フェルガナだより(9)

2月3月の頃から始まった当国日本語業界の弁論大会の季節も、あと5月15日の学習発表会(年少者弁論大会)を残すのみとなりました。4月17日のフェルガナ・リシタン大会の1週間後、24日の中央アジア大会では、ドンヨル君がウズベキスタン大会の5位に続き、6位入賞という勲章をもらいました。去年のこの大会は3位までが入賞だったから、彼にはよい風が吹いていたと言えるでしょう。学習発表会には本学語学センターの生徒が1人出場しますから、シーズンはまだ終わっていませんが、大きな山をいくつか越して、フェルガナ大学の日本語初年度は、学年末へのカーブの少ないゆるやかな下りにさしかかりました。「あやまちすな。心しておりよ」と、古人なら声をかけるところです。


<第1回フェルガナ弁論大会無事終わる>
4月17日土曜日、かねてより計画の第1回フェルガナ地方日本語弁論大会が行なわれ、つつがなく終了しました。17人が参加しましたが、そのうち入賞者は、
1位 ホシモワ・ユルドゥズ(フェルガナ大学語学センター)「思いやり」
2位 ナジロフ・ディヨール(のりこ学級)「たばこに好奇心がある子供」
3位 マダミノワ・マムラ(フェルガナ大学)「あなたにひまな時間がありますか」
特別賞ナジロワ・ノジマ(のりこ学級)「朝のことば」
結果として、三つの所属から1人ずつ、1位のユルドゥズさんは去年の夏までのりこ学級に通っていた子ですから、リシタン・フェルガナ仲良く半々でした。1−3位をのりこ学級に独占された場合(非常にありうるケースだと思っていました)、特別賞はフェルガナ大学にとお願いしていましたが、それは不要になりました。審査休憩にはのりこ学級・フェルガナ大学対抗で、箸で豆を別の皿に移す競技(各2人)、ケン玉(各1人)をやりましたが、のりこ学級の圧勝でした。歴史と子供の柔軟性がものをいいますね。
賞品の書類ケース各種は大学に提供してもらい、私が「露和・和露辞典」などを加え、参加賞の箸・筆・文具は日本のリシタン・ジャパンセンターから送っていただきました。のりこ学級は審査員の方々に記念の皿を贈ってくれました。
弁論大会に先立って、午前中に河東大使のロシア語による講演「現代の世界――その課題、日本の視点から」が、満員の聴衆を前に行なわれました。
審査員は、ウズベキスタン日本センター日本語専門家・JICAウズベキスタン事務所長・JETROタシケント事務所長・在ウズベキスタン日本大使館書記官・シルクロード(株)取締役営業部長と、とてもこんなローカルな予選レベルにはもったいない顔ぶれでした。名前だけ見ると、ウズベキスタン大会や中央アジア大会の審査員でおかしくありません。
大使は州知事との会談や、日本からの援助が入っている工場や施設の視察、日本センターの福島氏は日本語教育機関の視察、JICA所長は養蚕専門家を同道し工場を見学するなど、それぞれがいずれフェルガナ盆地に来なければならない予定を抱えていました。その日程をこの大会に合わせてくれたわけです。
実は、あのテロ事件があったので、タシケントからの客人は、福島氏以外はキャンセルになってしまうだろうと思っていました。あんなことがあった以上やむをえない、フェルガナはこんなに平穏なのだがなあと嘆息していました。それが、キャンセルどころか、事件以降にJETRO所長の来訪も決まるなど、かえってグレードアップしてしまいました。テロにも人質事件にもかかわらず来て下さったことに感謝するとともに、ひとつのメッセージにもなったのではないかと思います。闇雲に恐れ自粛するのでなく、情報を分析した上で冷静に判断し行動して下さったということに対しても、感謝しなければなりません。それにしても、この顔ぶれがそろうとわかったときから、この大会の最大の目標は、何事も起こらないことでした。交通事故もなく、無事にタシケントへ帰り着いてくれること、これのみです。この人たちが集まるというだけで事件なのだから、これ以上のポジティブな事件は望めない、起こるとしたらネガティブな事件でしょうからね。
審査では5点法という新機軸を打ち出しました。だが、これの評価は難しい。
この弁論大会は、5月の学習発表会のフェルガナ地区代表を選ぶという目的もありました。選ばれたのりこ学級5人・フェルガナ大学語学センター1人の計6人が、タシケントでスピーチします。来年の第2回は、2月中旬にウズベキスタン大会の予選として、おそらく2名になるであろう地区代表を選ぶことになるでしょう。


<フェルガナ大学日本語教育の長い歴史>
昨年9月に始まったばかりのフェルガナ大学の日本語教育ですが、実はその前に長い歴史があります。われわれの誕生が、父母の出会いからの長い前史なしに考えられないように。要約すれば、「三つの交流プログラム、二つの合弁企業、一人の志」によって、それは始まりました。
1994年、陶芸家ナジロフ・アリシェル氏が国際交流基金の技術交流プログラムで来日し、九谷焼の地に滞在したことがすべての始まりでした。そこで、韓国とウズベキスタン合弁の自動車会社「ウズ・デウ」の工場に機械の据え付けに行くことになっていた小松製作所の大崎重勝チーフエンジニアの訪問を受け、大崎氏ら小松のエンジニアチームはフェルガナ滞在中アリシェル氏の弟ガニシェル氏を雇い、そして大崎氏は、みなさんご存知の通り、退職後1999年に、アリシェル・ガニシェル兄弟の家のあるリシタンにのりこ学級を設立しました。この志から、フェルガナ盆地に日本語教育の種が撒かれたのです。
しかし2年後に大崎夫妻は罹病により帰国を余儀なくされ、のりこ学級は主を失いましたが、大崎氏去った後ののりこ学級を現地世話役のガニシェル氏とともに支えたのが、日本とウズベキスタンの唯一の合弁企業、(株)シルクロード営業部長としてナマンガンに住む寺尾近三氏夫人の千之さんでした。のりこ学級支援のためにリシタン・ジャパンセンターも作られました。
これと別に、ウズベキスタンの外国視察プログラムで、フェルガナ大学のウリノフ・アフマドジョン学長が2001年に訪日しました。日本の大学等を視察して感銘を受けた学長は、帰国後学内に「日本文化センター」を設けました。初代日本語教師の赴任まで空き部屋の状態だったとはいえ、日本語教育を始めるための準備は整っていたのです。
初代教師の赴任は、タシケント経済大で教えていた同人が、リシタン訪問を繰り返していた中で実現したわけですが、そのきっかけは2002年にタシケントで行なわれた交流基金日本語教育巡回セミナーでした。セミナー後に大使公邸で開かれた夕食会で同人はガニシェル氏と初めて出会い、誘われるままにリシタンへと足繁く通っていたのです。
こう振り返ってみて、フェルガナ大学の日本語は、国際的な人的経済的交流の積み重ねの中で、その中にいた人々の善意の共鳴作用であったとの感を強くします。投資がこれほどよく回転している例も珍しいのではないでしょうか。
「第1回フェルガナ地方日本語弁論大会」は、フェルガナ大学での日本語教育開始のメルクマールでした。審査委員長の席をあけて待っていましたが、治療のため来訪の叶わなかった大崎氏に、この大会は捧げられるべきでしょう。氏の、そしてアリシェル氏の健康を祈りつつ。


<このあいだ日本語習い始めた連中が弁論大会だって?> あるいは <5−6ヶ月しか日本語を習っていない学生はどんな作文を書くのか>
フェルガナ大学には1・2年生のクラスと語学センターの一般コースがありますが、弁論大会のための作文を書いた時点で、前者は「みんなの日本語」の8課(形容詞)が終わったばかり、後者は14課(て形:〜てください・〜ています)の途中でした。まとまった作文を書くのはまだ無理です。だが現実に彼らは4月17日にスピーチをしました。その無理をどのように克服しようとしたのか。これはけっこうおもしろいテーマです。まず、実物を見ていただきましょう。スピーチのために手を入れたあとの原稿です。


(A)「学生の問題」ムイディノワ・ライホナ(1年生)
わたしはライホナ・ムイディノワです。フェルガナ大学ウズベク語がくぶの1年生です。大学にはいってから、まだ1年たちません。でもたくさんのもんだいにであいました。そして、そのもんだいのなかでいちばんおおきいもんだいは、本です。
わたしたちのべんきょうは、ほとんどがこうぎです。本がたりませんから。学生はじぶんでじょうほうを見つけることができません。先生はじょうほうをこくばんにかきます。あたらしいものがでると、わたしたちに本のリストをかきます。しかし、としょかんでその本のはんぶんさえ見つけることができません。けっきょく、先生がこうぎをします。それでは、わたしたちは何もならいません。がいこく語をべんきょうするにはとてもよくないです。そしてむずかしいです。本がないと、うまくならえませんから。ことばをしる人が、そのくにをしります。いま、がいこく語のべんきょうはとてもじゅうようですが、わたしたちには1しゅうかんに1かいだけです。このじかんに、先生はこくばんにかくだけです。こうぎをうけるわたしたちには、それでは十分ではありません。がいこく語のべんきょうですから。これでは、どうしてもがいこく語をならうことはできません。コンピューターのへやにテレビがあります。テレビをつかえば、もっとよくべんきょうできるとおもいます。
どうしてこんなことを言うのでしょうか。わたしはこのもんだいがなくなってほしいです。学生がもっとよくべんきょうできるようになること、それがわたしと学生と先生のゆめです。そうすれば、わかものもウズベキスタンのこくみんもまじめにべんきょうし、はたらくでしょう。


(B)「あなたにひまな時間がありますか」マダミノワ・マムラ(1年生)
てつがくしゃにひとつしつもんしました。「せかいでいちばんふこうな人間はだれですか。」
その人はこたえました。「せかいでいちばんふこうな人間は、ようのない人です。」
わたしのスピーチのテーマはかんたんにみえます。このテーマは人びとのちゅういをあまりひきません。しかしこのもんだいはとてもじゅうようです。
時間はどんどんすぎていきます。みんな自分の時間にいろいろなことをします。かしこい人は時間をただしくつかいます。ぶんかてきなくにのわかものは、時のねうちがわかります。そしてくにははってんします。
ようのない人やなまけものは、あたまにいいかんがえがありません。この人たちはいい しごとをしません。おさけをのみ、まやくをすい、いろいろなわるいセクトにはいります。そしてじんるいのしょうらいにとってきけんな人間がうまれます。
ざんねんながら、さいきんわたしたちのくににはなまけものがたくさんいます。この人たちのだいぶぶんは、わかものです。この人たちはくにのためになにもしません。1999年にテロをおこしました。その人たちはおもにウズベク人でした。
ただしく時をつかうことは、せいこうをもたらします。これは学生のせいかつにもいえます。なんにんかの学生は、ひまな時間がたくさんありますが、その時間をただしくつかいません。これはよくないです。わたしのかんがえでは、人間は自分の時間についてけいかくがなければなりません。みなさん、時間をたいせつにしましょう。


(C)「ナマンガン」サマンダロフ・オイベック(語学センター)
ウズベキスタンのまちで、ナマンガンはいちばんしずかな、きれいなまちです。キルギスにちかいです。はながおおいですから、はなのまちといわれています。ナマンガンのりんごはあまくておいしいです。だからりんごのまちともいわれています。水が多くて、こむぎやおおむぎがたくさんできます。
マンガンにはいつつサナトリウムがあります。そこにミネラルウォーターのいずみやおんせんがあります。サナトリウムはとてもかいてきですから、いろいろなところから人がきます。タシケントから、サマルカンドから、ブハラから、人びとはきゅうかをすごしにきます。おおきいのや、ちいさいのや、いろいろなサナトリウムが あります。
マンガンにはたくさん安いしょくどうがあります。おいしいりょうりでゆうめいです。ナマンガンにきた人は、もちろんここにはいります。よっつのおおきいバザールがあります。ものがたくさんあります。みんな安いですから、まいにち人が多いです。
はくぶつかんがふたつあります。がっこうもたくさんあります。チョルトックのがっこうは、日本のえんじょをもらいました。こうじょうも多いです。ウズベクと日本のごうべんきぎょう、ウズベクとトルコのごうべんきぎょうなどがあります。
こうえんのとなりに 大学があります。大学にはいろいろな外国語のこうざがありますが、日本語こうざがありません。私たちは日本語こうざができてほしいです。ナマンガンにありませんから、私はフェルガナへ日本語の勉強にかよっています。
マンガンの人はおきゃくさんをむかえるのがとてもすきです。私たちのまちにきょうみをもってもらえたでしょうか。私のまちへきてください。きっときっときてください。きてくださったら、いろいろなところにあんないします。


ここには、外国語で作文する場合の3つのやり方の典型例があります。(C)初めから目標外国語(日本語)で書く。(A)母語ウズベク語)で書いた作文を翻訳する。(B)その中間。ウズベク語の下書きを参照しながら、基本的に辞書を引きながら日本語で書く、というもの。
(C)を読んだ日本語教師は、ふむふむと感心することでしょう。ほとんど既習の文法事項を使い、語彙も大半が既習で、6ヶ月勉強すればこれだけのものが書けるという見本のような作文です。「ナマンガンウズベキスタンでいちばん静かできれいな町だ」という、ナマンガンの人間以外の確実に100%が否定する見解の部分はともかく(郷土愛の発露として、微笑んでやりすごすべきところです)。
(A)(B)の作文、どちらが簡単に見えますか。(A)のほうが平易だと思う人が多いのではないかと思いますが、実は初級文法的には(B)のほうがずっとやさしいのです。語彙ならば、知らないものでも辞書を引けば出ています。しかし文法項目は、授業で習っていなければ、教科書も手元にない学生にはわかりません。そして8課を終わったばかりの彼女たちは、次の文法項目をまだ知りません。
(A):〜てから、いちばん、ことができません、でると/ないと、ならえません、しる人/うけるわたしたち、1週間に1回、つかえば、できる、と思います、のでしょうか、〜てほしい、ようになる、こと、でしょう。
対して(B):ひとつ(これすら未習!)、いちばん、みえます/いえます、すぎていきます、ただしく、のみ/すい、こと、なければなりません。
(B)のほうが文法的に簡単だということが、これでわかります。「ひとつ」「すぎていきます」「なければならない」を除いては、もちろん元の作文には書いてなくて(未習ですからね)、教師が手を入れて加えました。この内容を書き表すには、どうしてもこれらを使わないわけにはいきませんから。ほとんどが1年次に習う項目ですし。しかしながら上記3つについては、(B)の学生は、辞書か何かの例文例句から取ってきたのでしょう、自分で原文に書いてきました。
では、彼女たちが書いてきたまま(表記はいくらか直していますが)の原稿をご覧にいれましょう。


(A’[A初稿])
わたしはライホナ・ムイヂノワです。フレガナ大学のウズベキ語がくぶでいちばんこうろ学生です。わたくしにとってはあげますこの時にすいこうです。学生くるもんだいについてはなす。学生きかんのいち年もうおわりません。だいぶもんだいにあいます。そしてそのもんだいにとてもたいせつなもんだい本です。
このもんだいは学生と先生くるです。ウズベキスタンひるがえるくにそばたすせいねんの手でです。たいねんどうていどじょうずあると学生をならいます。わたしたちのせいかつにれんらくです。学生はこの先生と本をならいます。わたしたちのべんきょうはたびたびほうまん十分こうぎです。なんとなればふそく本です。学生はほうどう見つけるじゃありません。なんとなれば先生子にほうどうはかくです。まいどあたらしいものはいるわたしたち本のもくろくはかくです。学生はとしょかんでその本のはんぶんさえ見つけるじゃありません。とどのつまり先生こうぎをする。それならわたしたち何もならいません。がいこく語にならいますとてもよくないです。そしてむずかしいです。だれ言しるあなたはくにしる。今よう日で語をならいますとてもなければならないです。わたしたちでいちいっいです。このべんきょうでわたしの先生はこくばんにかくです。ならばこうぎをするわたしたちたくさんまデガです。なんとなればそのがいこく言です。そのけっかどうしてもできません。語をならいます。コンプュータはぶんめいのしんぞうです。コンプュータのべんきょうはもよくないです。だれにも十分。そのコンプュータのへやでテレビあります。それならえのどうぞよりよくわたしたちを教ます。すてきですね。わたしはこのもんだいを言。どうしてですか。あなたにけんめいするじゃありません。わたしの目てきはこのもんだいをすがたけすです。学生にぐあいよくそうぞうです。それはわたしと学生と先生のゆめです。それならわかものとウズベキスタンのちょっとはとてもかとならいますとたくさんろうどうをします。


(B’[B初稿])
ひとつてつがくしゃにしつもんしました:"せかいにとてもふこうな人間だれですか。"
あの人こたえました:"せかいにとてもふこうな人間しつぎょうしゃです。"
わたしのしゅだいはかんたんににるます。このしゅだいひとびとのちゅういにおくれました。しかしこのしゅだいとてもだいじです。
時間がどんどんすぎていきます。みんな時間にいろいろなすいこうしますが、じょうずな人時間にまっすぐすいこうします。ぶんかてきくにのせいねんはときのねうちわかります。おりをみてでくにはいいおきくならです。あんらくなところでときはたくさんいみすごします。わたしたち上手ですね。bezdel'nik(無用者、怠け者の意)人ののうでいいかんがえじゃありません。なんとなればbezdel'nik人はいいしごとをしません。そしてこの人あろくのみものをのみます、まやくをします、いろいろなわるいしゅうはのtecheniyaをします。なんとなれば人口にとしょうらいにとてもきょうはく人はしゅっしょうです。ざんねん さいきんわたしたちのくにでたくさんしつぎょうしゃ人間はあります。このしつぎょうしゃ人間のおもなとうが せいねんさくせいです。この人は くにになにもあげません。1999年にテロルのこうどうでした。このこうどうにおもウズベク人はあるした。まっすぐときはせいこうがprinosit'です。これは学生のせいかつにせつめいするます。しょ人学生にたくさんひまな時間ありますが、その時間にまっすぐすいこうじゃありませんしゅだいについてはなしあっています。このひとはあまりよくないせんもんといいひとじゃありません。
わたしのかんがえで人間は自分の時間がけいかくなければならないです。これからかぞくにと人口にすいこうひとです。
みなさん、じかんをたいせつにしましょう。


とうてい日本語でない文章があまた見られるものの、言いたいことはほとんどわかります。辞書形(終止・連体形)も連体修飾も未習だから、「にるます」だの「じゃありませんしゅだい」だのという妙な語句が現われたり、辞書の引き方が悪く、明らかに不適切な「すいこう」の語を多用したりしているのは、やむをえないとせねばなりません。
ウズベク語の作文を翻訳した(A’)の文は、(B’)に比べてずっとひどいが、一生懸命辞書を引きつくした愚直さが伝わります。(B)は、センスがあり、要領がいい。自分の知っているだけの文法知識で、最大限のことを言おうとしています。さらに、哲学問答という入りがいいし、そのあと「時間はどんどんすぎていきます」という文で主題へ導入していくところもきれいで巧みだ。作文の才能と言うべきですね。
こんな満足に作文も書けない初級中の初級者にスピーチをさせるということについては、いろいろな考え方があると思います。だが、少なくとも彼らはしたいのです。強制されているわけではない。彼らには言いたいことがある。しかし、当然のことながら、それがうまく言えない。けれど、見てください、奇っ怪至極な初稿の文章は、たしかに定稿のようになることが予定されているでしょう? 学習時間数の不足がそれをはばんでいるだけなのです。余人は知らず、うちにある未定形のものに形を与える作業は、私の最も好むところです。成長ののち美しく、または猛々しい姿になることを内包している胚芽、あるいは原植物のイメージは、限りなく魅力的です。近い将来、これだけのことは言えるようになるはずだと思われるところへと導くこと、それはやはり教育の重要な一部分だろうと思います。


<中間試験>
少し前の話ですが、3月の半ばに中間試験をして、ショックを受けました。教科書に準拠して作られている問題集の復習問題をやらせ、60点以下は不合格だと宣言して、採点してみたら14人中8人もが不合格になってしまったのです。さすがにそこまで淘汰はできず、40点以上だった4人には課題を課した上で続けるのを認め、39点以下を落第としました。
50課ある初級教科書の8課(6分の1)を終えたばかりでそんなざまでは、とうてい日本語ができるようになる望みはない。しかし、私は勉強を続けたい、もう一度チャンスをくれと泣かんばかりに訴える学生を追い出すのは、生木を裂くようなものです。いかなる人非人の所業ぞやと、帰宅してぐったりベッドに横になりました。
でもねえ。日本語は必修じゃないから、卒業するために必要な単位ではありません。いつやめたって不都合はない。日本語より英語をしっかり勉強したほうが絶対に有利です。この段階で60点も取れないようでは、続けたってそこそこできるというまでにもならないだろう。日本語の授業では毎回宿題が出ます。やってこないと先生は怒る。友達の宿題を写すという手間をかけてまで続けるか? 写してきても先生は怒るんだよ。
最低点(23点)を取った学生は、うちへ帰っても魂の抜けたようになっている、どうかクラスに戻してやってくれと、下宿先の伯父が訴えてきました。それでもはねつけていたら(そりゃあ23点だものあなた、だめだよ)、悪いことに(いいことに?)ちょうど私の誕生日に授業があり、その学生は授業に来て、プレゼントをくれ(時計でした)、以来ずっと出てきています。許可はしてないが、黙認です。義務ではなく、物質的な利益は何もないはずなのに、何が面白いのだろう? ヒマなのか?(この理由は強くあると思います) 私が好きなのか?(この理由はないだろう) 日本語はそんなに面白いのか?(だったらどうしてそんなにできないんだ?) 私の知らない世界です。功利主義に明白に反し、合理的でも合目的的でもない。相変らずの出来なのですが、いつも出席する彼を見ながら、フェルガナ大学の謎は深まるばかりです。


<到来物>
大きな催しもあったので、先月は来客が大勢でした。来客が多いと頂き物も多く、大使館・日本センター・JETROから書籍等を頂きました。ありがたいことです。
余談ですが。弁論大会前日の夕方に学長副学長が日本文化センターに現われ、何か必要なものはないかと問うので、本棚がほしいと答えたら、すぐに運び込まれたのに驚きました。翌日本や雑誌をたくさんもらったので、まさに好都合だったと喜んでいたら、大会後運び去られてしまいました。どこか別の事務室から持ってきたようです。頂戴物の本や雑誌は、かくしてテーブルの上に山積みになっています。壁面はただ一時の華やぎでした。代わって卓上が大賑わいです。


<テロ余聞>
 3月29日朝のタシケントのバザールでの爆弾テロ事件のあと、大学キャンパスへの入口は二つを除いて閉鎖され、開いているところにも守衛や当番の学生がテーブルを出して、学生証や身分証のチェックをするようになりました。道の向かいの外国語学部の建物も、通りに面した入口は閉ざされ、裏に回って入ることになったし、本部棟も同様に裏口から、警官の検問を受けて入らねばならぬということがひと月ほど続きました(警官の呼び止めというのは、ウズベキスタン名物ではあるのです。タシケントにいたときは、特に地下鉄で何度も警官にパスポート提示を求められ、その際難癖つけられることもままあったが、しかしフェルガナの路上ではテロ事件後も含め一度もなかったことは、言及しておくべきでしょう。ここでも警官は道でよく見るのですが)。
テロの報が広がった直後から、さまざまな噂を聞きました。いわくナマンガンでも爆発や銃撃があった、アンディジャンでもあった等々。むろんデマ、流言蜚語の類です。タシケントの学校で爆発があったというのも聞きました。アンディジャンあたりでは逆に、フェルガナで銃撃あったとでも言っているのではないかしら。情報統制の厳しい国だから、こうなります。情報伝達における口コミの割合が非常に高く、口コミは貴重な情報も伝えるが、誤報や誇張も当然多い。もちろん情報流通にほとんど制限のないところでも、一時的に情報が遮断されれば同様な事態は起きるだろうし、そっちのほうが普段の状態との落差ゆえにより被害が大きいということもありそうではありますが。
情報不足は外国でもデマを呼んだらしく、カザフスタン在住の日本人のメールに、国境で銃撃戦をやったそうだと書かれていました。
テロ後数日たったある日、大学近く、公園横の通りが封鎖され、警官が出ていました。爆弾の処理をしているそうです。おいおい、ほんとかい。考えられるのは、1.デマないし誤報による出動。2.抜き打ち訓練、または当局の示威行動。3.本物。まあ、3以外のどちらか、たぶん1でしょうね。その後何も聞かないところから見て。
 今回はデマを面白がる程度ですんだが、深刻なデマなら暴動なんかも起きて不思議はない。そんな浮遊感を一瞬感じました。
当国日本語教育界がこれで影響を受けそうになったのが、国境閉鎖です。4月24日にカザフスタンで開かれる中央アジア弁論大会にウズベク代表たちが出場できるかどうか。目下閉鎖されている国境をどうやって越えるか。空路なら大丈夫だが、それで行けるほど交通費を出してくれる大学は一つだけ。結局日本センターが大きなワゴン車を出し、公式のレターを書いて国境で提示することにして、残りの学生たちはそれで行くことになりました。その時までに国境閉鎖も解かれ、万事OKだったのですが、対応した日本センタースタッフのご苦労は察します。


<緑滴る春が来た>
 大陸の中緯度以上の地域には、夏と冬しかありませんね。春や秋はあってもごく短い。春の訪れを喜んでいたところなのに、もう季節は明らかに初夏です。しかし春の喜びのことはぜひ記しておかねばと思います。
 ロシア人の建設した町はどこでもそうですが、このフェルガナも縦横まっすぐや放射状の幾何学的な道の交差で成っており、かつ道が広く、街路樹がふんだんに植えられています。桜や梅によく似たアンズやアーモンドの花は3月にもう咲いていましたが、3月中は街路に高く聳えるプラタナスはまだ裸でした。それが4月初めの数日で、見る見るうちに緑の葉をふいて、道々に緑の尖ったアーチを現出させました。フェルガナは車少なく道広いので、いくつかの往来繁き主要道を除けば、住宅地区の道は車道を平気で人が歩いています。歩道もちゃんとあるのですが。うちから大学までは7、8分。大学は碁盤目の作りの2つのブロックを占めていて、そこを柵で囲い込んでキャンパスにしています。だから通りの1つが大学にさえぎられ、双方から行き止まりになっています(つまり大学の敷地には街路樹を含めた通りの一部が囲い込まれているわけです)。そのため私の通勤路は、両隣の道と対照的に、車の通りがほとんどありません。天気のいい日は木陰を、まだ折々あるやや涼しい日は陽の射すあたりを選んで、車道を悠々歩いて通います。人間サイズの町です。空間のゆとりは、時間にも、気分にも閑暇を感じさせます。その道が亭々と繁る緑の木陰ならなおさらです。
 春の日曜日、客人を見送ったあと、空港から歩いてうちに帰りました。ほんの1時間ばかりのよい散歩です。人口無慮20万と言っても、外れはまったく村の趣きです。街路樹の脇には溝が掘られ、木々を潤します。冬の間はなかった水が水路をさらさら流れているのを見るのも、春の景色です。これから溝が分かれて、門の下を通って家の中へと入っていくのは、中庭の果樹や野菜畑を灌漑するのでしょう。水路のそば、木の繁った木陰に作りつけられた簡単な長い腰掛けに、少し大きな子供たちが次の遊びの企みをしている横で、小さな子供は水遊びに余念がない。庭先にたむろして何やらくつろいだ話をしている若者の一人は、ラジオから流れる音楽に両手を伸ばして踊っている。派手な色づかいのワンピース様のものを着て、下に同じ生地のモンペをはいた女の子たち。ある溝では家鴨が泳いでいるし、別のところでは鶏が走りまわる。空港近くの道端では、羊が草を食んでいたぞ。バザールの近くらしきところには、安直な露店が並ぶ。大きな音をたてるものがあるなと見れば、トラクターの押しがけをしています。さてエンジンかかって去っていくトラクターに手を挙げて、手伝った二人は別の方へ行く。すると通りがかりの者だったのか。木陰と水の流れる横をたどり、だんだんと街中らしくなっていく辺りの様子を楽しみながら、小一時間で帰り着きました。何か唐詩にこんな眺めが詠まれていなかったっけ? 水村山郭酒旗の風、南朝四百八十寺。いや、ちょっと違うなあ。気分はだけどすっかり唐詩だ。そうもあろうよ、一続きの大陸だからなと、妙に納得してしまった散歩でした。さて、腹もへった。昼飯の時間だ。


<夏営地へ>
 冬の間は台所が仕事場でした。一等初めは、浴室のボイラーだけが熱源でしたから、廊下で仕事をしていました(今もメールチェックの場所は廊下です、コードの関係で)。そのころは台所は大きな冷蔵庫でした。やがて冷蔵庫(非常に小型の)がはいると、ガスレンジをストーブがわりにつけっぱなしにすることで、台所がいちばん暖かい場所となったため、ここを仕事場兼居間にするようになったわけです。本来居間であるべきいちばん大きい部屋は、いちばん熱源から遠いので、本置き場兼更衣室になっていました。アパートは北向きで、台所の窓だけ東を向いています。授業はすべて午後からなので、11時に出勤し、6時ごろ帰ってくる生活です。もともと朝型なので、仕事は朝のうちにやってしまう。朝の陽射しが差し込んでぽかぽか暖かいのも、冬の台所を居心地よくしていました。
 しかし春が来て陽射しが強くなると、ここでは暑すぎます。暖房も不要になるどころか、ガスをつけると暑すぎるなと思っているのもほんの束の間で、すぐに涼しい場所こそ快適になり、かくして4月23日、仕事場が居間に移りました。今は冬とは逆に、台所は湯を沸かしたり料理したりするときだけ我慢して使われる空っぽの場所になりました。羊の群れのごとき季節移動、冬営地から夏営地への移牧が完了したわけです。大きからぬアパートをカザフの大草原に見立てて、一人喜んでいます。すべてが世界の似姿です。永劫回帰、かな?
 あ、そうそう、今はテレビもあるのですよ。3月15日につきました。ジグリ1台で運べるほどの家財でしたが、もうジグリじゃだめだよ、トラックでないと。循環の物語には、成長の軌跡も織り込まれています。
(2004.5.9.)