フェルガナだより(11)

連日40度前後、アパート内の室温も30度を超えています。暑い。それはもう非常に暑いのだけれど、湿気が少ないので、日本の夏よりずっと過しやすい。5度以上楽な気がします。最低気温25度以上はいわゆる熱帯夜で、寝苦しいったらない。もうじき帰る故国のあの夜を思い出すだけで、げっそりします。ここの寝室は昼夜を問わず31度で一定しています。その数字だけ聞けば驚くでしょうが、どうして、日本の熱帯夜ほどに寝苦しくはありません。40度の日中も、炎天下はさすがに暑くてたまらないけれど、日陰ならけっこう涼しく、これでそよ風でも吹いていたら、快適と言ってもいいくらいです。
最初の年は8月末にタシケント入りし、あまりの乾燥に唇がカサカサになり、リップクリームを塗ろうかと本気で考えましたが、1年後には、唇がどうのなど全く気にもとめなかった。人間は何にでも慣れる動物ですね。以前ハバロフスクにいたとき、最高気温がマイナス二桁というような日々が続く冬の終わりに、今日は暖かいなとコートのいちばん上のボタンを外し、襟元を緩めたその日の最高気温が0度ちょうどでした。東京なら、寒い寒いと襟を立て、身を縮めて歩いているところです。いや、ゴキブリの悪口など言ってはいけませんね。ホモ・サピエンスのほうが絶対にしぶとい。


<試験結果>
授業は6月で終わり、試験期間ももう終わって、学生は田舎に帰りました。1・2年生は「みんなの日本語」17課まで、語学センターは20課までで休暇です。
1・2年生で最後まで残った10人(他にもう1人いますが)を見ると、中間試験としてやった「標準問題集」の第1−8課復習では、最高点が80点、最低点が43点、平均61.5点。学年末試験では同復習9−17課をやり、最高91.4、最低57.1、平均75.1。中間試験が終わった段階では頭を抱えましたが、期末では上下差もやや縮まり、全体に10点以上あがったので、まずまず安堵しました。
期末のあとに、希望者のみ日本語能力試験4級の過去問(聴解を除く文字・語彙と読解・文法のみ)をやらせたところ、3人が合格レベルに達しました(といっても6割ですから、低い基準です。しかし未習事項もいくつもあったのだから)。もう2人も、このタイプの筆記試験に慣れておらず、馬鹿正直に最初から順番に一問一問ゆっくりゆっくり解いていって、時間切れに泣いていたが、要領を呑み込んでやれば、十分合格レベルを超えたと思います。実質7、8か月で半分が4級なら、発話力会話力の低さは気になるものの、よしとしていいかと思います。来年の飛躍に期待です。


<非物量主義>
だれかに「新しい効果的な教え方」を紹介されても、これこれをコピーして配布すると聞いたとたん、ああ、それじゃだめだと思います。コピーすら一種の貴重品で、そう近いわけでもないコピー屋へ出向くか学生をやって、少なからぬ額の代金を払って(私の給料はコピー800枚分に過ぎません)作るのだから、有効に使わなければなりません。単発一回限りの授業に使うような贅沢はできない。ましてビデオが必要ともなれば、どこか遠い世界の授業法としてありがたく聞き置くだけです。
そんなコピー事情の当地のかわいそうな学生たちは、B5判をA4に拡大するということすらしてもらえず、見開きB4をA4に縮小コピーしたものを渡され、胡麻粒より小さく薄いルビを読んでいます。眼鏡屋の回し者だなあと自嘲しています。
日本の教え方は「物量主義」ですね。コピーはふんだんに、羊に食わせるほどばらまき、テープ(もとい、CD)やビデオ(まだDVDではありますまいが)は使いたい放題。教材教具自在に使った授業が提供されます。だが、コピーについては上記の通り、テープもビデオテープもほとんどなく、ビデオデッキを使用するにもあれこれ手続きのいる当地のようなところ(ごく一部を除いた世界の大半はこんなものか、あるいはこれ以下です)では、そんなやり方はしたくてもできない。物量があったほうが効率がいいし、効果もあがるにちがいないとわかっていても、「非物量主義」の道を歩みます。それは物理的にそうできないという事情のしからしめるものでもありますが、敢えてしないという立場にも立つものです。
ハバロフスクにいたとき、ビデオを見るため日本センターで授業をする手筈にしておいて、いざ出かけてみると、その日は停電で使えない。大いに困りましたが、一方で痛快でもありました。「電気なければただの箱だ」。電気は常時あるものという誤った考えによりかかった方法が一瞬にして粉砕されて、困惑しつつもおもしろかった。教育機器とは結局、黒板と白墨、紙と鉛筆だ。そんなアナクロめいた主張の心底からの信奉者になりました。それだけで、あるいはそれすらなしに、言葉を習得していった多くの先人があるのだから、それでいいじゃないかと大真面目です(困ったものですねえ)。
イラン映画でしたか、黒板を背負い、村を巡回して教える教師の話を見ました。実話かどうか知りませんが、まるまるのフィクションでもないでしょう。戦争後教育が再開したアフガニスタンの野外学校の姿も印象的でした。物量と創意工夫が対峙するような状況があれば、断固として後者の側に立つ。そう考える、「教育の機会均等」を奉じる者は、少なからずいるでしょう。国が貧しいのは、親たちの責任ではあるかもしれないが、子供たちの責任ではないのだから。
そんな「非物量主義」の教育法の経験の蓄積も、きっとあるはずです。それらが交換できたらいいなと思います。


<この本棚が満ちるとき>
子供の頃の刷り込みなのでしょうか、毎夕「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」と聞いていたものだから、すっかり笑うのが好きになってしまいました。フェルガナ弁論大会の前日、突如日本文化センターに現われた本棚が、終わると運び去られた顛末も、不愉快より滑稽の勝る出来事と思っていました。私が責任持って別なのを買うからという国際部長の言を信じて、運び出されるに任せたのですが、そうしたら、小誌を読んで下さっている笹川平和財団の有志の方が、本棚の購入費を募って寄付して下さいました。また大使からは、ご使用のワープロをいただけることになりました。ありがたいことです。笑う門には福来たる、でしょうか?
これは偏った喜び方かもしれませんが、公金によらず、私的なイニシアチブによる浄財、志であるのを、非常にうれしく思っています。むろん、支援のプログラムに則り、システマチックに整備するほうが、規模も大きく内容も充実するに決まっています。個人的なご芳志によるだけでは、どうしても継ぎはぎだらけ、穴だらけになりますものね。しかし、そこには人々の「温度」があります。またそれは、「過程」、どこか到達不可能なところにある「完成」を目指して、少しずつ登っていく道の、身の丈でなすことのできた「分」を示しています。すでに本棚のひとつは仕上がって搬入済み、残りふたつも来週運び込まれます。実を言えば、目下必要な本棚はひとつだけです。蔵書は数えるほどですから。3つ買えるほどの金額をいただいたので購入しますが、当面は本のない本棚がふたつ並ぶことになります。それもまた愉快な眺めです。初年度、蔵書ゼロから始まった本学日本語に、大使館や日本センター、JETROが本を持ってきて下さった。いただいた本の置き場に困っていたら、それを聞いた善意の方々が本棚を寄付して下さった。今度は本棚が多すぎて、空棚が並ぶ。こんな跛行が大好きです。永遠の未完成、空白が努力を促します。われわれはいつも途上にあります。学生時分東京に住んでいて、この町はいつもどこか工事中で、決して完成することがないのに気づき、奇妙な感動をおぼえたのを思い出します。財団有志の方々のおかげで、枠組みができました。まだ始まったばかり、教材も書籍も少ないのは当然、学生たちはまだ読みこなすことなどできません。彼らの成長とともに、本棚も込みあってくるだろうし、ぜひそうあってほしいと思います。


<オシュ>
公園が町の中心で、その周囲、飛行機から見れば緑に埋まり家の見えない部分が市心というフェルガナと同じくらいおもしろいのが、先日行った、中心が突兀と聳える岩山(スレイマン山)のオシュです。
オシュ国立大学でも日本語を教えていると聞いていたものだから、束縛のない身の気軽さで出かけてきました。国境のすぐそばなのに、ウズベキスタンより涼しかった。目にはそれほど見えぬながら、やはり山が近いのか。町中を流れる川も流れが激しく、岩が転がっていて、日本の川のようでした。人口は25−30万人だそうですが、岩山あり谷川ありで道が狭く、とてもそのようには見えません。
オシュ大学で日本語が始まったのは1999年。私たちが訪ねた日は偶然、初の卒業生を出した日でした。統合国際教育学部の東洋学科の4人です。この学科の日本語専攻で学ぶ学生は全部で28人、今年度から同じ学部の国際関係学科でも日本語が始まり、そこで10人が勉強しています。週5コマも授業があるというから、かなり真面目な取り組みようと言えましょう。教師はみなキルギス人で、東洋学科の先生2人はタラスとナリンの、国際関係学科の1人はウズゲンの出身です。3人ともビシケクで日本語を学んだ人たちですが、ウズゲンはオシュから50キロほどだけれども、あとの2人は、ビシケクまで行ってさらに乗り換えねばならないところから来ているわけです。
オシュからビシケクまでの距離がいくらか正確には知りませんが、フェルガナからタシケントまでの300キロよりあるでしょう。バスがないというのはフェルガナ−タシケントと同じですが、4、5時間程度のここと違い、乗合いタクシーでも12時間かかるそうです。3000メートルを超える峠越えが二つもあるのだから、それはたいへんです。対して同じ盆地内のフェルガナ−オシュはわずか100キロ、むろん平地のドライブです。スターリン国境線の理不尽を如実に感じます。ナマンガン北方の出身の学生がいましたが、オシュまで4時間かかるそうです。それはそうでしょう。彼女の町からオシュへは、ウズベク領内のナマンガン・アンディジャンを通るのが自然なルートなのに、ウズベク領を迂回して、遠回りをして来るのですから。同様に首都から無情に遠い、しかし互いにはしごく近い二つの大学の日本語教室が、その存在を知らず無関係に存在しつづけていいのか。今回は行けなかったが、ジャララバードという町の大学でも日本語が教えられているそうです。だがビシケクの日本語の専門家に聞いても、ほとんど情報が得られなかった。その程度の位置づけなのでしょう。
わずかの時間話しただけですから、学生の学力が測れたわけではありませんが、会話力だけについて言えば、同行してもらった、フェルガナ大語学センターで1年勉強しただけのあの「ナマンガン」の学生のほうが、ずっとよくしゃべります。しかしこれはいたしかたのないことで、ネイティブ・スピーカーが全くいない状況では、会話の能力はつきようがありませんから、それをもって推し量るのは不適当です。とはいえ、日本人がいない不利は絶対にありますね。大学としてももちろんほしいにちがいないが、ウズベキスタンにおけるフェルガナと同じような状況が、キルギスにもあるのでしょう。つまり、あのバトケンの日本人人質事件、キルギスではウズゲンの民族衝突、ウズベクではメスヘティア・トルコ人襲撃がたたって、日本の当局に危険地帯の烙印を押されたまま、なかなか解除されないという事情です。ここが平穏無事なのは、「フェルガナだより」に陰に陽に記した通りなのですが。
しかし、オシュなどまさに協力隊を派遣するべき土地です。ウズベキスタンはたいへんいいところですが、非常に腹立たしいことがひとつあって(え? ひとつ?)、ウズベクの機関というのは、日本人が来て、来ることになって初めて日本語教育を始めますね。現地人教師は取りたがらず、日本人が来なければ日本語やめようとさえ考えている節があります。しかも援助付きを当然と思っている。実に不愉快で、そんなところからは即刻手を引いてもらいたいと思います。癖になる。自助努力は援助の前提条件です。オシュ大学は、日本人が来なくても、ビシケクの大学から地元出身でない教師を招いて、授業コマ数も手厚く、自力でやっています。日本語の教室もあり、そこにキルギス人の教師たちは手製の五十音表や漢字表、自動詞・他動詞の一覧などを貼って、血の通った心地よさを醸し出しています。今年度は教師をふやしてもいるのです。援助の薄さは蔵書の少なさにうかがえます(だから手土産がわりに、たまたま土地の本屋にあった「和露英会話帳」を買って1冊寄付しました)。ビデオデッキはあって、これはフェルガナ大よりいいですが、しかしソフトがありません。ここを助けなくて、どこを助けるんだ。もし来年もフェルガナに残るなら、折を見て1週間でも2週間でも教えに行ってあげたいと思いました。
来年2月頃に行なわれる予定のフェルガナ弁論大会に、オシュ大学からもぜひ学生を招きたいと思いました。官は、中央は彼らの論理で動きます。中央を介さない地方と地方の連携というのが宿願のようなテーマになっているので、これはぜひ実現したい。
いろいろなことを考えさせられ、スレイマンの岩山に登った足の疲れなど顧みるいとまのないほど、充実した隣人訪問でした。


<知的協力委員会>
本が好き、本屋に入ると心が落着くという哀れな性向の人々は、きっと少なからずいると思います。その方々はもう何度もぼやいているだろう通り、ウズベキスタンにはろくな本屋がありませんね。タシケントではナヴォイ劇場の横の東方書店がまずいちばん大きいのだろうけど、あの程度。フェルガナはもっとひどくて、この町にはツム百貨店の横の本屋しかないのではないかと思いますが(少なくとも私はそこしか知りません)、そのありさまときたら、客のこちらがみじめな気持ちになってしまいます。本はいきおい屋台の露店で買うことになります。それに引きかえ、アルマトィには立派な本屋がいくつもあるよ。ビシケクもそうだ。―― ちょっと待って下さい、本当にそうですか? アルマトィやビシケクの本屋からロシアで出た本を除くと、何が残るでしょうか。カザフ語やキルギス語の書物はごくわずかで、ほとんど全部がロシアで出版されたロシア語の本です。ウズベキスタンの書店にはウズベキスタンの本が並んでいるのだから、実は進んでいるのはこちらのほうなのです。ロシアの本を本屋に置かず、露店で売らせるのがいいのかどうかは別にして。
日本語も含め、ロシア語ができないと学問ができないという状況は、カザフ・キルギスではまだ続いているし、ロシア語離れが進んだかに見えるウズベクだって、やはりそうです。英語の文をウズベク語に訳してもらうと、彼らはまずロシア語に訳し、それをウズベク語に置き換えますからね。そうもあろうと思います。辞書や参考書はロシア語なのだから。フェルガナ大の日本語学習者の多くが英語学科の学生ですが、彼らと英語で話したことはほとんどありません。ロシア語できない者は、英語の力も低いのです。英ウズ辞典も最近出てはいるのだが、600ページ、収載25000語をうたい、8000スムで売られているものに、sleepが載っていなかったりするのだから、発展途上と言うも愚かです。英語力とロシア語力の正比例関係は、まだしばらく続きそうです。
現状はこうだ。だが将来図は? 心ある人々は、国のあり方について考えを持ち、ビジョンを描いているはずだが、それに自分たちの母語での教育というのは含まれているのでしょうか。何ら関係のない部外者の私が言っても詮ないことではありますが、母語による教授を目標としてもし掲げるのなら、中央アジアのテュルク語諸国は、ある国の言葉で書かれた文献を、同系で互いによく似た自分の国の言葉に訳し(それは異なる系統の言語から訳すよりずっと容易です)、自分のものは隣人に提供し、そういう「知的協力」を通じて、相携えて進んでいくべきだと考えます。国内に少数民族としてかなりの数の隣国の民族が居住し、彼らはバイリンガルであるのだし、相互に留学生を交換して、それによっても、一人では手に余る仕事を、三人(あるいは四人)で分担して行えるではないか。
そして、われらが日本語も、それに力が貸せるのではないだろうか。今、交流基金の「基礎日本語学習辞典」を底本にして、「日ウズ学習辞典」を作っています。完成ののちには、これを翻訳し修正加筆して、キルギス語版、タジク語版、カザフ語版を作れば、労少なくして学習者の役に立つ辞書ができるはずです(カザフやキルギスでのそのような辞典の需要がどのくらいかわかりませんが)。やってみる値打ちはあるのではないでしょうか? オシュへ出かけた理由のひとつにも、この大学の教師たちに、キルギス語版作りをしてもらえないだろうかと考えていたことがありました。しかし彼らはみなキルギス人で、1人を除いてウズベク語ができないから、難しいようだけど。しかし私は、オシュでキルギス語版が、フジャンドでタジク語版が作られ、利用に供されるという夢想から脱することができません。フェルガナ盆地は、地域的統一性を無視した馬鹿げた国境線が引かれています。それは本当に腹立たしく愚かしいことなのだけど、アルザス・ロレーヌではないが、多くの血が流された独仏係争の地が統一ヨーロッパの「首都」と変じたように、この理不尽な線引きに悩むフェルガナ盆地、誤った血を流したフェルガナ盆地が、中央アジア統合の魁となり要となる日を夢見ています。一年ぽっきりのフェルガナ滞在者が、何を寝言をと笑われるのは承知の上で。
日本語を学ぶことを通じて、隣人と連帯する。それが私の見果てぬ夢です。


<読書大国・ソ連
 タシケント時代の話ですが、モスクワの弁論大会に行ったとき、古本屋でレールモントフ全集(3巻)を見つけ、買おうかと思ったが、手持ちが少なくなっていたのであきらめました。300ルーブル(約1000円)だったから、決して高いわけではない。タシケントにもどってから古本屋をのぞくと、同じ全集が1500スム(約150円)。初め値札を見たときは、これは1巻の値段で、全4巻で6000かと思いましたが、揃いででした。いいことしたような気分になって買い求め、モスクワで無理しないでよかったなと喜びましたが、次にその店に行ったら、また同じ4巻本が並んでいました。古典作家の全集は、おそらくものすごい量の在庫があるのです。なぜか。むろんロシア人のロシア移住の結果です。重くてかさばる本の類は、必要なもの以外は二束三文で売り払って出国するのでしょう。それに同情することもできるが、私はむしろ、たとえ実態がインテリア装飾に近いものだったとしても、古典文学の全集をいくつも買い揃え、並べていたという生活に、一種の憧憬を感じます。
いや、だがわれわれが思うほどに壁の飾りではなかったかもしれませんよ。以前カザンやハバロフスクの学生にアンケートを取ったことがあって、そのとき、彼らの95%が「戦争と平和」や「罪と罰」を読んだことがあるというのを知って、驚いてしまいました。わが国の国民的作家の代表作、まあ漱石の「こころ」としましょうか、これについてこんな数字が出るだろうか? ブッシュ大統領など、トルストイドストエフスキーも読んだことないだろうし、作品名三つあげろという問いにも満足に答えられないのではないでしょうか。読んでないほうにフェルガナ大の給料全額賭けてもいい(あ、セコい。すごい少額)。でもオッズは限りなく1に近い。そんな利率でいいのか、資本主義最強国のトップとして。ブッシュ支持のアメリカ人、イラク戦争に賛成したアメリカ人も、圧倒的多数は読んでいないことでしょう。
彼らのそのような「無教養」を嗤ったあとで、ではそんな読書人の多いソ連が、崩壊後ロシア連邦共和国になってなお、独裁者の国であるのはなぜなのかを考えなければなりません。古典の享受においてはるかに後塵を拝するアメリカのサイレント・マジョリティが、なぜ「民主的」で「常識ある」のかについて。
ソ連というのはいろいろ考えさせる問題を提示してくれます。今なお興味の尽きない練習問題帳です。


<「楽園生活」>
私の衣食住に対する要求水準はかなり低いので、フェルガナの1年は、まるで楽園のようでした。しかしこの「楽園」には、いくらか注釈が必要です。
衣料品は、日本から持ってきたものを着ればいいのだから、問題はないと思います。女性の場合は、仕立て屋に服をつくらせるという楽しみがあります。仕立賃が安く、生地は種類が少ないものの、これも安いし。
食べ物については、食堂で食べる場合、油っこさ、またメニューのヴァリエーションの少なさにも、困る人は困るでしょう。プロフ(ピラフ)、ラグマン(肉うどん)、チュチワラ(水ギョーザ)、ビーフシュテクス(ビフテキにあらず、ハンバーグ)、シャシリク(串焼き肉)。まずこれだけのものをローテーションで食べます。正しい日本人なら、しっかり自炊すべきです。幸い朝鮮系の住民が多いので、キムチ(に似たもの)やその他の韓国風惣菜を売っています。白菜もある。タシケントでは豆腐もあります。たまにタシケントへ出たとき、中華料理店や韓国料理店へ行くのが無上の楽しみで、これは、いつもそんなところへ通っている首都住民には味わえない、餓えた者の幸福です。
住居で言えば、水まわりでは必ずトラブルがあります。1年いて、漏水その他の問題が全くないというのは、決して抱いてはいけない種類の期待です。ここでもトイレの水漏れに悩まされました。修理されるまで毎日何度も雑巾で水を拭き取って、3枚がボロ切れと化しました。子供が何人かいたら、一人は配管工にするといいですね。食いっぱぐれがありません。
でも水が漏るというのは水が流れているからであって、流れない状態、つまり断水ももちろんあります。だがあまり深刻ではありません。夏になって水事情が悪くなったのか、とまる頻度も時間も長くなりましたが、それまではほとんど問題にならなかった。汲み置きで対処できます。断水云々と言っても、毎日水汲みするリシタンを思えば、「楽園」でなくて一体何だ、ということです。
停電も同様、深刻ではありませんでした。大学では何日間も停電するということが二度ほどあったけれど、アパートでは、昼間の短い停電はしばしばあるものの、夜電気がないというのは二度か三度でした。ガスがとまるというのは記憶にありません。
ダニか何か知りませんが、虫がわくことは三度ばかりありました。幸い三度とも殺虫剤で駆除できましたが。この方面の対策は必要です。だが「踊るドブネズミ」は、私のアパートにはいませんでした。
インターネットにも悪い虫がつきます。コンピューターについては、必ずダウンすると考えて、それを前提に準備するべきです。当地のネットカフェには、日本語のできるものはありません。
電話事情も非常に悪いけれど、タシケントより大して悪いわけではないから、気になりませんでした。前納制で、払い込んでおいた料金が切れると回線が切断され、あわてて払いに行くと、翌日ぐらいに復活する。掛からない、混線する、間違い電話が多い、等々。薔薇の木に薔薇の花咲くような当たり前の話です。
日本人が一人だけというのも、あまり苦にならなかった。むしろ一人でのびのびできたと言ったほうが当っているでしょう。誰にも掣肘されずに。次年度は日本人が二人になるから、話し相手はいます。それでも、何か趣味や気晴らしがあったほうがいいでしょう。
しかし以上の事柄は単なる断り書きで、主文はと言えば、「フェルガナは非常に暮らしやすいところだ」。要するに、日本の昭和30年代を考えればいいと思います。あの頃は今よりずっと不便でしたが、だからといって今より不幸だったとは決して言えない。便不便と幸不幸の間には、相関関係はありません。思いは高く、暮らしは低く。その逆よりずっといいですよ。


<棲み分け>
タシケント経済大の学生のお姉さんの結婚式があるというので、ガザルケントへ行きました。山間の町で、とても静かないいところでした。山の上にも連れて行ってもらい、向こうの山を降りていく羊や牛の群れを眺めました。ここはカザフ人の町です。ここへ来るまでの道にも、「クミス(馬乳酒)あります」の看板をそちこちで見かけ、実際彼のうちで初めて飲ませてもらいました。中央アジアの山地は木がなく、放牧適地なのだと気づきました。平地の耕作適地にはウズベク人が、山間の、耕作には向かないが牧畜には向いている土地にはカザフ人・キルギス人が住む。そういう民族と生業による棲み分けができているのです。中央部がウズベク領、縁辺山地がキルギス領というフェルガナ盆地の国境線引きは、民族別という意味では正しいけれど、山と平地の、牧畜民と耕作民の、相互に依存しあっているはずの生活や生態を切り離すものだから、「似而非民族学的」で「反民族的」と言うべきです。
―― また十八番が出てしまいましたね。気を取り直して、もっと日常生活的な観察をしましょうか。フェルガナからタシケントへどうやって行くか。高いけれど、飛行機がもちろんいちばん速くて便利です。そしてこの飛行機の乗客には、なぜかロシア人(ウクライナ人やユダヤ人も含みます)が多い。ウズベキスタンの人口に占めるロシア人の割合は5%ぐらいですが、それより断然多いのです。スチュワーデスも航空券売り場の者も、たいていロシア人です。逆に乗合いタクシーの客は、ほとんどがウズベク人で、私はまだロシア人と一緒に乗ったことがありません。列車の乗客も、人口比からみてロシア人が多いと言えます。体系的公共交通のロシア人に対し、私的・隙間産業的・バザール交渉術世界のウズベク人、という対比はきっと成り立ちます。
露店の本屋は、たいがいロシア人か朝鮮人です。売り物がロシア語なのだから、まあ当然です。服を売っているのは朝鮮人が多いと聞きました。ウェイトレスというのもロシア人がほとんどですね。これは、嫁入り前のウズベク娘は箱入りで、そんなところで働かないからでしょう。売春婦に占めるロシア人の割合も、だから圧倒的です。タシケントのあるガソリンスタンドでは、女の子ばかりがてきぱき立ち働いていますが、みなロシア人だなと思って名札を見たら、ムスリムの名前を見つけました。しかし容貌はロシア人風だったから、あれはきっとタタール人でしょう。また物乞いは、本職のジプシーを除けば、ロシア人の老爺老婆の比率が高いと思います。土地の根生いでないという事情もあろうし、家族親族の相互扶助の精神がウズベク人に比べてずっと弱いからでもありましょう。自由独立の人なのでしょうね。それには餓える自由も含まれます。
同じような重いコートに埋もれている冬には見えませんが、夏はロシア人とウズベク人の違いが際立って現われます。明色の、花の色も凌駕せんばかりの彩りの、足元までのゆったりしたワンピースに長い髪を束ねたウズベクの娘たちに対し、スカートも胸元も露出激しく、全体に白っぽいロシア娘。それがどうだというのではないが、陽光きらめく花園の中、多種多彩は世界の喜びです。でも男どもは、ウズベクだろうがロシアだろうが、似たようなつまらないいでたちですね。喜び薄い人たち、というわけではなかろうが。


<知人の死>
 6月にキルギス日本センターの日本語専門家が亡くなったと聞きました。自殺ということです。以前同じ機関の派遣教師だったことがあり、派遣前の研修で一緒でした。親しいというほどでもないが、ものを頼むことができる程度には知人で、実際フェルガナ大学の後任者さがしでお世話になってもいました。私より年少。また一人先を越されました。
 異国では自由な時間が多いせいか、死についてよく考えます。死の近さについて。老人、長老というのは伝統的社会において尊敬されるが、それは豊かな経験があり知識があるからというほかに、死、年長者はもちろん、同輩や年少者の数々の死を身近に見てきたこと、死との、死者との近さにもよるのではないでしょうか。侍というものがかつていて、彼らに対しわれわれは尊敬の念を持っている。暴力団というのは公的には非難されるが、やくざについて心のうちにある種の憧れのような気持ちを隠していないかどうか。アウトローは民衆のヒーローです。それもやはり、彼らが「死ぬことと見つけ」、命を棒にふって顧みない種類の人間だからではあるまいか。死から彼らは力を得ているのではないか。
 時が来れば死ぬ凡愚の身です。いつかは行くところ、いつかは帰るところ。後ろの者が足早に抜いて、行ってしまった。その理由は問わず、知った誰彼の訃報を聞くたびに、影の深みが増してきます。こうして年寄りになっていくのでしょう。


<海図のない旅>
「フェルガナだより」の常連執筆者だったハタム君が、7月8日、日本へ旅立ちました。フェルガナ大の同僚として、何かにつけ助けてもらいました。この1年間にフェルガナでやった仕事の半分は、彼の手に帰されるべきものです。かけがえのない右腕でした。
誰ともすぐ友だちになる希有の才能の持ち主です。この1年でいちばん長く接していたのは彼でしたが、笑顔をのみ見ていた印象があります。反面、気が多いかな。
ウズベキスタンで行なわれる日本語能力認定試験で1・2級に合格し、交流基金の本物の試験のほうでも2級を取っている、流暢な日本語を話す彼ですが、その日本語学習は正則ではありません。のりこ学級の出身とはいうものの、大崎氏在住当時フェルガナ大の学生だった彼は、週末リシタンに帰ったときに習うのみで、学校に通ったとは言えません。
それはガニシェル氏も同じで、彼の場合は全く独学、日本人と接しながら身につけるという、正則ではないが、非常に「正しい」「伝統的な」学習法で習得したものです。学校に行ってないため漢字がほとんど書けませんが、それは日本語のほうが悪いので、彼のほうではありません。
タシケントより日本語「開国」の遅れたフェルガナ盆地では、彼らが日本語修得の初代、日本語能力によって身を立てる最初の世代です。一人は大学で林業、もう一人は化学という日本語に全然関係ないものを専攻したのに。決められた進路がないという意味では、体制の作り上げられる以前、明治初期の世代に比すべきでしょう。柳田国男の「先祖の話」は、家を興し、「先祖になるんだ」と誇らしげに言う老人の話から始まりますが、彼ら日本語初代はまさに、先祖になる人たちです。その前に道がなく、その後ろに道ができる人たち。苦労多いことは察します。だが一方、いささかうらやましくもあります。
日本へ渡るハタム君は、1年後5年後10年後に何をしているのだろうか。よき父親になるだろうことは疑いません。フェルガナへ戻ってくることも視野に入れているようで、それもうれしい。外国へ留学した優秀な人たちが、ずっとその国に暮らしつづけ、戻ってこないという例をいくつも聞いているだけに(帰ってこないのが経済的理由にだけよるのでないことを、祖国は考えなければいけないのだが)。また会うことも、きっと何度もあるでしょう。そのときも、いついつのときも、あの笑顔を見せてほしい。
だけど、どんな仕事をするにせよ、座業でないほうがいいよ。太らないように。
(2004.7.11.)