フェルガナだより(6)

もう二月。まだ春分まで1か月半あるのですが、日は確実に長くなってきました。大学からの帰り道、この間まで真っ暗だったはずの時間に、紅い夕陽が木々の間にかかっているのを見ました。今日は驚くような快晴だったからなあ。道は広く建物は低いフェルガナの街角だから、あんなに低く大きく見える。不思議の縁でここまで来たよ。自分は変わらぬつもりだが。ただ一時眺めた夕日の輝きが、もの思わせる晩冬です。


<日ウズ辞典の例文求む>
初級教科書の語彙(2500語程度)を収録し、用例や説明を多く載せた日ウズ学習辞典を計画しています。その中で、ウズベク語・ロシア語話者のよくやる語彙レベルの間違いについて、説明を盛り込みたいと思っています。たとえば、「働く」= rabotat', ishlamoq ではない。「働く」のは人で、「エレベーターが働かない」「店が働かない」とは言わない(正しくは「エレベーターが動かない」「店が閉まっている」等)というような事柄です。
単に説明するだけでなく、例文で示すのも効果的かと考えています。これも非常に多い誤り、「2月、日本にいました」「去年の2月ですか」「あ、すみません、まちがえました。2か月いました」。また、彼らがなかなか区別できない長音について、「おばさんをおばあさんと呼んだらおこられますよ」「彼女は彼に好意を持っていたが、いつか彼に恋をするようになった」。「こうい」と「こい」は音の長い短いだけの違いだが、意味は、なまじ似ているだけに、間違うととんでもない深手を負うかもしれないよ。日本語学習者は若い人が多いので、おそらく身近であろう事柄に対し、似ていながら決定的に違う二つの言葉に注意を喚起する。「彼女はわたしの恋人です。愛人ではありません」。これが「彼はわたしの恋人で、ちょっと変人です」となると、似た漢字に要注意の例になります。
また、この際日本についての誤った情報も正しておきたい。「日本人はヘビを食べない」(ロシア人はわれわれが蛇を食べると思いこんでいます。どこから出た誤報だろう)。「酒は米から作ったワインで、ウォッカではない」(酒=米のウォッカというのも、根絶しがたい誤解です)。
逆に、「雨が降ると、日本ではみんな傘をさすし、道がせまくて人が多いので、歩きにくい」というような、ウズベク人の見た日本も取り込みたいと思います。
そこで、読者の皆様に少々お願いがあります。ふだん接していて気がついた、ウズベク人・ロシア人が日本語を話す際、誤りやすい躓きの石の例をお知らせいただけないでしょうか。ウズベク人・ロシア人の方には、自分の経験に照らして、しばしば間違えた言葉や言い方をご教示いただければと思います。初学者のための辞典をもっと役に立つものにするために、ご経験をお寄せ下さい。
ちなみに「きれい」の項目の例文は、「フェルガナはきれいな町だ」。本当ですよ。辞書に書いてあるから、確かです。


<試験と成績についてのあれこれ>
2月2日から前期試験期間に入りました。2週間、試験のあとの休みを入れて3週間授業がなく、ゆっくりできます。日本語が始まったばかりのフェルガナ大学では、将来はともかく、今のところ自由選択科目ですから、試験は後期にだけすればいいし、成績は最終的につけるものの、学生たちの死命を制するような重要度はありません。これは本当に助かります。というのは、私はこの季節が大嫌いなのです。成績をつけるのはいやな作業で、きっとこの時期人相が悪くなっていると思います。学生がいい点を欲しがるのはわかるが、4をつけて泣かれたりすれば、それは困ります。4以外のどんな点をつければいいんだ、これだけ欠席して、試験がこのざまで、5でないことは確かだろうがとこちらは思っているが、主観と客観が一致することはなく、根本的に立場を異にする教師と学生は、偶然接近する二つの惑星軌道に過ぎないと思い知らされます。じゃあ全員に5をつけて、「仏の若林」と言われたらいいだろうとお考えかもしれないが、そこはそれ、業の深さで、不公平なことはならんという強力な刷り込みがあるのですね。威丈高な教師になるのもいや、卑屈な学生を見るのもいや、こうして人相が悪くなっていくのです。
ロシアやウズベキスタンで何年か教えて、こちらの成績のつけ方が幾分わかってきました。1から5までの5段階評価で、5が最高点、2・1は落第点(しかし1をつけたという例は聞いたことがありません)という、一見日本でやっているのと似た評価法だから、新来の日本人教師はきっととまどいます。実は、こちらの5には日本の4と5が含まれ、4は日本の3、3は日本の2で、2は1に相当すると考えたほうがいいと思います。新人教師が何気なくつけた3はスキャンダル、2はテロリズムなのです、ここの学生にとって。
赴任した日本人教師がまず驚くのは、試験のときかなり大っぴらにカンニングをしていることです。人の答案を見るのはもちろん、答えを聞いている。カンニングに対して罪悪感が欠如しているのではないか。それは、教師に向かって「先生、この答えは何ですか」と聞くに至って、極まります。ペーパーテストに慣れていない、というより、試験文化がかなり違うと言ったほうが正確です。みんなで助け合って、みんなでいい点を取ればいいと思っている節もある。隣の者の答案を覗いている学生がいる、見れば相手も見せてやっているのです。「見せるな」と叱ったあとで、困っている人を助けずに、自分だけいい点が取れればいいと考えるような人間を育てるのが教育だろうか、と考え込んでしまいます。これからは「見るな」とだけ言おう。カンニングする学生も、その他の点ではたいがい善良で、よい父よい母になるに違いないと思われるだけに。
専門家でないので、長い科挙の歴史のある中国はともかく、日本に今のような試験文化が根づいたのはいつごろのことかよく知りませんが、恐らく近代以降のこと、日本の近代化の成功を支える大きな柱の一つだったのでしょう。しかし当然ながらその弊害も大きいはず。ペーパーテストの結果で人生が左右されれば、それは誰も必死になるし、試験の公正さに対する要求も強まる。しかし人間の評価がたかが一片の試験の結果にばかり大きく依存するのは、評価の放棄とさえ言えるのではないでしょうか。本来内部にあるはずの決断を、外部の、それも紙切れに託す責任回避ではないか。虚心に見れば、マークシートで何かがわかると考えるほうが異常です。一定時間内に一定量を律義に塗りつぶす能力があることは確かだから、オートメ工場の流れ作業員としてはさぞかし優秀でしょう。規格製品作りにすぐれた日本だが、それは作るほうも規格製品化しているからではないかという空恐ろしいことも、ここの学生の試験の受け方を見ていて考えさせられます。だからといって、相変わらず叱っているのですがね。「そこ、見てはいけない!」
筆記で困るなら、口頭試験をやればいいか。しかしこれは日本人には無理ですね。口頭試験で、その「文化」の中で育った教師なら、そのやり方を体得していますが、筆記試験しかやったことのない日本人には、これは本当に難しい。口頭試験は一人ずつ面接していくことになるが、その最初から最後まで同じ判断基準を維持できる自信がない。筆記のように数字がはっきり出ず、主観的な要素が強いから、判定に納得しない学生に対して根拠をしかと示すのも、われわれには難しい。人の答え見ちゃいけないんだよということを含めて、筆記試験にこだわることになるでしょう(これも「日本文化の紹介」か)。
一方で、日本人教師というのはだいたい学生には好感を持たれます(むろんそうでない教師もいるだろうし、私がその一人でない保証は何もありませんが)。それは目標言語のネイティブ・スピーカーだということ、外国からのお客さんだということにもよるでしょう。驚くべき客好きの彼らにしてみれば、この二つを兼ね備えているのは輝かしい魅力かもしれません。だがそのほかに、もっと重要な理由もあるのではないかと思っています。日本人は金を取らない。まあ例外はあるかもしれませんが(「世の中は三日見ぬ間の日本かな」。帰国するたびに、日本ってこんな国だったっけ?と思わされるような出来事にぶつかる昨今、どんな事例に遭遇するか知れたものではないけれど)、あったってごく少数です。それは金で成績が買えないということでもあります。いかにその原則に反することが横行していても、それは明らかに正しいことであり、そういうことをしている者に親愛や敬意を抱くのは、人間の自然です。
また、学生を対等に見ていること、言葉が不自由だから生活上で学生の助けを借りなければならないことが多々あり、それに対して感謝の念を持っていること(大多数の日本人教師はそうだと思います)も、親近感の理由でしょう。特にロシアなど、教師と学生の関係は将校と兵隊のようなものだなと感じることがあったので、そう思います。
何にせよ、好かれるのはけっこうなこと。日本人であるという理由以外で、好かれるようになりたいものです。


<トイレのいろいろ>
以前学食のことを書いたとき、これから折に触れフェルガナ大学の紹介をすると言っておきながら、その後次々に書きたい話題が出てくるものだから(それがいいことなのかはともかく)、ついつい後回しにされていた生活案内、今回は出すほうです。
私がいつもいる「日本文化センター」(名前だけやたら立派な2階の小部屋)は、本部棟にあります。大学の創立は1930年ですが、この建物自体はもっと古く、帝政時代のものでしょう。そのためか、建物の中にトイレがありません。本部棟だけでなく、他の古い建物もそのようで、外へ出て構内を横切ったところにトイレの建物があります。赴任時にはちょうど工事中で、改装されてとてもきれいになっています。仕切りもあるし、ドアもある。だがどちらも低いので、まずまずの背丈の者なら覗けます(好きこのんで覗きゃしないでしょうが)。和式と同じしゃがむスタイルで、ただ水を流す紐もレバーもありません。一定時に全部に水が流れるようになっている。個別に紐をつけたって、どうせ早晩壊れるに決まっているのだから、これは実に賢明です。ドアの高さ(低さ)に若干不安を覚えるものの、全体としてまことに結構、ために私のフェルガナ大への評価はぐんと上がりました。新時代の幕開け、黎明、なんて言葉も浮びます。
しかし、道路の向かい、日本語の教室のある外国語学部棟の便所となると、「ソ連時代を今に伝える」もので、間仕切りはあるがドアがない。洋式で、けれど便座がない(家の外のトイレに便座を求める気持ちは、もう15年このかた失って久しいのですが)。だから便器のふちに足をのせてしゃがんでいるおじさんと目を合わせたりします。屋内にあることだけが唯一のメリットです。
洋式便器は楽だから、日本ではすっかり普及しています。あまつさえきれい好きなわが国民は、「便座クリーナー」なるものまで作っていますが、そんな小賢しい不要不急物をせせら笑うような便座の非在は、一種痛快ではあります。わが身の切られる痛快さですが。便座というものがないとなると、和式のほうがよっぽど清潔で便利です。それにあらぬか、カザン教育大のトイレには、お馴染み便座なしの洋式便器の両斜め前に、煉瓦を積んで足台が作ってあります。小用のときにはそれが踏ん張る足の邪魔になるのですがね。
ハバロフスク教育大にいたときは、寮に住んでいたし、日本センターがすぐ近くだったので、そのどちらかを使うようにして、大学のトイレはついに一度も使いませんでした。前任者から避けたほうがいいと聞いていたし。ただ、一度だけ覗いたことがあります。客人を迎え、授業で生け花の実演をやってもらったとき、水を汲むために入ったのです。授業時間中だから誰もおらず、バケツに水を入れている間、ちょっと中を覗いてみました。するとドアはおろか間仕切りもない空間に、便座のない便器が並んでいるだけでした。ははあ、前任が忠告したのはこのためかと納得したが、水がいっぱいになろうかというところへ、同僚の若いロシア人女性教師が入って来たのです。「あら先生、何をしているんですか」とにこやかに話しかけてくる。生け花をやるので準備してるんです、よかったら見に来ませんか、などと言いながら、内心大胆だなあと思っている。この時点ではまだ男子便所だと信じているから、手を洗うだけとはいえ、ここへ入ってくるのかと驚いているわけです。すると話しているわれわれの後ろを、女子学生がすたすた中へ入っていく。ここでようやく、間違えていたのは自分だと気がつきました。いやはや、これが日本だったらスキャンダルです。変質者扱いされてしまうでしょう。それが談笑だからなあ。あの国の大らかさにはいつも驚かされます。しかしいかにロシアといえど、中を覗いたときもし誰かがいたら、やっぱり変質者でしょうが、ひょっとしたらその場合も、次に顔を合わせたときにやにやされる程度ですんだかもしれないとも思います。いや、島国のこせこせしたわれわれには真似できない大らかさだ。ロシアに対して何か腹を立てることがあったら、これを思い出すことにしています。多少のことは許せます。
この話題は楽しいので、ついつい長くなりました。言いたいのは要するに、定点観測の重要性です。どこからだって世界は見える。同じ場所から観察すれば、よりよく眺められるだろう。それがトイレだったらなおさらかどうかは、まあ別にこだわりませんが。


<フェルガナ盆地工芸の旅はいかが>
この冬、のりこ学級に陶芸工房が完成しました。窯が2基作られ、隣の部屋には長い机が取り付けられて、陶芸を学びたい子供たちが指導を受けられるようになっています。ガニシェル氏の2人の兄アリシェル氏、バフチヨル氏はともに陶芸家で、彼らやそのほかの親方職人が子供たちの指導にあたってくれます。待望の施設の完成と言っていいでしょう。リシタンはウズベキスタン随一の陶芸の町、そこで子供たちへの文化の伝習が容易にできるようになったのは歓迎すべきことです。これで学級は一段高いレベルに進みました。もともと無料で学校余暇に日本語を教えるのりこ学級の場合、日本語の上達は目的の一部で、人格教育、押し付けでない感化による教育施設だと私などは認識していましたが、日本語以外の活動が現実に出てきたことで、ステージが一つ上がったと思います。個人的な意見ですが、干し柿や紙漉きなどさらに活動の幅を広げ、のりこ学級の活動を通じて新たな地域の特産品を作るというレベルまでさらに上げていってほしいと希望しています。
陶芸工房の完成により、これまで陶器が陳列してあった部屋が空いたので、そこが図書室になる予定です。これもまことに結構。純粋ボランティア施設がこのように充実発展していくのを見るのは爽快です。
工房の完成は、同時にフェルガナ観光のよい拠点ができたことも意味します。陶芸の町といいながら、今まで観光客は、陶芸家ウスマノフ・ルスタム氏の家の中にある私設博物館を見学するか、個人的な伝手で陶芸家の家を見せてもらうことしかできませんでした。この陶芸工房は開かれた、誰でも遠慮なく訪ねられる施設になるはずで、訪問客はここで陶器の絵付け体験をすることができます。タシケント在住の方には、所用でガニティコを駆って出向くことの多いガニシェル氏が、焼き上がった皿を届けてくれると思います。この陶芸教室の難点は、市の中心部から遠いこと。しかし日本人にとってはのりこ学級がリシタンの中心ですから、これはむしろ好都合でしょう。のりこ学級と陶芸施設というリシタン名物の二つを一度に見られるのですから。
フェルガナ盆地にはいい観光名所がなく、交通の便も、本来の交通路であるシルダリア川沿いのルートがタジキスタン領になっていて通れないため、バスの通れない峠越えの道を取らねばならぬこともあって、ウズベキスタン観光の中で重要な位置を占めることができませんでした。フェルガナ行きは、ヒワやブハラ、サマルカンド観光を終えたあとでのこと。だが、「義務」を果たしたら、ぜひおいであれ。失望することはないと思います。この地方のガイドブックとしてお勧めできるのは、いささか古い紀行文ではありますが、今も井上靖の「遺蹟の旅・シルクロード」です。フェルガナ地方というより、ウズベキスタン全体にわたってとてもいいガイドです。これを越えるものはまだ書かれていません。
中央アジアの三汗国として並んで語られるブハラ、ヒワ、コーカンドのうち、前二者は今なお旅行者を引きつけてやまない魅力を持っているのに、コーカンドだけはその列から落伍しています。コーカンド汗国の歴史が短いこともあるでしょう。ヒワ汗国は16世紀に成立したが、コーカンドのほうは18世紀だし、ヒワ・ブハラ汗国がロシアの保護国となりながらもロシア革命まで存続していたのに対し、ロシア侵略の正面にあったコーカンド汗国は、それより半世紀近く早い1876年に滅ぼされ、ロシアの直轄領になりました。さらに1918年、ロシア革命の勃発後、コーカンドは「トルキスタンムスリム自治共和国」を宣言する人々の拠点となり、結果タシケントボリシェビキ軍に征圧されて破壊と虐殺を受けたため、古い建物がほとんど残っていないのです。わずかに残るフダヤル・ハーン宮殿(今は博物館)は、フェルガナ盆地の数少ない建築物の名所旧跡です。一見の値打ちがあります。また、ここにもある抑留者の墓地も、日本人には興味があるかもしれません。
そんなわけで、フェルガナ観光の目的は、ヒワ・ブハラ・サマルカンドとは違います。それは工芸の旅ということになるのではないでしょうか。フェルガナの隣町マルギランのヨドゴルリク絹織物工場を見学するのもおもしろい。明治時代はこうだったかと思うような工場です。工場には売店があり、アトラスの布がたくさんあります。陶器にせよ絹織物にせよ、タシケントでより安く買えます。まさにシルクロード、中国から伝わった二大産品ですね。
ロシア人によって1877年に建設された新しい町フェルガナ自体に観光名所はないけれど、宿泊と休息の拠点になるでしょう。美しい公園が町の中心にあり、小ぢんまりしたいいホテルもあります。陶芸教室の完成を期に、ご来訪を呼びかける次第です。
(2004.2.10.)