フェルガナだより(12)

前号で暑い暑いとこぼした直後、夏のウズベキスタンには珍しい雨の日が続き、涼しくなりました。日本では、雨が降ろうが曇ろうが、暑い日は暑い、どうかすると晴れた日より曇りのほうが暑かったりしますが、大陸は単純明快。熱源は太陽、それが隠れる日は涼しい。わかりやすくていいですね。日本は屈折しているのではないですか。しかし1週間ぐらい天候不順が続いたあと、おなじみの暑さにもどりました。
タシケントの真ん中を流れる水路アンホル川べりを歩くと、水浴する人が大勢出ています。橋の上から飛び込む子供たちの歓声が楽しげです。川の上に迫り出した木の枝には、小供大供が鈴なりに成っていて、ときどきドボンと水に落ちます。川は流れが急で、浮いてさえいればすごい速さで進み、天然の滑り台よろしく。泳いで(流れて?)いるのは主に子供ですが、中にはおじさん連中もけっこういて、立派な腹を突き出して歩いています。
ドイツの男はビールで、女はジャガイモで太るそうですが、ウズベク人は何で太るのか。ハタム君によると、ナン(丸型パン)でだそうです。ウズベク人は何を食べるときもナンと一緒です。プロフ(ピラフ)もナンのおかずのように食べます。彼のおばあさんは、ケーキを食べるときも「ナンと一緒に食べなさい」と言っていたとか。
こんな楽しいウズベク噺も、12回を重ねて、これが最後となりました。


<別れ>
7月19日、フェルガナを後にしました。大使館や日本センターの客人を迎え、大学を案内したりしたあと、一緒にタシケントへ行ったのです。ものものしい別れがいやで、水のような交わりをという心掛けはたしかにあったのですが。在任中何度もタシケントに出かけました。そしてそのたびに帰ってきた。今去って、これでもうフェルガナに帰って来ないというのが、なかなか腑に落ちないで困りました。今もしっかり落ちてはいません。
ランドクルーザーの助手席に座るようはからってもらったので、風景がよく見られました。どうせ忘れてしまうだろう眺めを目に刻みつけながら、タシケントへの道をたどりました。何度も見てきた盆地や峠の風景が、あんなに新鮮に見えたのは、単に車高の高さと、よくみがかれたフロントガラスからの視界のよさにのみよるのではありますまい。「フェルガナの土地と人々に幸多かれ」と願う、今は強度の高いこの思いだって、やがて時とともに褪せていくのでしょう。それは、耐えがたい苦しみを和らげてくれるのと同じ時の作用ですから、悲しむにはあたらないのですけれど。
「犬の別れ」に限ります。帰路リシタンに寄った際、ガニシェル家の飼い犬トンチに別れを告げ、ひとしきり撫でてやりましたが、昼寝どきだったらしい彼女は、そのまままた横になりました。そんなとらわれのない無心の境地には、至れるものではありません。「人生」と書いて、「ソウシツ」と読む。もう一度、「フェルガナに、幸よ多かれ」。切実な響きのあるうちに。


<「日ウズ学習辞典」序文>
「日本語・ウズベク語学習辞典」“Yaponcha-O’zbekcha O’quv Lug’ati” の原稿が完成し、あとはコピー・製本して頒布するだけになっています。ページ数は160にまで押さえ込みました。実費頒布なので、頁数と価格が完全正比例、学生でも買えるように安くしたいと努めた結果、ぜひ付けたかった付録も削り、序文も載せないことにしました。そのかわり、ここに載せそこないを出しておきましょう。
ウズベキスタンで使われている初級教科書(「みんなの日本語」Ⅰ・Ⅱと「日本語初歩」)のほとんどと日本語能力試験3級語彙のすべてを収録し、見出し語は2000語強ですが、見出しに立っていないものを含めた収載語彙はもっと多くなります。
国際交流基金日本語国際センターの「基礎日本語学習辞典」(凡人社)を底本とし、「日英辞典」(研究社)も参考にしました。前者にない語彙は、後者に当たりながら訳語や説明をつけました。アクセントや動詞のとる格助詞については、「新明解国語辞典」も参照しました。
方針としては、1.例文を豊富に載せる。例文辞典の趣きのある「基礎日本語学習辞典」よりはずっと少ないですが、重要語には必ずつけ、それにも工夫をこらし、「読む辞典」を目指しました。
2.アクセントを示す( 「:上ガル、|:下ガル)。
3.ウズベク語・ロシア語話者がよくまちがえる語彙や表現について、説明を加える。
4.動詞と結びつく格助詞を示す。「〜を」は、他動詞の場合ふつうに取る助詞だから、特に示す必要があるものを除いて挙げていません。形容詞については、他の言語ではふつう形容詞を使わないところでは、「〜が」を取ることを書きました。
辞書作成は、日本人2人と多数のウズベク人協力者の共同作業として行なわれました。大きな困難は、「単語帳」でなく「辞書」を作るのだ、というのがなかなか理解されなかったことでした。素朴で、それゆえに拭い去りがたい一対一対応信仰があります。おそらく、日常的反射的に身についている多言語状況(協力者たちはみなロシア語とのバイリンガルだし、トリリンガルも珍しくありません)によるのでしょう。日本語・ウズベク語「単語帳」レベルのものなら、すでにいくつかできています。「単語帳」が成長して「辞書」になるのが自然なプロセスですが、それを飛び越していきなり「辞書」を作ろうというのだから、無理があるのは当然かもしれません。
だが、「無理」はそんな小さいものだけではありません。中心となる日本人がウズベク語がほとんどできず、ウズベク人にしても、学生か、つい1、2年前まで学生だった人たちばかりだから、日本語の知識がさして深いわけではない。こちらはしかし、日本語教育が始まってまだ10年ちょっとというこの国の事情からみて、ある程度やむをえないのですが。日本人側にしても、辞書を作る力量があるほどウズベク語ができる日本人はごくわずかだし、そういう人たちは自分の仕事があって、日本語学習者のための辞書作りに時間と手間をさいたりしませんね。現実に使える辞書が明日にでも要るという状況を前にして、無謀を顧みず討って出たというのが実情です。
作業はタシケントとフェルガナで分かれて進められました。加えてタシケントでは協力者が多く、かつ分散していました。だから不統一なところは多くあるでしょう。編集主幹であった日本人は、ウズベク人が付けてきた訳語や説明文のニュアンスについてはほとんど理解できないわけですし、時間にも追われていました。ミスプリントや誤り、不十分な箇所はあるに違いありません。
こんなことを書くのはしかし、言い訳でも居直りでもありません。そもそも無理なのです。それを押し切ったのだ。そしてその結果、あらゆる欠点を考慮しても、現在あるものでは最善の辞典ができたと思います(そりゃそうだ、モトは「基礎日本語学習辞典」だもの)。根本的な無理を抱えながら、力ずくで押し切ってしまうというのが、個人的に大好きです。フェルガナ弁論大会と並んで、無理を承知でやっつけてしまった仕事の双璧として、この一年の自分にとっての欣快事です。
なぜそんな無理仕事をしたかといえば、辞書を必要とする学生が眼前にいることがあります。自分の教え子のあれやこれやという極めて具体的な必要です。誰もやらないなら、力不足を承知で、われわれがやらねばならないのではないですか? もうひとつ、礎石を据える意味もあります。これを土台にして(反面教師にしてくれたっていい)、もっとよい、もっと大きい辞典を作ってもらいたい。これを基に、1級語彙をすべて含む1万語程度収載の辞典を作る計画はすでにあります。誤りがあろうと割合に平気なのは、それが正され、洗い去られ、よきものだけが残りすくすく成長する将来を、楽観的に展望しているからです。
あるドイツ人の学者が、十数巻か二十数巻か、恐るべき大部のメルヘン百科事典の編纂計画を立て、「自分の生きているうちには完成しないだろう」と気負いも衒いもなく語っていたというのを聞いて、いたく感じ入ったことがありました。何世紀にもわたってカテドラルを建てつづける人たちの言葉です。グリム辞典も、兄弟の死後ずいぶんたって完成しました。いや、そもそも「完成」などありえないのではないか。われわれはここに礎石のひとつを置いた。多少形がいびつでも、それでも十分強度のある、小さからぬ礎石です。この上に、初代など、「こんなものを昔は使っていたのか」と驚き憐れまれるようになるほど、立派な辞書を作ってほしい。憐れまれるのはまあ確実ですけども。コピーして簡易製本しただけの、使いにくい判型ですからね。
すべての協力者に対する謝辞、国際交流基金日本語国際センターとウズベキスタン・日本人材開発センターへの謝辞の後に、最大の功労者である岩撫和子さんに感謝します。短期間に3分の2以上を担当したタシケント班の責任者として、仕事量はそれだけでかなりのものだった上に、原稿のコンピューター入力もやってもらいました。岩撫さんなしに、この仕事が形になることはありませんでした。この辞書のすべての欠陥は私に、すべての長所は彼女に由来します。狼藉が男に、慈愛が女に由来するように。
向こう見ずなだけで力はからっきしの第一走者は、息も絶え絶えにタスキを渡しました。次の走者は、ウズベク人よ、あなたたちだ。
IWWA委員会(International Wrong Word Association [?])代表敬白


<教科書選び>
フェルガナ大のようなところのカリキュラムというのは、結局メインの教科書を決め、それに沿って進めるのをもって足りますから、教科書選びがほとんどカリキュラム策定と同義になります。あとを託す現地人の教師を養成するというのも目標のひとつですから、その際、その将来の教師は自分が教わった教材で教えるだろうし、教え方も踏襲するだろうということも考えて、決めなければならないと思います。
教科書が日本製のものだったら(どうしてもそうなるでしょうが)、テキストの必要箇所をコピーして学生に配ることになるので、あまりたくさんコピーしなくてもいい、板書や口頭の説明・練習でカバーできるものが好ましい。そして、読み書きのほうにむしろ重点がかかるほうがいい。コミュニケーション能力の育成はもちろん大事だが、しゃべるのは学校でなくても習えるのです(あるいは学校でないほうが?)。それに対して、読み書きのほうは学校でやらなければなかなかできるものじゃない。
日本人の英語力(無力?)と比べてみたとき、ウズベク人の日本語上達ぶりはかなりのもので、日本語教師仲間で話題になることがあります。話をするのが好きだということがまずある。多民族多言語地域で、ウズベク語とロシア語、ことによるとタジク語まで自由に話していて、言語習得の能力が高いということもあるかもしれない。もちろん、ロシア人はふつうウズベク語はできず、ウズベク人のほうでもロシア語が少々怪しいというのは多いですから、能力というより、むしろ態度の問題でしょうか。日本人は外国語ができなくても国内ではまったく困らないし、できなくて当然とさえ思っていますね。彼らは逆に、できるのが当然、自分もがんばればできるようになるし、ならなければならないと思っているという心構えの問題が第一番にあるのではないか。かたや不可能かたや可能と、日本人とウズベク人では出発点が正反対です。ネイティブ・スピーカーと流暢に会話するのが到達点だと、学習者の大多数が考えています。そんな心がけの日本の中学生がいったいどのくらいいるだろうか。上達のための内的な素地があるのだと思います。そんな調子で英語や日本語をものにしていって、4、5ヶ国語ペラペラというのがタシケント経済大には何人かいました。
フェルガナにもそのようにウズベク・ロシア・タジク語を自在にあやつる者がけっこういる、すごい、素晴らしいと感心する一方で、より仔細に観察してみれば、読んだり、特に書いたりするとなると、一つを除いては満足にできない(子供っぽい話し言葉を方言だらけ誤字だらけで書き付けるというような)というのは非常によくあることだし、その一つが母語でも何でもないロシア語だというのもまた普通です。なぜか。ロシア語は学校で習ったが、ほかは家族や周囲の人々と話をするなかで習得し、学校で意識的に訓練されて身につけていないからです。つまり、読み書きは学校できっちりやらなければ、どうして身につくものじゃありません。日本語は表記体系が難しい、おそらく世界でいちばん難しいということを考えると、重点を置くべきところは自明です。学校教育というのは結局読み書き算盤だというのが、経験から得た結論です。


<できたこと、できなかったこと>
離れたばかり、まだ総括するには早すぎますが、私がフェルガナでやったことは、結局「日本語を始めた」というに尽きるでしょう。これだけは紛れもない業績です。
それ以外にやったことももちろんあります。それらは、言わば「タシケント・コネクション」と、意外に多い「フェルガナだより」読者の支援によってできたことです。前の一年、タシケント経済大学で教えていたので、首都の日本人や日本諸機関とつながりがあり、そのおかげで初年度からタシケントに「認知」されていました。これは小さからぬメリットで、おとなりのオシュ大学を見れば、それは明らかです。仕事もやりやすかったと思います。
逆にできなかったことでは、文化紹介の催しがあります。習字や簡単なお茶の立て方は、授業でのりこ学級のボランティアの先生方にやってもらいましたが、それだけしかできなかった。離任後の10月に、日本センターの催しのうち、生け花の実演と講習をフェルガナでもやってくれることになりました。数か月足りずに去るのは、少々心残りではあります。というのも。
日本語教師の仕事は、日本語を教えること」。もちろんそうです。しかし、それだけではありません。日本で教える場合、先進国で教える場合と異なり、ウズベキスタンのような日本から遠い非先進国で教える場合には、学生たちの卒業後に対する心配がまとわりついてきます。しなくてもいいんですがね。日本語をそれなりに一生懸命やった彼らの進路は? 教師たるもの、やはり気になる。その際、首都と地方で状況はまた異なります。日本語修得者の就職のパイは非常に小さい。そして仕事はほとんど首都にしかない。以前いたカザンも同じでしたが、フェルガナを例に取って考えてみましょう。日本センターが地方展開を図っているそうで、2、3年後にフェルガナにもセンターの分所ができるらしい。そこで2、3人の口があるかもしれない。大学が現地人の教師を雇えば、これで1人2人働けるか。観光ガイドや通訳などは需要がなく、仕事があったとしてもごくたまにです。つまり日本語を使う仕事なんて、学習者の数で割れば、四捨五入したら0になるくらいしかないのです。日本語の仕事はタシケントにしかなく(ウズベキスタン観光の中心サマルカンドにはガイド需要はあるでしょうが)、その仕事は大勢いるタシケントの学生が取ってしまいます。JICAなどで不定期の仕事があったりもするが、それはコネがある卒業生や在学生のところへ行く。そもそもタシケントには居住制限があって、地方の人間は、職があるからといってタシケントへおいそれと移り住むことはできません。だから進学先をタシケントにするか地元にするか決めた時点で、彼(彼女)の人生の主要な選択肢は選ばれたことになります。就職先は地元。そしてそこには日本語の仕事はありません。
日本へ行きたいという希望は一人残らず持っていますが、知人に招いてでももらわぬ限り、それは非常にむずかしい。留学のプログラムはいくつかあるが、全ウズベキスタンで1番か2番、少なくとも5番以内にならなければならないのですから、フェルガナのような後発地方校では、それはコース設計の目標になりえません。教師の期待の地平を越えて、タシケントの学生の向こうを張り、争い蹴散らすところまで伸びてくれる学生が出たらうれしいが、例外を目標にはできません。要するに、席取り競争はしない、というよりできないのです。その結果として、席が取れずに半端仕事でさまよう卒業生も出さずにすむはずですが。
安易な、甘く危険な期待や希望(ウズベク人はすぐそれに流されてしまいます)を目の前にちらつかせることなく、過度な競争に追い立てることもなく、フェルガナの日本語コースはデザインされねばなりません。日本語を学習することを通じ、広く闊達な世界に触れ、視野が広がり、ものの考え方が柔軟になること。抽象的な言い方しかできませんが、それをいつも念頭に置くように努めていました。お題目に過ぎないかもしれないけれど、基本線はやはりこれだと思います。
この学生たちはどうして日本語を学びはじめたのでしょうか。どうやら、ちょっと興味があって、たまたま日本語コースが開かれていたから、という程度ですね。日本のことをあまり(と言うか、ほとんどと言うべきか、その中間あたり)知りません。そのことについて彼らを責めるわけにはいきません。そもそも情報が非常に少ないのですから。翻訳にしろ紹介にしろ、ロシア語のものならたくさんあるが、ウズベキスタンでは入手できません。映画もやっていないのだから、クロサワも知らないのかと言っても、知りようがないもの知りませんよね。ソニートヨタは知っていて、それだけ。日本センターのあるタシケントなら、情報もかなり入ります、学生がその気なら。しかしここでも首都と地方の落差は大きい。文化を浴びせろ、と思います。ここで「文化」というのは、芸術や思想だけでなく、生業のあり方、立ち居振舞いや交際の仕方まで含めてですが。感受性が豊かで心が柔らかく、向上心のある年頃の彼らに、日本語という扉を通して、美しく心楽しいものに触れてもらいたい。文化の紹介を通じて行なう感化教育こそが、地方の日本語教育の根幹になるのではなかろうか。草の根の親日派知日派予備軍を育てることにもなります。生け花講習の開催決定に感謝するとともに、文化行事の一層の地方展開をお願いする次第です。
留まることを勧められもしましたし、自身もう一年いようかと真剣に考えましたが、当初の予定通り一年で帰国するのは、どうせ去る人間なら早いほうがいいと思うほかに、あとに来る別の日本人教師に触れて、もっと経験を広げてもらいたいと思っているからでもあります。それもまた「文化」体験ですね。


<コンピューターの勝利と悲劇>
命長ければ恥多し。何度も海外渡航していながら、成田を使ったことがないのをひそかな誇りにしていましたが、3年前ついに降り立ってしまったのは、アエロフロート・モスクワ便が成田発着しかなかったからです。コンピューター全盛にも背を向けて、ワープロと心中するつもりでいたが、タシケントでまではパソコン持たずにがんばれたけれど、フェルガナとなるともう駄目です。首都から300キロ離れて、日本人も日本語教師も私一人、そこでタシケントの日本センターや大使館などからの連絡を受けねばならない。ファックスというのも考えられるけども、自分の部屋にファクシミリがあるわけでなく、学長秘書の部屋から受け取るとなると、入手するまでの「学内時差」が出てくるし、途中で紛失するというのもありそうなこと。情報の不足や遅延で、自分一人が不便をかこつだけならいいが、学生たちの不利益になってはならぬ。好きの嫌いの言ってられない。未練は残しつつ軍門に下り、知人から譲り受けた中古のパソコン持って、眦決してフェルガナへ赴任したことではあります(何ともアナクロな述懐をしてしまいましたが、実は共感する人は決して少なくないのでは?)。
使ってみると便利なもの。Eメールはタイムラグなく、距離の障壁を軽々越えて日本とも無料とまがう安価でじかに連絡が取れる。これを使わぬ仕事はありえないなあと感嘆したのは、いかにも時代遅れな感想でした。その上に、この「フェルガナだより」を作ってメールで配信することを始めた。そこそこ反響あって、読者の寄せてくれるご支援の数々で、仕事がやりやすくなりました。インターネットの威力絶大を実感しました。フェルガナでの私の仕事の成功した部分の過半は、コンピューターのおかげと言っていいでしょう。
だがその一方で、依存すればするほど、それが故障したときの困難も大きい。あるときからウィルスメールが大量に来るようになり、届く大半が全く知らない者からの添付ファイルつきの怪しいメールで、そうこうするうちプログラムから Outlook Express が消え、修復不能になりました。不幸中の幸いは、それがフェルガナ弁論大会も終わり、職務に関わる行事のほとんどが終了して、連絡の必要の減じていた頃だったことです。以後、メール難民と化しました。ガニシェル氏やハタム君のパソコンを頼る、哀れなメール・パラサイトです。「フェルガナだより」9号からは、いろいろな人のパソコンから発送しています。ほかにもさまざまな不具合が出て、フロッピーに記憶させたものが開けなくなってしまうことが頻繁に起こり、辞書作りの作業に困難をきたしました。コンピューター依存の生活では、古きよき時代にはかけらもなかったこんなトラブルと付き合わねばなりません。
「コンピューターは弱者の武器」という言い方をしますが、フェルガナの私の周辺の事例においては、それは全くその通りだと思います。同僚のハタム君は、パソコン使って北九州の会社のためにロシア語の新聞記事を訳して送るという仕事をして、かなりの副収入(ウズベキスタンとしては)を得ていました。教育あり能力もありながら、幼少時父親を亡くし決して裕福でなく(家柄はいいのですが)、大学卒業後も職業に恵まれていなかった年若い彼が、ノートパソコン一つをもらって、5000キロ離れたウズベキスタンの田舎町で日本の地方都市の中小企業の仕事をこなすというIT強者になりました。けれど「弱者」といってもそれは、パソコンを持ち電話線もある「比較的弱者」のことで、パソコンはもちろん電話もない、IT技術習得の機会からも遠い本当の「弱者」にとっては無縁の武器で、情報における「貧富の差」が拡大すれば、さらに一層弱い立場に追い込まれていくのではないかという真っ当な懸念があります。わがフェルガナ地域社会の中では全くもって「貧者」でも「弱者」でもない人々が、これから「貧者」「弱者」の地位に落とされていくのでは考えれば、手放しには決してなりえません。日本語勉強している学生(大学に通っているということは、この社会のむしろ「強者」の側のはずですが)でも、うちに電話がないのは珍しくありません。さらに、以前リシタンについて報告したように、電話があってもプロバイダーへの接続がままならず、たとえコンピューター持っていても、インターネットに接続できない土地が多いのです。そんなところには、村でなく市であっても、インターネットカフェなどありませんしね。
一方、拠点都市においては、先のハタム君の場合のように、IT技術による一種の「革命」、階層シャッフルが進むことでしょう。彼と同年輩の若者たちが、プロバイダーの事務所に結集し、朝から晩までコンピューターをやっています。コンピューターは複雑すぎて、使用者の大半は教えられたわずかのやり方で表面をパチャパチャやるだけですから、トラブル起こっても自分で直せない。車の故障ぐらい平気で自分で直してしまう人々の間でもこうだ。知識と技術があれば、死命を制する重要性をこんな地方でも増しつつある「道具」に必ず起きるさまざまなトラブルに当たって、頼られる依存の状況を作り出す。地位と収入の向上は必ずや伴います。自分ではパソコン持っておらず、だから事務所に深夜まで居座って、時には泊まりこんで会社のコンピューターで何やかんややっている若者たち、ハッカー予備軍と言っていいような彼らの「梁山泊」(この名称は、一種独特なタイプで、決して腕力強そうでない彼らには不似合いなものがありますが)が、きっと世界中いたるところ、外国人は名前も知らぬ小さな町にも簇生しているのでしょう。 距離や社会環境の障壁が無化されて、才能が全世界的平等(まだまださまざまなハンデは残っているにせよ)を享受していると考えれば、いかにも愉快です。プロバイダー事務所の近くに、円形の安い大衆食堂があります。4、50円もあれば十分食べられ、ビール1本が40円というようなところです。昼飯時にはそこに「フェルガナ市のIT頭脳」が集まってくる。そんな風景も忘れずにいたいと思います。
私のパソコンは、知人が退職時に職場から譲り受けた中古を譲ってもらったもの(つまり中古の中古)、Windows 98の入った東芝で、これがメールできなくなったときには、ガニシェル氏が大崎氏にもらった Windows 95のIBMを使っていました。トラブル時にプロバイダーに持参しても、彼らには直すことができず、あまつさえ「博物館もの」呼ばわりをされてしまいました。パソコン持ってもいない辺縁の地の若い連中にねえ。そりゃあ今はXPだと承知してはいるが、まだ10年も経っていないんだもの、十分使用に耐えるんだよ。この間までポケベルやワープロの時代だったんだよ。恐るべき日進月歩、XPも嘲られる時代がすぐに来ることでしょう。かつての超先進国イギリスが、ドイツに、アメリカに、日本に追い越され、遠からず中国に追い抜かれようとしているのと同じですね。後発国のほうが有利です。その時々の最新設備を導入できるから。アフガニスタンの人々は、カメラはデジタルだと思っていて、写されたらすぐ後ろに回って画面を見たがるそうです。ドイツあたりでは、おじいさんの形見の戦前のカメラをまだ使っている人は珍しくないのだが。フェルガナなんか、フロッピーディスク(たしかにもう時代遅れになりつつあるが)もろくに店に置いてなくて、注文しなければならないのですよ。なんでそんな進み方なんだ。
コンピューターができないことが不利にならず、しない権利が保障されねばならない等、留保はいくつもあるけれど、眼前で進行中の人類社会の大変革を僻陬のフェルガナで体験することができたのを、喜ぶべきなのでしょう。


ウズベキスタンに蒙を啓かれる>
近郊の村の歩道に葡萄棚が設けられているのをしばしば見ます。人気のいいところだなと思います。目に楽しく、夏の暑い時期に葉陰を作って過ごしやすくしてくれますが、それだけではない、実を結ぶわけでしょう。それを通る人々の手の届くところに実らせて平気なのですから。もいで、その下で食べるのはいいのだそうです。家に持ち帰るのはいけないと。人間的なルールです。
フェルガナでいちばん好きな眺めを一つと問われたら、道路の両脇、街路樹の下に掘られた溝を挙げます。ただの掘り窪めた溝で、両側は幾分盛り上がっている。春になると、そこに水が流れます。毎日ではなく、今日はここ、明日はあそこと、交代で流す地域を決めてあるのではなかろうか。ただの土の溝だから、先のほうではだんだん水が少なくなって、しまいには消え、ただ湿りだけが底を伝っているところもあります。中庭にこの水を引き入れて、菜園の灌漑にも使っているらしい。分岐点で水の流れを変えるには、泥で一方を塞ぐという子供の遊びのようなことがなされている。春によみがえる、生命の水。緑の中をさらさら、きらきら流れるわれらの命。そのほとりで歓声をあげる子供たち。乾燥地域のオアシスでは、人間が住んで都市や集落を形成したはるかな昔から、このように工夫し按配した水の供給がなされているのだろう。単に見るだけでも美しいが、背後に歴史や知恵や人々の営為を眺めることで、さらにいっそう魅力的になります。そんな水路の網が、盆地でいちばん若い、近代都市であるはずの州都フェルガナでも人々の生活を支え、心地よく潤いのある眺めを作っています。ただ掘っただけの姿で。最近丸石とコンクリートで都会風の溝渠に作り変えていますが、二千年の昔もこうだっただろうような土の溝のほうが好ましく思えます。
ウズベクの女の子というと、モンペのようなズボンをワンピースの下にはいて、腰をかがめて道を掃いている姿が反射的に思い浮かぶ私は、少し偏っているでしょうか。大学への通勤の道でよくそんな女の子を見かけていましたが、あるときふと、その行為の意味に気づき、鞭打たれたような気がしました。維持なのです。ここは、沙漠には遠いけれど、乾燥地帯の真ん中です。ここへ来た日本人が強い印象を受けるのは、異様な赤茶けた禿山の連なりです。木がない山は、湿潤な日本からもっとも遠いもの。山の骨という感じがします。沙漠から遠からぬブハラの近在で生まれたアイニの回顧録に、砂が村に押し寄せて、村人がそれを必死に防ぐのを記した章がありました。砂でこそなけれ、乾燥の害悪が、埃の形で襲ってくるのだ。女の子は掃きなさいと親に言われたから掃いており、その親もそのまた親にそう言われたのだろうが、維持しないものは滅びるという切実な経験に基づく知恵がその後ろにあるに違いありません。何千年も昔、人々が都市を築いて以来ずっと続いている営為が、そのころとほとんど違わぬであろうような姿でここにある。人が生きること、そのためにせねばならぬことを考えさせられます。考えすぎかな?


ハバロフスクにいたとき、ヴィーチャだのサーシャだの、呼びあっている顔を見ればわれわれと同じで、金やら李やらの姓の学生に接し、驚いた経験があります。母語はロシア語、食文化以外はほとんどロシア人に同化されている朝鮮系の人々でした(われらが在日三世ぐらいの写し絵ですね)。カザンでは、タタール人たちが生活文化もかなりロシア化し、「イスラム教徒のロシア人」になっているのを見ました。これではタタール共和国なんてとても独立できないなと思いました。だからウズベキスタンに行くことになっても、なるほど写真で見るとおりのチムール時代の壮麗な建築物はあるだろうが、タタール人よりはロシア化の度合いの薄い「中央アジアの浅黒いソ連人」を見るだけだろうと思っていた節はあります。赴任前に傑作映画「ルナ・パパ」を見て、そこに描かれる全くロシアとかけ離れた中央アジアの強烈な生活の姿に圧倒されても、それは映画の誇張と思い、かなり割り引いていました。「だけど、ソ連だろ?」というわけで。
来てみると、全く予期に反していました。ロシア化・ソ連化されている部分はごく表面的で、価値観に人生観に、すべて独自のウズベクのものを堅持しています(ただしタシケントは例外です。すべての首都と同じく)。欧米人は、日本が一方で伝統を固持しながら、他方で現代世界の最先端を走っているのを見て驚くそうですが、ウズベクにもそれは当てはまります(「現代の最先端」の部分は「ソ連の他地域に伍して」に字句が置き換わりますが)。ソ連の影響は、宗教色を薄めたことと、ウォッカを普及させたことに尽きるのではないかしら。
「だけど、ソ連だろ?」は、カザフ、キルギスでは当たっているようですね。ビシケクもアルマトィも、全くのロシアの町でした。少数民族の多いシベリアの町はきっとあんな風でしょう。むろん地方には、カザフ・キルギスの独自の生活習慣や価値観が保たれているのでしょうが、都市は完全に「ロシア」「ソ連」です。ウズベキスタンとのこの大きな違いは、遊牧民だった彼らに都市生活の伝統がなく、それはロシア人が持ち込んだもので、彼らの規範に則って築かれ営まれているからだと思います。対して、中央アジアのオアシス農耕地域を選ったように継ぎ合わせてできたウズベキスタンは、ロシア人がまだ世界に存在しなかったはるかな昔から、都市生活や農耕、商業の営みを行なってきました。「都市文明」の伝統は、世界史にこないだ出てきたばかりのロシア人とは比較になりません。ロシア流の「都市生活」は、そのよいところだけ選んで適用すればいいので(電気・ガス・近代的交通手段等)、根幹は揺るぐことがなかったのです。
ウズベキスタンの生活風景は、ドッピ帽をかぶりチャパンどてらを着こんだ見事な白い顎鬚の老人や、そろいもそろって長い髪を後ろに垂らし、足元までの長い丈のスカートをはいた娘たち、ゾロリとした重い色のワンピースの女たち、縁台にくつろいで、湯呑みに少しだけ注がれたお茶を飲み、音楽が鳴ればすぐに踊り出す人々(年端もいかぬ女の子から、半世紀前の女の子まで。男ももちろん)が織り成しています。そんな異国情緒的絵柄は表面にとどまるものでなく、女の子たちは(いや男も)早婚で、親が結婚相手を決め、それまでは処女でなければならず、そうでなければ結婚できず、したがって箱入りで門限厳しく、結婚後は家庭に入り、子だくさんで、云々、「え、これがソ連だったの?」と驚きを禁じえません。欧米流のフェミニストから見れば「未開蒙昧の女性残酷物語」のような世界ですが、それが彼ら自身に受け入れられている限りは、余計なおせっかいの対象にするべきではありませんね。私が注目するのは別のことです。
ロシア人(正確には「ロシア語人」)の娘は非常に露出の激しいなりをする。どうかすると、歩きながらビールを飲んでいるのがいる。欲望の開放と追求を是とする欧米社会の精神が体現されているように見えます。でも、それでいいのか? 個人の独立か何か知らないが、子供が長ずれば親を捨て、それが体系化されているのも欧米社会の特徴です。しかし、老人が家族の中にいるほうが自然ではないかと考えるほうが、ずっと自然に思えます。慎みも敬老も、アジア的と見なされるカッコつきの「美徳」です。欧米がよし、それに外れるのは遅れているのだと、小さい時からそう考えるように体系的に教育されてきたわれわれの異常さを反省してみる好機です。目の前には、それぞれ対等な中央アジアウズベク人と欧米代表ロシア人がいる。対照し両者の得失を考えるのに、これほどよい場所はありません。勝手に「世界標準」を標榜する欧米の流儀を「アジアの西方半島部の特異な習俗」と見なす視点を、この地で確かなものにできた気がします。
旧ソ連中央アジアは、日本人の世界地図に場所がありません。中東やアフリカは、ページ数が少なくても割り当てはちゃんとあるのだが、中央アジアはいまだに「旧ソ連」というくくりの中で、しかもそこではロシアしかほとんど扱われないのです。シルクロードという多分に観光ガイドブック的な概念でしか認められていない、その意味では日本人の世界認識の盲点の地で、頭や心のいろいろな部分を刺激させられました。非常に有意義な2年間を送らせてもらったことに感謝しなければなりません。学生や同僚、お世話になった方々はもちろん、この土地で知り合ったすべての人に感謝しつつ、今夕タシケントを立ちます。旅に出た驢馬は、ウズベキスタンの驢馬ほどに賢くなって、国へ戻ります。
(2004.7.30.)