していたものが、日本人と結婚して日本に行かれたりしたら、計画は台無しです。日本でなくても、他の地域や外国に転出してしまう恐れが常にある。まったくもって事業計画の敵だが、そんな彼女らをうらやましくも思っています。お婆さんになるまでひとところに根をおろして、土地の伝統のよき守り手にもなれば、同胞たちの世界認識の片隅にもない土地に移り住んで、嫁ぎ先の言葉を覚え、子供を産み育てている。ボスニア内戦の時、どこか名も知らぬ村に住んでいた日本人女性のことが報じられたのを思い出します。受け入れる性である女性は、男に比べてよほどパッシブなはずなのに、パッシブゆえのアクティブさがあります。そのあり方には魅了されるのは、私だけではないでしょう。結婚して姓が変わるのも、名前を一生引きずる鈍重さに慣らされている者から見れば、一種の特権のように思えるのですが。夫婦別姓というのはよくわからぬ要求です。中国や韓国、ハンガリーなど、伝統的に夫婦別姓の国なんて、みな家父長ゴチゴチではないですか。そんなに父親の姓を愛しているのか。お父さんっ子なのかしら。
閑話休題。誰がなるにもせよ、よい後任現地人教師を得ることに講座の命運はかかっていると言えます。そこに適任者を得て、日本で研修を積ませて後事を託し、順調に育っていく教室を残して去りたいものです。
人の生涯の務めは三つあるそうです。親の葬式を出すこと、子供を結婚させることと、木を植えること。どこで聞いたのかもう忘れてしまったけれど、いかにもそうだと深くうなずきました。二番目はもう成らぬこと、三番目も言葉通りのことはやらないと思います。だが、これがまさに「木を植えること」ではないか。以前、帰国を決めていたのをやめ、フェルガナに赴任したと漏らしましたが、そう決意した裏には、「木を植えたい」という希望があったからです。山間の別天地に、出世主義と無縁な、地域の需要を満たすだけの小さな花を咲かせたい。「別天地」などではない、生活臭も欲も他に劣らぬ娑婆の一隅と心得た上でなお、それが私の望みです。


<フェルガナうまいもの尽くし>
私の食に対する要求はかなり低くて、そのため、自分で料理もせずに、美味をもって鳴らない国で庶民レベルの生活をしていても、割合に平気です。うまいものはうまいなあと言いながら食べ、まずいものはまずいなあと言いながら食べ、どうであろうと何も残しません。それこそご飯粒一つ、キャベツの切れ端一本にいたるまで口中に収めて、うまくもまずくもない顔をしています。美悪無差別悉皆仏性。自称して曰く、皿洗いの友、野良犬の敵。ドイツにいたとき、そこの人々が食べ終わったあとパンで皿拭って磨いたようにきれいにするのを見て、ああ、かくてこそといたく感じ入ったような人間です。できればそうしたいが、日本人たる私には最後にパンを食べるのは後口が悪く、せずにいるのが何とも贅沢な奢りの沙汰で、無念です。
こんな人間に食べ物のことを書かせてもあまり面白くないでしょうが、面白い面白くないは読む人に決めていただくことにして、私はまあ試みに書いてみます。
うまいものは安い、というのが持論です。たとえば水。山中の村ではよい水源が手近にあって、コストもほとんどかからぬため、ただのような低料金で供される一方、都会地の水は、浄化に手間も金もかけているので、ひどく高く、かつまずい。初めて大阪の水道水を飲んだとき、カルキ臭に辟易し、これも水なのかと驚いたのを思い出します。夏にハンガリーからスロヴァキアへ行ったとき、国境駅で待ち時間が長かったので、ついビールを注文してしまいました。スロヴァキア領内に入ってから、しまったと思いました。ビールはこちらのほうが安く、かつうまいのです。チェコのビールは有名ですが、スロヴァキアもなかなかのもの。対してハンガリーのはこの二者とは比べものにならず、加えて高いのです。今はなき宇高連絡船に乗ったことが一度だけありますが、うどんがうまいと聞いていたので食べてみたら、なるほど評判にたがわなかった。無論値段も場所相応です。連絡船のがこんなにうまいとは、讃岐うどんの底力が知れます。ドイツでは立ち食い屋台の焼きソーセージが、どこで食べてもことごとくうまい。時間がなかったり金がなかったりしてそんなところですますのに、これがうまいのだから本当にうれしい。ルーマニアにいたとき、イギリス人の同僚が、故国のフィッシュ・アンド・チップス(タラのフライとポテトチップスを新聞紙にくるんだもの)がいかに美味かを、指を合わせ、中空に視線を漂わせながら、夢見るように語っていました。私がイギリスで食べたものはたまたままずかったので、そうは同調できなかったけど、その心情はわかります(イギリスでは、ここはティーの国だからと思い、スーパーでビスケットの棚を見たら、あるわあるわ、しかもみんなけっこうな味でした)。ウズベキスタンならさしずめ、あの濛々とうまそうな煙を立てているシャシリクでしょうか。給料が出たらシャシリクを食べようというふうに、ウズベク人の頭の中では両者がパヴロフの犬並みに結びついているらしいのも、何だか聞いていてうれしくなる話です。フェルガナのはスパイシーでおいしいですよ。「ブハラ」というアパートの近くの大衆食堂の白身魚のフィレのフライ、500グラム単位で注文するんですが、これも安くておいしい。あ、これはタシケントか。フェルガナのプロフはタシケントのよりうまいと思います。今まで食べたいちばんおいしいプロフは、ハタム君のお母さんが作ってくれたものでした。
しかし何といっても、美味なるものは果物です。季節にはおいしい瓜やメロンが市場に山積み。いい眺めです。無論安い。モスクワへ行く飛行機の乗客のほとんどが、手に手にラグビーボールのような、あるいは爆弾のようなメロンを提げて搭乗口に向かっているのは見物でした。寒いモスクワの住人にこの上ないおみやげです。安いんだし。リシタンでのりこ学級の子供たちとサッカーをしたあと、校庭の草の上でナイフ一つで器用に汚さず食べやすく切り分けてくれたメロンの味が忘れられません。運動のあとで、渇いた喉にもすいた腹にも甘露でした。土をつけずに切る手際のよさにも感心した。やりなれている。水に乏しい乾燥地に、水気をたっぷり湛えた極上のメロンや葡萄が豊富に生るのは、自然の妙、神の贈り物としか思えません。
マルギランからリシタンへ行くために、タクシーを拾ったことがあります。乗る前に、同行者の一人がトイレに行きたいからちょっと待ってくれと言ったら、運転手は連れていってやると言って、車を出します。そしてずいぶん走った途中の村で、でこぼこの細い村の道に入っていきます。トイレというのは彼の家の便所のことでした。このあたりのウズベクの家の例に漏れず、中庭は葡萄棚になっており、彼の母親や姉なのでしょう、子供を遊ばせていた家人たちがよく実った一房二房もいで供してくれました。それは特によい出来の葡萄ではなかったが、意外な家庭訪問の驚きとともに、いい思い出になっています。
日本ではめったに食べない柘榴もいいですね。子供のとき以来、この地に来て30年ぶりぐらいに食べたのではないでしょうか。酸っぱいだけの印象しか持っていなかったが、ここのは酸っぱい中に甘みがあります。ザクロジュースもそう。天然自然の自家製ジュースだから、味にはばらつきがあるが、良品は奥深い甘みがあって、癖になりそうです。体にもいかにもよさそうだし。
夏には、アイロンという飲むヨーグルトを道端で売っています。リンゴなどがつけてある。ガニティコでリシタンへ向かう道で飲んだものはおいしかった。ただ、やはり作る人によって味はさまざまだと思うし、飲んで腹をこわす人もきっといるでしょう。タシケントからの峠越えの道で鮎に似た魚を買ったのもガニシェル氏とのドライブでしたが、これを揚げたやつもよかった。カイマックもいいなあ。これを使ったケーキはこってりして実にいい。毎朝牛乳売りのおばさんが節をつけて呼び歩く「マラコー、ケフィール、カイマーック」の声が耳にやさしく、なつかしく響く。マラコー(牛乳)はロシア語だが、するとウズベク人は昔は牛乳を生で飲むことはしなかったのかなと、ぐずぐずなかなか離れられない寝床の中でふと思います。
――どうもいけませんな。道端で売ってるものばかりじゃないか。道端といえば、辻々に日がな一日座っているおばさんが、低いテーブルの上にヒマワリのタネやバラ売りのタバコと並べて置いている白い丸い物をご存知ですか。クルトという酸っぱい乳製品で、日本人には決して好まれるものじゃありません。しかし、モスクワの弁論大会に行くとき、ウズベクの女子学生2人と同行しましたが、うち1人が初めて乗る飛行機に酔ってしまいました。そのときもう1人があのクルトを取り出し、勧めました。彼らは乗り物酔いのとき好んでこれを食べるそうなのです。友人に勧めたついでに、「先生もどうですか」と言われてしまって、私はちっともうまいと思わないし、こんなものを食べては逆に酔ってしまうのではないかと恐れたが、ウズベク人がこんなときに飛びついてまで食べたがるのはめでたくゆかしいことと思い、ご相伴に与かりました。
葡萄の産地なのに、ワインにはあまり感心しません。「オマル・ハイヤーム」という銘柄の赤ワインはまずまずだった。「アンデジャン」というこの地方のも、それより劣るが、悪くなかった印象があります。コニャックの「ベルクート」もいいが、盆地の産品ではないようです。ビールはまずい。「パトリオット」というのがフェルガナのビールですが、タシケントの「キブライ」と並んで、ただでさえまずいウズベクビールの中でも、両横綱が張れます。だがそれを言うなら、ハバロフスクの黄色い「ハバロフスカヤ」もまずかった。あんまりまずいので、ぜひもう一度飲みたいと願っています。地酒を飲むのは、その土地の魂(スピリット)を体に入れること。お、これはまずいぞ。お、これはもっとまずいぞと、嬉々として不味なビールをせっせと飲んでいます。うまくもない駄菓子を喜んで食べるのと同じです。所詮嗜好品に過ぎぬもの、うまかろうがまずかろうが大事ない、うまければうれしいし、まずくてもうれしければけっこうなことではないか、と本気で思っています。
学食やその他の簡便な大衆食堂では、カウンターで料理を受け取るセルフサービスなのに、支払いは出るときでいいというところが多くあります。食べ終わって外へ出て、あ、まだ代金渡していなかったと気づき、払いに戻ることも一再ならずありました。まるで茶店の払いですね。ソ連時代を懐かしむ昔話に、あのころはポケットにいくら金が入っているか全然気にすることがなく、たまたま持ってなくても一緒にいる誰か払ってくれ、それを互いに気にも留めていなかったと言います。失敗した体制とはいえ、その美質までも否定しようと思わず、満州国同様、経験してもいないくせに妙なノスタルジーを覚えるあの雲散霧消国家を、わずかに感じることのできる一例かと思い、ひそかにうれしく思っています。それともわが江戸時代や明治時代を髣髴すべきでしょうか? 概してフェルガナには食堂が多く、それも民家を転用した大衆食堂が多い。味はと言うと、私はまずまずおいしくいただいています。しかしこんな者の言ではどこまで信用できるか。上に述べた私の性向を参照の上、各自それぞれの率で割引して受け取って下さい。
日本に帰ったらまず何を食べたいか、とはよく聞かれる問いです。私は、ただ焼いただけの魚が食べたいですね。最善は塩ジャケの塩をふいたやつ、次善はサンマ。別格で、子持ちシシャモもぜひ食べたい。無論すしもさしみもうなぎも食べたいが、そのあとでいい。まずは焼き魚が食べたい。――ああ、まずいことを書いてしまった。頭の毒だ。思い出さねばよかったものを。


<最長不倒>
3月3日にのりこ学級教師渡辺寛成氏が帰国しました。6ヶ月の長期滞在は、歴代教師の中でも創立者の大崎氏に次ぐ長さです。しかも9月から2月という人のあまり来たがらない冬期に赴任してくれたのは、学級としては大助かりだったでしょう。滞在期間中にラマザン(断食月)があったのですが、土地の人もみながするわけではない断食を守り通しました。この期間、朝陽が昇る前に食事をし、日中は水分も取らず、夕方陽が落ちてからまたしっかり食べます。しかし二度ばかり、ガニシェル氏がたまたま不在、奥さんも夜勤で出ていて、朝食をとるガニシェル家の門が閉まっていたことがありました。午前4時、彼は門を乗り越えて中に入り、台所で食事して帰ったといいます。日本人には義務でも何でもない断食を守るためにそこまでするかとみな感心し、聖者という評判もたったそうです。実にもの静かで、絵が上手、書道は八段、夜はギターをつまびいているような人でした。喫茶店を開くのが夢だそうですが、静かな店内で、心地よい音をたててコーヒーを注いでいるのがいかにも似合っています。前途に幸多からんことを祈ります。
(2004.3.4.)